師匠と神さまとの会話を聞いていて思う。
自然とは、慈悲深いものだと。
自然が罰をあたえるなどということはない。
自然には、自然の道。流れがある。
ひともまた。
その道の流れに影響をあたえるのがひと。
自然の道をひとの都合で動かそうとしても、自分でないものに
指図されたくないのは、自然も同じ。
自然は曲げられた道をもとへと戻そうとする。
身体が病んだり、傷ついたりすれば、そこに治癒が働く。
癒しが施される。
その単純なシステムを理解するか、しないか。
もしくは、理解しようと試みるか、みないか。
すべてを内包してできあがっているシステムは、
その異変にすばやく察知して、最適を施す。
どれもあたりまえ。
当たり前に思えないのは、どうにも、思いあがった
考え違いにほかならない。
今、混迷の影響を受けて、混乱しているひとも多い。
その、混乱しているひとの話をマに受けないことだ。
真実かどうかではなく。
今の自分にとって、どうなのかを考えよう。
自分の在り方にとって、有用かどうかだ。
自分にとって、それは有りだと思うなら、誰に断る必要もない。
自分の道しか、自分は歩けないのだから、迷っている場合ではない。
それに対して、どうこうと、迷っていることを、ひとのせいにしよう
としても、誰も困らない。困っているのは、自分ではないのか。
そのことに早く、気づき、歩きだそう。
マ酔いは、甘美で癖になる。
時間をずるずる延ばしにするのは、未来と過去と言う二つの
時間泥棒に、自分の生きている時間を彼らにあたえているに
等しい。
今、名前をあたえられ、生きている自分の時間には、一定の
限りがある。ゴールは必ず来る。
エネルギーやパワーなどというものは、
なにかをやろうという意欲。やる気。
そして、生きようという力。元気。
それを育てるも自由。
枯らすも自由。
それがあなた方の意志だ。
あなた方の意志があり
この自然にもまた、意志がある。
すべてに自由意志があるのだ。
その自由意思に沿い、すべてはあたえられ、
時に、その自由意思に沿って、すべては奪われる。
どれも自由がある。
その在り方によって。
どれもがその在り方に沿い、均衡して存在している。