赤松小学校玄関前に建っていた、二宮 尊徳(たかのり)こと金次郎さんの像も、後世まで残しておかなければなりません。
現在はヘリポートの片隅に移設され、廃校となった赤小校舎に向く位置に移設されています。
ところで、赤松の金次郎さんは本が破れるほどに勉学に励みました。📖
☟廃校前の二宮像です。
赤松小学校玄関前に建っていた、二宮 尊徳(たかのり)こと金次郎さんの像も、後世まで残しておかなければなりません。
現在はヘリポートの片隅に移設され、廃校となった赤小校舎に向く位置に移設されています。
ところで、赤松の金次郎さんは本が破れるほどに勉学に励みました。📖
☟廃校前の二宮像です。
石の矢じりを、石鏃(せきぞく)と言うそうです。
これが、赤松でも発掘されていたようですが、実物は見たことがありません。
詳しいことは分かりませんが、圃場整備を行ったときの事前調査で出たのでしょう?
おそらく、石鏃は埋蔵文化財センターあたりに保管されているのかも知れません。
これも縄文時代の遺産として取り上げておきます。
板碑も赤松には4家にあり、A家のは明徳年間のものです。
面白いのが、ここの家は源氏なのに、周辺は平家ばかりなのです・・?
板碑は二枚あり立派な小祠に納められています。
他に、T家・S家・U家にもあるのです。
こんなのを思い出しました、それは石斧(せきふ)です。
以前の分析では弥生期のものとされています。
これは、出土したN宅で保管されており、行事の時にお借りして披露しています。
これが現在の赤松の中で、一番古い赤松遺産かも・・?
平家の落人を祀ったと言われる「七人塚」というのが赤松には4ヵ所あります。
これも不思議な遺物の一つですが、ある家では若宮さんとして祀っています。
また、圃場整備や道路工事などで消し去られたのもあるかも知れません・・?
☟下の七人塚は日浦地区のものです。
赤松と言えば「吹筒花火の里」と言われるほど有名ですが、どうしても残しておきたいのが、文政四年の「意匠」と掘り筒(竹で巻いた大筒)に赤松独特の「点火台」です。
また、制作過程から点火までの様子紹介や、文化財としての継承に、先駆的に全国伝統花火サミット開催・NPO法人の設立などが評価されています。
地元では「テンテコテン」と呼ばれる神踊りがあります。
それに使われるのが画像の締め太鼓(天保年間?)なのですが、各地域に2~3個はあると思われます。
2個✖15在所=30個(調べたことなし)
これらも大切に保管しておきたい物の一つです。
赤松座という人形浄瑠璃座が明治時代にありましたが、その人形頭に三千良作と書かれた頭が六頭残されていました。
その人形師の三千良の素性は未だに解明されていませんが、作風の素晴らしさに現代の名工である人形洋さんも驚かれたのでした。
これらの頭も含め、大事に保存しておかなければならない宝なのです。
赤松には沈下橋などとも言う潜水橋が二橋ありますが、以前には危険だからということで撤去話が出たこともありました。
しかし、これらは生活橋であり必要なのです。
また、付近の景色にもとけて情緒をかもしだしています。
画像の橋は対岸の鉄塔工事の時に掛けたようで、田圃作業にも使われていたようです。
これも、後世に伝承していかなければならない義民物語りの史実と、匿い屋敷跡周辺の田圃等の石垣類です。
画像は、県道沿いにある記念碑と、山奥にある匿い屋敷の墓石と想像図です。