作雨作晴


日々の記憶..... 哲学研究者、赤尾秀一の日記。

 

toxandoriaさんとの議論

2007年05月15日 | 芸術・文化

 toxandoriaさんとの議論

toxandoriaさんのブログ(『toxandoria の日記、アートと社会』http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20070514)を読んで、それにコメントをお送りしたところ、次のようなコメントを返していただきました。こうした議論に多少の興味を持たれる人もいるかと思い、記事として新しく投稿しました。toxandoriaさんに許可はえていませんがよろしくお願いします。もし不都合のようでしたら消去します。


そら『toxandoriaさん、TBありがとうございました。ドイツ旅行記など楽しく読ませていただきました。もうドイツからは帰られたのでしょうね。

それにしても、あなたの「ドイツ旅行の印象」に掲載された、ドイツの市街地の光景は、わが日本のそれと比較して思い出したとき、(「冬の大原野」http://blog.goo.ne.jp/askys/d/20070120)あまりにも憐れで貧弱で涙が出そうになります。

私自身は海外旅行での経験は実際にないので、それは正確な認識ではないのですが、この予測はたぶん誤ってはいないだろうと思います。民族や人間の「精神」の問題に関心をもつものとして、私には民族精神の現象としての市民生活は引き続き興味あるテーマです。


たとい経済力で世界でGDP第二位とか三位とかいっても(その功績を毛頭否定するつもりはありませんが)、肝心の文化的指標においては、いつ西欧、北欧の豊かな文化環境に果たして追いつき追い抜くことができるのかと思うと、絶望的になります。「幸福度」という絶対的な尺度においては、日本人はいったいどの程度にあるのだろうかと思ったりします。


民主主義の制度と精神についても同じように思います。あなたのブログ記事もいくつか読ませていただいていますが、あなたもそこで日本人の国民としての「カルト的性格」についての懸念を示されているようです。

ただ、それらの指摘について同意できる点も少なくありませんが、また同時に、必ずしもあなたの考えに賛成できない点も少なくないようにも思います。日本の民主主義についてあなたほどには絶望していないし、希望も失っていないということに、その根本的な相違は尽きるでしょうか。

現在の安倍内閣についても、確かに多くの懸念は持ってはいても、それに対する評価についてはあなたほどには辛くはないというのが、私の現在の立ち位置であるように思われます。むしろ、私が現在もっとも深刻に感じている問題は、安倍内閣にではなく、主にテレビ業界をはじめとするマスメディアの退廃と堕落、教育と官僚と大学の無能力です。そうした文化の退廃は全体主義の反動を呼び起こしてもやむを得ないくらいに考えています。その意味で、私はプラトンのような全体主義は必ずしも否定はしていません。

あなたにTBをいただいて、現在の感想を簡単に述べさせていただきました。ただ、これはあなたのブログをまだ表面的に読み込んだだけの意見に過ぎませんが。


       そら(http://blog.goo.ne.jp/askys)』 (2007/05/15 15:04)

 

 toxandoria 『“そら”さま、コメントをいただき、こちらこそありがとうございます。

ご指摘のとおり、必ずしも経済力と幸福度は一致するものではないと思います。さらに、それは必ずしも知的という意味での精神力の問題でもないようです。やはり、“分をわきまえて足るを知る”という人それぞれの煩悩との闘いの問題なのでしょうか?

日本人の「カルト的性格」については、もっと多面的に考察すべきと思っていますが、今のところでは、やはり欧米のような「市民革命のプロセス」の不在ゆえに吹っ切れていない、悪い意味での歴史の残り滓(のような病原体?)が存在するような気がします。つまり、決して絶望している訳ではなくハラハラしながら観察しているといったところです。

恐らく、それは日本人的な良さの面でもあるのでしょうが、その“弱点”(?)を承知の上で狡猾に利用しようとしたり、或いは、そのような日本国民の善良さを逆手に取り、ひたすら上位下達的、権力的に安易に国民を支配しようとするアナクロ感覚の為政者たちは、より厳しく批判されて然るべきだと思います(実は、これらの“人種”に接近遭遇して些か嫌な思いをしたという原体験ゆえかも知れませんが・・・)。

京都芸術大学あたりの自然は出向いたことがあるので承知しておりますが、まだまだ綺麗な自然が残されている方ではなかったでしょうか。いずれにしても、京都市内及び周辺の都市開発のアンバランスな姿が目立つことは確かですね(京都に残る寺社や自然が好きで、時々たずねております)。

記事でも書きましたが、日本の京都のような位置づけ(ドイツ文化を象徴する都市?)であったドレスデンは、連合軍による猛爆撃でことごとく破壊されたにもかかわらず、よくここまで修復し再建できたものだと、実際にこの目で見て驚き、感動しました。

