撰集抄 巻八
第一 小野の篁の詩の事
むかし、嵯峨の天皇が、西山の大井川のほとりに、御所をお建てになられまして、嵯峨殿と申しまして、とても立派にご造営され、きれいにお作り飾られるのみでなく、山水や木立がこの上なく素晴らしく、とりわけ心に残るようでございました。如月の初めの十日のころ、御門のはじめての御幸のございましたときに、 小野の篁が、お伴たてまつり申しあげましたが、御門は篁をお召しになられて、
「野辺の景色を、すこし漢詩に作ってたてまつりなさい」との仰せがありましたので、篁はとりあえず、
紫塵嬾蕨人拳手、碧玉寒葦錐脱嚢
とお作りもうしましたので、御門はとてもご感動なさって、宰相にめしあげなされました。多くの人を飛び越して、その位におつきになられました。このうえなく名誉なことでございましたでしょう。
それにしても、篁が逝去した後、大唐の国から白楽天の詩などが送られて来ましたが、
蕨嬾人拳手、蘆寒錐脱嚢
という詩がございました。詩の趣は篁のと少しも異なりませんが、言葉はいささか違っていました。当時の秀才の人々が申されたのは、篁の句はさらにすばらしいとお褒め申し上げました。
まことに、心言葉がすばらしいです。わらびが紫色であるので曲がっているようです。曲がっているので物憂い様子です。これは、また手を握っているようにも見えます。物憂いものは首をかしげるという文が、高野の大師のお言葉にございます。碧玉の寒き蘆の生い出ています様子は、錐が嚢から出てくるのに似ています。紫塵に対するに碧玉、嬾い蕨に向き合っている寒き葦、まことに面白いです。宰相公に召し上げられた主君の御心もすばらしく、世の中を照らしている鏡に塵もつもらないで、人の芸能を評価することにも曇りはございません、とてもとてもありがたいことです。
ですから、人を多く出し抜いて宰相に連なられたのに、誰一人として、悪しく言う輩などございましたでしょう。
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