うっかりユーザのパソコン奮闘記

パソコンを使っていて感じたあんなこと、こんなこと、気ままに書いていきます。

「ある」ということの力

2012年12月16日 | ソフトいろいろ

ワードからはがきを作るウイザードが呼び出せない。
ワードでの年賀状作りをテーマにした講習会の出来事ですから、これは事件です。

どこをどういじっても、ご機嫌を損ねたワードはかたくなにウイザードの呼び出しを拒み続けます。
道具は簡単には取り出せないぞとがんばっています。

Tさんは一計を案じました。
新しく仕事をさせようとすれば嫌だと言う。
それならここをちょっと直してと、出来たものを見せたらどうかと、既成のファイルを読み込ませて見ました。
壊れてなさそうでも手にとって見るにはその道具が要るので、偏屈ワードも仕方なしにウイザードを引きずり出さなければならなかったようです。

山の奥に古い社があれば、道を作らないわけにはいかないのでした。
「ある」ということは、かくれた力を持っています。

アプリケーションを起動するとき、アプリ・プログラムの起動を要求してから起動後にファイルを開くのと、ファイルを開くようにいきなり要求してアプリ・プログラムを自動起動させるのと、ふた通りの方法があります。

どちらも同じことと思っていましたが、アプリ・プログラムがうまく動かないときには、このファイルを読んでみなさいと言って、強引に立ち上がらせる方法も、功を奏することがあるのを知りました。


ハイデガー=存在神秘の哲学 (講談社現代新書)
古東 哲明
講談社

アプリケーション設計の基底にあるもの

2012年12月15日 | ソフトいろいろ

ラーメン丼の底の絵は、全部食べきり飲みきらないと見えてきません。

ちょっとひと口、せいぜい半分食べてもうたくさんというアプリケーションは数あります。
食べ慣れたものよりも、同じ種類でも新メニューをすすめられると、それでは早速という人も世の中には多いので、バージョンアップこそが商売を支えてくれるものという、ユーザー泣かせの通念がゆきわたります。

しかし、これが新しいものを好む人には喜ばれます。
買い求めるのは、とにかく新しいものは持っていないと恥ずかしいと思いがちな、ユーザーとはまた別のショッパー界の人たちです。
経済はショッパー界がなければ成り立ちませんから、その人たちはユーザーを助けてくださるありがたい存在でもあるのですが。


さて、昨日は MS Office 2010 でオブジェクト一括選択をしにくくしているのは、描画キャンバスの意義をなんとか知らしめようという底意があるのではないかと思っていましたが、スープを飲みきってみると、かすかにこんな絵柄が浮かんできました。

それは「流れ」です。
部分図形を組み合わせていく過程で、適宜グループ化を繰り返しおこない、できたモジュールは、再び分解して修正を加えることはしないという前提で作り上げていくという流れです。

大量生産に取り入れられているこの方法は、流れを元に戻すことを許しません。
製作途中でも、組み立て完了品でも、不良品は修復せずに跳ね除けます。
直すより捨てたほうが早く片付くからです。

自分の頭に描いたこの世に一つのものを、自分の手で作り上げていく場合には、部分部分に手を加えながら完成させていくこともできます。

オブジェクトの選択を不自由にしてしまったアプリケーションの設計者は、創造の喜び、自分の手を使うことの楽しみに気付かなかったのでしょう。

簡単に手に入って、たくさんの人が使うものはよいもの、そして新しいものはもっとよいもの、買うこと、見聞きすることを増やし広げることが文化的生活と思って育てられた人たちには、気付くことのできない何かがあります。
脳の働きは生活習慣で変わりますから、その何かが欠落してしまっている人たちに、創造型のアプリケーションを設計せよと言っても、無理な注文なのかもしれません。


