【交通】
京都市営地下鉄東西線 蹴上駅から徒歩約7分
京都市営バス 神宮道バス停から徒歩約10分(西行き[三条京阪,京都駅方面行き]からは徒歩約15分)
京都市営バス 京都会館美術館前バス停(平安神宮大鳥居下)から徒歩約9分
岡崎の疎水沿いにひっそりと・・・・と言いたいのですが広大な敷地に開放的な空間の広がる由緒正しい庭園があります。
学生時代一回だけ訪れた事があります。
当時は疎水までもが中性洗剤のせいで泡だらけ、こちらの池にも泡が大量に流れ込んでいて庭園全体が薄汚れた景観になっていました。その時の印象が続いていてその後、訪れることもありませんでした。
今回、近くまで来たのでその後を見たいと訪れました。
延々と続くこの溢れ出るような木々、冬とはいえ緑の濃い庭。
長い塀を右に入ると入り口があります。
その隣に料亭「吉兆」があります。
入り口への塀、手前半分が黒くなっています、なんでしょう??
焼け焦げのような板塀・・・??
只今、TV「ビフォーアフター」を見ているとこれを作っている場面がありました。
瀬戸内海地方では(防火、防虫、耐火)目的で外壁に使う習慣があるとの事です。
杉板3枚を三角形に組み真ん中から炎を通し、すぐ消火。その後、そりをなくします。
見た目もシックで美しい景色になっています。
(明治・大正の元老 山県有朋の別荘)
無鄰菴は,明治27年(1894)から明治29年(1896)にかけて明治・大正の元老である山県有朋(やまがた ありとも)が京都に造営した別荘です。その名は,有朋が長州(山口県)に建てた草庵が隣家のない閑静な場所であったことから名付けられたといいます。
その後,有朋は京都の木屋町二条に別荘を構え,無鄰菴と号しましたが,さらに新しい地に好みの別荘を作りたいと考え,明治27年(1894),現在の地で無鄰菴の造営にとりかかりました。工事は日清戦争の勃発により一時中断しましたが,翌年2月から本格的な工事を再開し,明治29年(1896)に完成しました。
有朋はこの別荘の庭園をこよなく愛し,多忙な公的生活の合間にも夫人を伴ってしばしば訪れましたが,その後大正11年(1922)に83歳でこの世を去っています。
【庭園】
敷地の大半を占める庭園(面積約3,135平方メートル)は,有朋自らの設計・監督により,造園家・小川治兵衛(おがわ じへえ)が作庭したもので,ゆるやかな傾斜地に,東山を借景とし,疏水の水をとり入れ,三段の滝,池,芝生を配した池泉廻遊式庭園です。
蔵のような洋館には様々な資料が展示してあります。
説明書きには・・・・・
洋館は明治31年の建立です。2階には江戸時代初期の狩野派による金碧花鳥図障壁画で飾られた部屋があり,ここで明治36年(1903)4月21日,元老・山県有朋,政友会総裁・伊藤博文,総理大臣・桂太郎,外務大臣・小村寿太郎の4人によって,日露開戦直前のわが国外交方針を決める「無鄰菴会議」が開かれています。
今日でも,この部屋には花鳥文様の格天井,椅子,テーブルなどの家具が残り,当時の趣を伝えています。
なお,1階は展示室になっており,無鄰菴についての説明,山県有朋についての説明や愛用品,小川治兵衛についての説明や彼により作庭された主な庭園についての説明展示を行っております。