作雨作晴


日々の記憶..... 哲学研究者、赤尾秀一の日記。

 

今なお唯一の科学事典

2007年01月14日 | 哲学一般

 

今なお唯一の科学事典

 

辞書や事典の役割とは、言葉の意味、概念を説明することである。しかし、それだけではまだ真実に科学的な辞書ということはできない。科学的であるということは、その事柄の生成の必然性が証明されていることであるとすれば、その言葉や概念の生成や存在の必然性が証明されているのでなければ、本当の科学的な辞典ということはできない。

その意味では、真実に科学的な辞典は、私の知るかぎり、現在のところほとんど見当たらないといえる。現在発行されているほとんどの辞典は、あいうえおの50音順か、ABCのアルファベット順に言葉の意味が説明されているにすぎない。それぞれ互いに必然的な関係を持たないさまざまな項目が、無自覚に配列されて説明されているだけである。

たとえば「植物」という言葉は、自然界に客観的に存在するさまざまな「植物」の実在なくして、その言葉や概念の生成は考えられない。「事」は「言」でもあるが、多くの通俗辞書では、もちろん、その言葉、概念の生成される必然性が説明されているわけでもない。また、その言葉と他の言葉、たとえば「動物」の関係についても必ずしも説明されているわけでもない。言葉が、主なる神の創造になられた世界の事物に付せられた呼び方であるとすれば(創世記3:19)、言葉の配列は、事物の生成に対応していなければならないはずである。


そういう意味での真実に科学的と呼べる辞事典は、残念ながら私の知るかぎり、ヘーゲルの哲学体系そのもののほかには知らない。科学的な辞書が、その言葉の、概念の生成の必然性を証明したものであるとすれば、ヘーゲルの哲学体系そのものが、真の科学辞典であるといえないことはない。それは概念の生成の論理的な必然性を論証しようとしているからだ。


単なる学問が科学であろうとするかぎり、それは体系的である。体系的であるとは、それぞれの概念の必然的な関係が証明されていることである。ヘーゲル哲学の科学性は、何よりもその体系的性格に現われている。かりに、彼の哲学体系そのものは、その詳細と具体性において辞書というイメージに合わないとすれば、少なくとも、その要約である彼の『哲学百科事典』(エンチュクロペディー)こそが今日に至っても、もっとも科学的な事典であるということができると思う。


ヘーゲルと同じ問題意識を共有しない日本の学者たちによって編集され発行されている『ヘーゲル用語事典』などが、それが真実に弁証法的な科学的な事典になりえていないことは、その無自覚で悟性的なその語彙概念の配列からもわかることである。こうした事典がたとえば『弁証法』という用語の正しい説明をなしえていないことは明らかである。彼らの弁証法は必然性の追求のない、ばらばらに切り離された死に物である。事典の編纂者たちはその思うところを行なえないでいる。たとえ悟性的に配列されているとはいえ、それはそれなりに意義はあるとしてもである。

今にしてなお、真実の科学(=哲学)事典を読もうとすれば、『哲学百科事典』(エンチュクロペディー)そのものにじかにあたるしかないのではないか。真実の弁証法についての説明は、弁証法的に体系的に構成された辞書によってしか行なえない。もちろん、個々の項目については、現代にいたるまでの個別科学の進展によって、限りなく深化、発展させられている。しかし、科学的な世界観の骨格としては、今なおこれを乗り越えるものが、この事典の他にあるだろうか。

 

哲学百科辞事典(Meine Enzyklopeadie)               夜明のフクロウ

 

 


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