知識創造企業
梅本 勝博
東洋経済新報社

参ったワード

2012年12月14日 | ソフトいろいろ

年賀状の講習会で、Kさんが創作デザインされた獅子頭の描き方を教えていただきました。

これが、作図ソフトやCADによるものでなく、ワードのみで作れるとは驚きでした。

オートシェイプで部分図形を描いて組み合わせていくのですが、ある方の作ったものでは、鼻の穴に鼻毛まで見えるのです。
これはこれは念の入った作り方をしたものと思っていたら、いつの間にかごみのようなものが描きこまれてしまって、取り除き方がわからず困っているのだということでした。

拡大してみると、鼻毛に見えたのはPの字でした。
鼻の穴の部分に「テキストの挿入」が行われてしまっていたのです。

さて、これを抜き取るには鼻の穴のオブジェクトを編集対象に指定しなければなりません。
それには、鼻全体がグループ化されているのを、いったん解除する必要があります。
グループ化の解除と、Pの文字の削除は簡単にできましたが、その後が大変です。

作るときは、たくさんのオブジェクトを、組み合わせた順にグループ化していけば扱いやすいのですが、部分修正のためにで一度グループ化の解除を行ってしまうと、複雑に重なり合って背面に回ってしまったオブジェクトは、その上でクリックしても選択できません。
しかし、それもグループに入れておかなければ、位置を変えたとき置き去りにされてしまいます。

Shift キーを押しながら順に追加選択していく普通の方法では、拾いきれないのです。

オブジェクトの選択には、ドラッグの方形枠で囲って一括選択する方法がありました。
[ホーム] ⇒ [選択] ⇒ [オブジェクトの選択]でできるはずだと思っていたその操作が、Office 2010 では、文書編集画面に直接挿入したオブジェクトにはできなくなっていたのです。

[オブジェクトの選択]というメニュがあるのですから、まったくできないはずはないので、goo のFAQに教えを請いました。
早速いただいた答えは、「描画キャンバスを使ってオブジェクトを配置すれば、その描画キャンバス内で使用できる」ということでした。

いちいち面倒なので使ってなかった描画キャンバスが、この場合には使わせてもらわないと用が足りません。
落つる譬えですが、トレッキング中のトイレ探しを強いられるような気分です。
プログラムの製作者が、あまり好かれてなさそうな描画キャンバスという道具を、何とか使って慣れさせようと考えたのではないかと思いたくなります。

できそうであることはわかりましたが、今度の例のように、いったん組み上げてもう一度分解修正する場合に、描画キャンバスとの関係がどうなるのか、Office 2010 を手元に置いてない私には実験のしようがありません。

どなたか確かめてご覧くださるよう、お願いいたします。


図形がわかる (ドラえもんの学習シリーズ―ドラえもんの算数おもしろ攻略)
小林 敢治郎
小学館

始めと分かれめがだいじ

2012年12月13日 | 千差万別

ウェブサイトを訪れる人が迷子にならないようにするには、サイトマップを描いてみようと書きましたが、「こうなっています」というだけの地図では、地図の役目を果たせません。
どこかが破れていて見えなかったり、図柄が珍しくて綺麗でも読み取りにくかったりというのは論外として、もうひとつ肝心なことがあります。

サイトマップには、描いてみて作る側の頭を整理する役割と、それをウェブサイトの案内板にするという役割があります。

作者の頭を整理するには、地図の道順をくまなく実際にたどってみて、訪れた人がそれぞれのページからどこに行きたくなりそうか、考えながら確かめ、サイト内の経路を作っていかなければなりません。
作者がわかっていて自分が行けるだけではだめなのです。
訪問者の一人一人に、作者が手を引いて案内することはできません。

どこからでも「すぐ見られる」ようにしておきたいページは必ずあります。
まずトップページ、それから分岐点です。
そこに案内板を置いて、わかりやすくサイトを組み立てておけば、訪問者は迷わずに瞬時に思うところに飛んで行けます。

スッと入ってスッと出られる、気に入ればながくいてもらえる、気持ちの好いサイトとはそういうところなのでしょう。


 

 

