ひとには感情というものがあるが、この感情がとても厄介なのだ。
だから、いやなもの、いやだなと思う、思わせるものは見ない。
少し前なら、いやなことも体験するのが人生では当たり前だと
教えられてきたが、今の状況は違ってきている。
いいことよりも、いやだと思うようなことが、あまりに多すぎる。
ひとは生活も、思考も、ありとあらゆるものを求め、手にいれ、
在り様を多様化して来た結果、自分という存在を理解できないまま
ひとにいやな思いをさせていることにも無関心となり、自分ではない
ネガティブボディのまま、走り続けている。
自分が起こしたムーブメントは、ネガティブポイントを増殖させて、その
ネガティブボディは肥大化し続けている。
これは以前の記事にも書いたが、自分の意識に関わりなく、相手の
感情を暴走にスイッチを入れてしまうことがある。
それにより、相手が発したネガティブの影響を受ける。
一種の呪である。
そして、逆に、いやな思いを暴走させ、歯止めが利かなくなって
いるのだ。
感情が暴走することによっても、ネガティブポイントが増殖する。
このことは、多くのひと、先人たちが繰り返し言っている。
言い方を変えるなら、おだやかなこころでいること。
瞑想や、癒しが求められているが、すべては、無に帰依すること
にほかならない。
この世界にある、『ねばならない』事象や、『常識』といわれて
いたことは崩壊している。
否、常識と呼ばれるものは、常に変化するものなのだ。
そとの世界は変わり続ける。なかの世界の『在る』という自分は
変わらない。
変わるものの中に在って、変わるものを越えたところに、
答えが在るのだ。