作雨作晴


日々の記憶..... 哲学研究者、赤尾秀一の日記。

 

「いじめ」の文化から「民主主義」の文化へ(2)

2006年10月19日 | 教育・文化

子供のいじめ行動は、また大人社会の模倣行動でもある。どこかの学校で教諭が校長の「パワハラ」で自殺したことも報じられていたが、大人社会の「いじめ」文化が子供社会に反映しているにすぎない。

こうした「いじめ」を学校内から発生することを防ぐ根本は、まず第一に共同体としての性格を学校に復活させることである。仲間意識や友情が育まれやすいように環境を整えてゆく必要がある。そのためには現在の学校教育における立身出世主義の、受験本位の、単なる就職のためだけの教育観を改めてゆく必要がある。もちろん、競争は健全な人間社会に不可欠であるが、ライバルと友情が両立する文化社会でなければならない。

他者のために、社会や国家のために尽くす、そうした人間を誉めたたえるような人間観や価値観や文化の浸透した社会を形成して行く必要がある。戦前のいびつな滅私奉公に国民が懲りたからかもしれない。それにしても今日の国民大衆の国家意識や郷土意識のなさも問題ではないだろうか。

国家や民族意識の欠如した「ホリエモン氏」のような弱肉強食のグローバル競争社会の覇者、「勝ち組」を、大人社会が持て囃しているから、子供たちもそれを見習っているにすぎない。そこには遅れた敗者や仲間に対する思いやりの感情のかけらもない。どこかの国のボクシングのチャンピオンのように、ただ暴力的に強いだけでは何の価値もないことを思い知らしめるような文化の環境が、そもそも大人社会にない。

たしかに、学校は市民社会と家族の中間に位置する共同社会である。
学校は小さな一つの市民社会であるが、同時に、家庭の性格も持たせる必要がある。そうして学校という集団に共同体としての性格を復活させ、今子供たちに欠けている「横の道徳」を回復し、生徒同士のモラルを確立してゆく必要がある。

そのためにまず、一学級の単位定員数を二十四名にすることである。そうして生徒一人一人の言動について、クラス担任の目が、つぶさに行き届くようにすることである。現在の学級定員では、教師による生徒の心理と身体の状況把握は、物理的にも困難であると思われる。

そして、クラス内に三人を一単位とした「班」を作る。その目的は、子供たちが学校生活や学級生活を営んでゆくうえで出会う、さまざまな問題についての相互扶助のための最小単位を作ることにある。学校生活の中では、子供たちの間に自然発生的に友だちやグループが形成されるが、それを自然発生的に任せるのではなく、三人一組の「班」を人為的に組織的にクラス内で作り、それを、生徒のさまざまな行動単位として、またクラスの運営単位としても明確に位置づける。

戦前日本の町内会に隣組とか五人組とかいった近隣同士の相互扶助を目的とした最小単位の組織が作られたが、それと同じように相互扶助単位を学級内に「班」として作ってゆく。それは、名簿順にか席次順にかで作っていってよい。いずれにせよ、そうした「班」単位の生徒関係を作ることによって、生徒一人一人の友情関係を深めるきっかけを作るとともに、子供たちが「いじめ」のような内面的な心理的な問題や健康上や身体的な悩みに出会ったときに、子供たちの間に助け手が身近にいるようにするためである。

生徒が孤立して周囲の友人から何の支援も受けられないという、殺伐としたクラスの人間関係を「組織的」に防いでゆくことが目的である。またそれは、学習活動の遅れや欠点、弱点を補う、生徒同士の相互援助の単位でもある。このように子供たちの学級構成を、友情や相互扶助が成立しやすいように、まず生徒たちの人間関係を組織面から改善してゆく。

 


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