分岐点
払川 智彦
新風舎

確かな地図を

2012年12月12日 | 千差万別

方向音痴の人は、頭に地図を描けない人だろうと思います。
断片的な感覚、感性はかえって優れているかもしれません。

デザイン感覚には大雑把に言うと二とおりあるようです。
ひとつは美的デザイン、もうひとつは機能的デザインです。
どちらがだいじかはデザインの目的によります。

ウェブサイトにはどちらがだいじか、それも一概には言えません。
ウェブサイトにも、それぞれ目的があるからです。

見に来た人をただ楽しませようというだけなら、機能のことは考えず、今だけのデザインでよいのです。
訪れる人に、そこがどういうところなのかを知ってもらいたいというウェブサイトには、機能がだいじになります。
機能はつながりをはっきり意識して作らなければ、見た人に何も伝わらず、ああきれい、ああ面白そう、それだけで終わってしまいます。

ウェブサイトの機能を考えたり確かめたりする場合にはサイトマップが大いに役立ちます。
何かを知らせるウェブサイトを作る場合は、サイトマップを描いてみることにしましょう。


方向オンチの科学―迷いやすい人・迷いにくい人はどこが違う?
(ブルーバックス)
新垣 紀子,野島 久雄
講談社

招いたお客を迷子にさせない

2012年12月11日 | 忘れかけていたこと

ウェブサイトは、訪れた人を迷わせてはいけません。

迷路あそびのサイトや、いったん迷ってもらわないとその先の話が面白くないとかいう場合は、話は別ですが。

どこかをクリックすると、急に挿絵が入れ替わるようにして、見る人に驚いてもらう手法もありますが、あまり大げさにそれを使うのは、見るほうにとって快いものではありません。
使うにしても、どこか隅のほうでひっそりと、オヤ、と軽く思うぐらいにしておきたいものです。

いちばん困るのは、画面が入れ替わってから戻りたいところに一度に戻れない場合です。
ブラウザには「戻る」ボタンがあって、前の表示に戻ることができるようになっていますが、たどってきた分かれ道や、サイトの入り口には、ワンクリックで戻れるようにしておかないと、もと来た道をたどりながら一画面ずつ戻っていかなければなりません。

人間が徒歩で歩く道しかない山道なら、戻るにはその方法しかないでしょう。
しかし、それでも急いで戻らなければ命にかかわるような急場では、もと来た道を引き返すというわけには必ずしもいきません。
近道があればそちらを選ぶか、ヘリを頼むか、そんなことになるでしょう。

ウェブサイトを見る人が、常に急場に立っていることはありませんが、帰る場所がわかっていれば、そこにひと飛びに行きたいのは、誰も同じでしょう。

この操作を、「戻る」とみるから、順にたどればということを考えてしまうのですが、「戻る」のではなく「行く」とみれば、余計な回り道はしようと思わないでしょう。
「行く」というより「ジャンプする」のです。

早く帰りたい気分を「飛んで帰りたい」と言います。
訪問者を迷子にしない、そして、帰りたければすぐ飛んで帰れるように、ウェブサイトの組み立て方を工夫しておきましょう。


迷い道
倉持 れい子
文芸社

玄関扉を軽くするには

2012年12月10日 | 忘れかけていたこと

トップページは、ごく軽いほうが良いと書きましたが、その代表は Google でしょう。
ときどきその日にちなんだ図柄に変えるときもありますが、基準形は維持されています。

Google と一目でわかる図柄で、主要な検索項目以外は何も書かれていません。
さまざまな検索サイトのなかには、項目が多すぎて目まぐるしい量販店型、何も書いてなくノックさえしにくい会員クラブ型などもあります。

入って行きやすいのは、見る人が何を見るかを決めやすいトップページです。
ウェブサイトを見る人の多くは、何を見るかを決めてない人です。
何を見るかを決めてから見る人は、入り口の様子などあまり気にしません。
心地よくさえしておけばよいのです。