古い都市景観や建造物を大切にし、徹底して修復し、保全するというヨーロッパの価値観と感性の元にあるものは一体何かということが、今ふたたび自分への問いかけとなっています。昨年の夏にブルージュ(ベルギー)でも同じような心理となりました。石の文化やキリスト教の信仰心のためだというだけではなさそうです。そして、最近は古代ローマ文化との接点が気になっています。

メディアの堕落(=商業主義への異常な傾斜)と大学の荒廃についても同感です。特に、大学についてはプラグマティックに一般教養を切り捨てたことが荒廃傾向に輪を掛けたのではないかと思っています。

今後とも、どうぞよろしくお願いいたします。』 (2007/05/15 17:37)

 


 

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明るい民主主義 (そら)
2007-05-17 17:06:37
toxandoriaさん、TBありがとうございました。あなたの記事も読ませていただきました。陽気な明るい民主主義はもちろん賛成です。というよりも、民主主義において情報公開が進み、モラル正しい国民大衆と政治家たちによって正しい政治が行われれば、そして公明正大な社会になれば、その結果として陽気で明るい民主主義になってゆくということなのでしょう。不公正を笑いでごまかすことであってはならないと思います。

また、あなたのご意見で気になった点を一つだけ書かせて貰います。それは国家権力の、警察や司法の暴力と、やくざや暴力団の暴力の本質的な差異を認めないのは、あまりの「暴論」であると思います。後者は否定されるべきですが、前者は国民の生活に必要不可欠のものです。私の直感ですが、マルクス主義の「ブルジョア国家性悪説」の呪縛があるのではないでしょうか。戦後世代にはそうした傾向が強いように思います。私の誤解かも知れませんが。

あなたの記事に直接コメントしようと思いましたが、できなかったのでここに書きました。
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バイオポリティクスの暴力について (toxandoria)
2007-05-17 18:50:05
“そら”さま、コメントありがとうございます。

「明るい民主主義」は、今のように経済環境が上向きになりつつある時こそ有効ではないかと思っています。NHKのアンケート調査で「集団的自衛権」を理解している人の割合が僅か8%に止まるような日本の民度の低さについて、怪しからんと怒ったり、批判することも大事ですが、なぜこのような状況が大問題なのか、なぜ「前のめりの改憲論」が有害であるのかなどについて、できる限り分かり易く説明し、フランクに話し合えるような社会的な雰囲気づくりが必要な気がします。

善しあしはともかくとして、このような点では連立与党の戦略が先行しており、民主党・社民党・共産党などの野党は、そのような必要性すら未だ感じていないのではないかという疑念を持っています。

この点は、もう退陣することになってしまいましたがイギリス労働党のブレアの戦略(ニューレーバー政策を成功させた)などを学ぶべきであると思います。

現状のように、実際の社会生活では政治的話題をできる限り忌避するのが良識だというような雰囲気の日本のままでは、いつまで経っても成熟した民主主義のレベルに到達することができないと思います。

先鋭な問題意識と公正な批判力を持つ少数派の人々やインテリ層の見識のようなものが内輪(ブログ・掲示板なども所詮は一定の範囲の内輪か、せいぜい同様な問題意識を持つ人々の内輪に止まるという意味で閉鎖性がつきまとっています)で堂々巡りしたまま、あるいは空回りしたままの状態でエネルギーを消耗し、それだけのことで終わってしまうような危惧を感じています。

「暴力の問題」については一応の説明を書いたつもりでしたが、書き方が不十分であったかと思っています。

人に対する拘束力や強制力を持つという意味では重なる部分があるかも知れませんが、国内の司法権力と暴力団の暴力性を同一視してはおりません。

むしろ、公正な司法の役割は非常に重要だと思っており(=その意味でも冒頭にリブラの画像を出しておきました)、今回の中立・公正で「陽気な論憲」の考え方も、実は、一つの事例として引用させて頂いた堀田 力氏(元・東京地検特捜部検事)の提言に注目し、そこからヒントを与えて頂いたものです。

視点を変えると、これは国際法(国際司法)の問題ともつながります。しかし、現実の国際関係(=国際関係のリアリズム)は、例えばブッシュ政権のアメリカ(一国主義/ユニラテラリズム)のように国際法を無視して剥き出しの暴力を行使する国が現れれば(=国家権力の暴走)、世界は事実上の無法地帯と化します。

従って、同一視できるのは「戦争の暴力(この場合は暴走した国家権力)」と「暴力団やヤクザなどの暴力」ということになります。

このような観点から暴力の本質についての定義を深めているのがバイオポリティクスの考え方です。従って、これはマルクス主義とは何ら関係はありません。

因みに、マルクス主義の視点からの批判力(いささか悲観的過ぎると思いますが・・・)は、今でも有効だと思っています。しかし、もはや左翼VS右翼の論理(=東西冷戦構造時代の論理)が通用するような時代ではないと思っています。

