キャラバン サライ

夢は大空へ、努力は足元で、世界に目を向けながら足元から子供たちを見直していきたいと思っています。

一神教と多神教

2010年03月20日 | Weblog
1年くらい前に相方と科学の求めるところについて議論をしたことがある。

文系出身の相方と理系出身の僕とでは意見が大きく異なった。
自然科学において、ある現象について探求していった結果、そのアプローチが化学的であっても物理学的であっても生物学的でも量子論的でも相対論的でもいずれにせよ最終的に行き着く答えは1つであるはずというのが僕の意見。
それに対して、それぞれがそれぞれの真実をもっていていいというのが相方の意見。
そのときはお互いの意見をぶつけ合っただけで納得するところまでは議論が進まなかった。


昨日、あるキリスト教の人と宗教について話をした。
僕の立場としては半分仏教、半分神道。
一神教であるキリスト教と多神教である仏教、神道では当然ながら議論は平行線。
山や森にも神が宿っているとする神道に対しては、その山や森を作った何かが存在するはずで、それが唯一の神であるとやり返される。

僕は神道を勉強したわけではないのでえらそうなことは言えないけど、僕からしてみたらキリスト教の神もイスラムの神もユダヤの神もたぶん同じ概念で、神道にある天照大神とも同じ概念を共有していると思う。
多神教の文化は他の多神教や一神教の文化を含むことが出来るのではないか。
ヒンドゥー教の神の中に仏教の神が出てくるように。
でも、一神教の文化は多神教を受け入れられない。
それどころか、同じ一神教同士でも大きく反発する。

彼は机にあった紙を例にとって
「ここに白い紙がある。これをある人は嘘をついて青だと言うことがある。またある人は赤と言うかもしれない。しかし、だれがどんな嘘を言っても本当は白いという事実は変わらない。だから、我々はこれが白いのだということを言い続け、教え続ける義務がある。」
と力説した。

それを聞いて、なんだか一年前に相方とした議論に似ているなと思った。

答えは一つ。
それを広める義務がある。
そうやって一神教は他国を侵略して教徒を増やしてきた。
それが「白い紙」だという根拠はどこにもないのに、「これは白だ」と最初から決め付けて。

一神教であるユダヤ教からキリスト教が生まれ、その影響を受けてイスラム教が生まれた。
それなのに、これら3つの一神教は絶えず争っている。

ちなみに彼の祖父は昔は土着の多神教のシャーマンのような立場であったそうだ。
しかし、死の間際になって、いろいろな神を崇めるのは間違いだと思い、キリスト教に改宗したそうだ。

自然科学も一つの宗教だと捉えられるのだとしたら、それは一神教なんだろうと思う。