何を見るかを決めてない人こそが新しい訪問者ですから、そちらの方をよりだいじにしなければ、ウェブサイトを多くの人に見てもらうためにアップロードしている意味が損なわれます。

あまり飾り立てない、それぞれの部屋に入って行きやすい、トップページは単純洗練が要諦だと思っています。


頭にちょっと風穴を―洗練された日本人になるために
廣淵 升彦
新潮社

玄関扉は軽いほうが良い

2012年12月09日 | 千差万別

トップページは、ごく軽いほうが良いウェブサイトと言えます。
検索から、お気に入りから、あるいはメールなどのリンクから呼び出しても、読み込みにじわじわと時間がかかり、待たせられるのは気分がよくありません。

自分のパソコンが力足らずで、ぱっと応動しないところに半分原因を背負い込んでいるのはわかっていても、入り口で10秒も待たされては、なんだこれと思ってしまいます。

門構えは立派なのが良いのですが、門の扉が重くてなかなか動かないのはごめんです。
大きなお寺の門は、誰でもすっと入れるように、構えは立派でも扉はいつも開いています。

人を招き寄せる場所では、門、玄関、入り口の前に立てば中が見渡せる、そうでなければ、人々は素通りしてしまいます。

トップページの扉はせいぜい軽くしておきましょう。


門 (岩波文庫)
夏目 漱石
岩波書店

メールをあたためると

2012年12月08日 | 忘れかけていたこと

メールを受け取って、これは参考になりそうだというものがあると、本文のコピーを別にとり、メーラーのトレイには残さずに削除する習慣がついています。
寿司詰めの受信トレイは見るのもいやになりますから。

ところが、昨日はこれでひとつ失敗。
MLで配信された課題に、こんな記事もあったと返信した翌朝、つまり今朝、保存してあった元の課題のメール文と返信文を見比べたら、「こんな記事も」と書いたのが同じURLでした。

「これをご覧」という呼びかけに、「こういうのもあった」と、同じURLを返信。
バカではないかとお思いでしょう。

♪ バカな仕草はヤッコラヤノヤ
  分析すればのう稚児どん

1.配信されたMLを、あとでゆっくりと別のファイルに暖め、よく読まなかったった。
2.配信された記事に直接関係のないMLメールを借り、同じあて先だからと返信した。

♪ 思い出すころ 記憶は半分
  借りものアドレス ソッポのもとに

Hさん、大変失礼しました。


さようなら、コタツ (集英社文庫)
中島 京子
集英社

クリック ⇒ エンター

2012年12月07日 | 忘れかけていたこと

「マウスを動かすと矢印がどこかに行ってしまうんですが」
 「矢印の位置を確かめておいて、ゆっくり左右に動かしてみてください」
「左に動かすと矢印は右に、右に動かすと矢印は左に行きます」
 「では置く位置の上下を変えてみてください」
「あ、逆さまでした」

こういう方は、ダブルクリックが苦手のようです。
 「ダブルクリックをしてみてください」
「左ですか右ですか」
 「右ボタンを使うのは、“右クリック”だけです。それ以外は全部左ボタンです」

やはりうまくいきません。

ダブルクリックが苦手の方には、クリックをしておいて Enter を押してもらうとよい、とKさんに教えていただきました。

やってみると、これはなかなかよい方法です。

C・E = DC

覚えてから、半ば常用になりました。

 

瞬間操作!高速キーボード術
―マウスに頼らないパソコンの動かし方 (ブルーバックス)
リブロワークス
講談社

 


ホームページとブログ:2

2012年12月06日 | 忘れかけていたこと

昨日の続きで、ブログとは、からはじめることになります。

ブログという呼び名は、「WebをLogする」という意味で、はじめ Weblog(ウェブログ)と名付けられ、それがつまって Blog(ブログ)と呼ばれるようになったといわれています。

Weblog の始まりは、自分が気になったニュースやサイトなどの URL を、寸評つきで紹介したウェブサイトだそうです。
その後中身の範囲が広がって、自分の体験や日記、何かの話題などが記録されるようになり、いまでは記録情報を載せたウエブサイト全般をブログと呼んでいるようです。

