畏れるとは、どういう状態なのか。
何かを恐れるのだが、かしこまり恐れる。
畏れ多い相手とは、誰なのかが、わかるだろうか。
畏れ多い感覚は教えてもらうものなのか、などと考えていた。
情報断食以前の問題な師匠の最近のドラマ観は、ほとんど実も
蓋もない。テレビドラマを観ていて、楽しくないという。
ドラマに限らず、視点に謙虚さがないから、見ていて疲れるという。
謙虚でいるということも、教えられるものなのだろうか。
否、概念として、教え、あとはそれこそ、体感でわかるしかないの
かもしれない。
自然の中で、ひとは、畏れ多い存在を感じ取り、自然の力に、時に
無力感を感じ、謙虚に自然とつきあう術を得ていた。
それは、かつてはーと言っておこう。
合理的なものを好み、求め、突き進んだ現代では、自由に各々の
ポイントがあり、何かを追求して、今の地に存在している。
けれども、なにが合理的かと思うような、非効率なポイントに迷い込み
不確かな世界を構築している。
厳密な合理性。
それは、自然の中で、そのつながりに生かされつつ、活かしつつ
追求するものなのだ。
人の生活の根幹である、『食』はそれを如実に表している。
海の恵みも、山の恵みも、わけていただいているという、畏敬の念と
謙虚さをもってみると、ありがたいというこころもわかるだろう。
有難い。恵みとはなんと有難いものか。
自分ひとりで生きているわけではないのだから、合理的に思う。
すると、自然、畏敬の念も謙虚も、ココロに浮かびあがることだろう。