なお、バイオポリテイクスと暴力の本性についての論は、機会があれば詳しく書いてみたいと思っています(実は、大分前に書いたことがあるのですが、できればリライトしたいと思っております)。
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ブレア政権の評価 (そら)
2007-05-21 19:12:50
toxandoriaさんTBありがとうございました。その後も、あなたのいくつかのブログ記事を読ませていただきましたが、やはり多くの点で評価や価値観やが異なるようです。その一つに、すでに退陣の決まったブレア政権などの評価があるようです。


このブレア政権については、私はむしろ高く評価するもので、ブッシュ政権の誤りは、戦争目的ではなく、戦争後の占領統治政策の欠陥と失敗こそが問題だったと思います。占領統治責任者の人選の問題や、少数精鋭主義をとったラズムフェルド国防長官の対イラク軍事戦略を批判した、シンゼキ陸軍参謀将軍がいます。また、イラク国民が本当に民主主義を欲しているのかという問題や、そして、まさしく戦後日本と同様に、イラク国民の民主主義に対する主体性にこそ大きな問題や欠陥が潜んでいるのだろうと思っています。
ブレア首相にとって、他に選択の余地はなかっただろうと考えています。

また、現在遅蒔きながらですが、アメリカにも「イスラムに民主主義は可能か」という反省が起きているようです。

日本の戦後民主主義の問題にしても、問題意識には共通するものがあるとしても、その原因や評価についての考え方に隔たりがあるように思いました。あなたの記事の一部を読ませていただいただけの感想ですので、まだ直感的なものに過ぎませんが。さらに勉強させてもらおうと思います。
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人それぞれが大切だと思います (toxandoria)
2007-05-21 20:57:41
“そら”さま、いつも懇切なコメントをありがとうございます。

そうですね、人それぞれの立ち位置が異なって当たり前と思うのが先ず大切だと思います。toxandoriaはどちらかといえば経験主義的なところがあると思います。そのためか、プラトン的アリストクラシーよりもアフォーダンス理論のような発想により共鳴するところがあります。

たまたま、ドイツ旅行帰りなのでドイツ観念論的な記事が多くなっていますが、本来はドイツよりもフランドル(オランダ・ベルギー)の異文化交流的な雰囲気が好きで、英国の「文化寛容的な雰囲気」も好みです。

なお、最終的にブレアを許さなかったのは英国民ですね。ブレア流のニューレーバー政策の中身を少し覗いてみると、日本に比べて遥かに市民寄りの目線で取り組む施策が多いのに驚かされます。従って、日本的な感覚からすれば、なにも英国民はそこまでブレアに厳しくなくても良いのでは・・・とも思っています。外国の政治を批判することは、国内と違った意味で難しいですね。

イラクの問題は、そもそもブッシュの開戦が間違いだと思う立場です。イラクの民主主義化にしても、とにかく急ぎすぎだったと思っています。

日本の民主主義の問題は、見方によってはスパゲッティ状態化して救い難い気もしますが(それは、民放テレビの“おジャラケ”切った番組の垂れ流しに象徴されていると思います)、とにかく明るい民主主義社会(他人任せの、おふざけ民主主義社会ではなく・・・)になることを願っています。

こちらこそ、どうぞよろしくお願いします。
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将来とも戦犯として裁かれる (pfaelzerwein)
2007-05-23 20:40:19
そらさん、横槍コメントで失礼します。

「ブッシュ政権の誤りは、戦争目的でなくて」-

これはなんとも理解出来ないのです。同じ経済権益を持ってもフランスの戦争反対の立場を支持するのは理解出来る。しかし、世界の世論を押し切って、でっちあげを根拠にしたブッシュ政権の戦争目的は、世界の政治経済秩序の信頼性を失墜させ - 同時に米国の政治文化社会の未熟を新たに露見させました -、精神文化の崩壊を認知させました。

そうしたブッシュ政権を援護し、手を汚したブレアー政権が「英国を米国の番犬化した」とするのは当然でしょう。国連主体の外交基本政策を採る日本政府がこれに加担したことも、先の大戦の責任と同じように、小泉政権、日本国民共々、将来とも「戦犯」として裁かれるのは当然ではないでしょうか。
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現象と本質 (そら)
2007-05-25 15:49:00
pfaelzerweinさん、コメントありがとうございました。
私の考えは、新しい記事「現象と本質」(2007/05/25)に投稿しておきました。

TBでお知らせしました。
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