それではいわゆるホームページと同じではないかと思うでしょう。
そうです。いまでは中身によって区別はしないのです。
記録されていることがらを見て、これはホームページ、これはブログという区別はできません。

誕生のころには多分あった、ホームページは一から自分が作ったもの、ブログはほとんどが借りものという区別もありません。

時系列的に記事が連続しているかどうかということはあります。
連続していればブログかとも思いましたが、そうとも言い切れません。
いわゆるホームページでも、記事を連続させることはできますから。

では何が違うかというと、インターネットへの載せ方の手続きが違うだけのような気がしています。
いわゆるホームページは、インターネットに送り込むとき、自前の道具がいります。
たとえばFFFTPなどという専用ソフトを使って、FTPなどというある約束ごとにしたがって操作することが必要です。
書き上げた文書を、いきなりブラウザ上からインターネットへ送り込もうと思ってもそうはいきません。

その点、ブログの場合は、新しい記事の受付窓口がウェブサイト形式になっていますから、そこから書き上げた文書を直接送り込むことができます。
メールアドレスほか、決められたことを登録しておけば、受付窓口のところに行くことができます。
ビザなしの外国旅行のようなものです。

「ブログのほうがいいですよ、簡単で」と言ったのはそういうことなのですが、いちばん肝心なことは、何を書くかなので、自分の頭の中にそれが用意されてなければ、ブログもホームページも、看板だけで終わりということになります。

売るものの用意も心積もりもなく、ただ店を開いてみても何も始まりません。
ウェブに引っかかって蜘蛛も相手にしてくれない、ごみのようになるだけですから。
 

ブログをつくりたい!
―はじめるのはとっても簡単、
やればやるほどおもしろい
成美堂出版事業部
成美堂出版

ホームページとブログ

2012年12月05日 | 忘れかけていたこと

「ホームページを作ってみたいんだけれど、どうすればいいのかな」
「ブログのほうがいいですよ、簡単で」

ずいぶんいい加減な会話です。
お互いに、ホームページとは何か、ブログとは何か、何の目的でホームページを作りたいと思うのかなど肝心なことを後回しにして、それらしい名前でそれぞれ勝手にイメージを描いてのやりとりでした。

求めているものを想像しながら、もう少し近づいてみることにします。
話のはじめは、多分こんなことだったのではないかと思います。

ウェブを見ていて気に入ったサイトがあり、これがホームページと呼ばれているものらしい、では私もという気になったのでしょうか。

最初の会話をいい加減といったのは、ホームページとは、またブログとは何かをはっきりせずに、両方とも俗称を使ってしまっているところなのです。

ホームページという呼び名は、温かい酒をみな熱燗と呼んでしまうのとどこか似ています。
「お酒一本」「はい、熱燗ですか」「うん、ぬるめがいいね」「はい、ぬるめの熱燗一本」

『ホームページとは、ユーザーが一番はじめに接触するWebページ、あるいは一番親の階層に位置するWebページを指す』(IT用語辞典バイナリBINARY・・Weblio, Inc.)

これがいちばん簡単で確からしいのですが、それでも真ん中の「あるいは」を仕切りに二とおりの定義があるのです。

ホームという言葉が人の心を和ませやすいからか、ウェブページ全体をホームページと呼んでみたり、ウェブページの形式をホームページと呼んでみたり、ウェブページにできるようにまとまった画像入りの文書をホームページと呼んでみたり、さまざまな使い方をされています。
ホームページという言葉が会話に出てくれば、どれを指すのか、話を進めながら相手の意図を探り出して聞き取る器用なやり取りが行われています。
「どうだ、一杯やるか」と言われたとき、すぐさま酒の種類を問いただすことはしないのと似ています。

「ホームページを作ってみたい」のはじめの言葉は、多分ウェブページにできるようにまとまった画像入りの文書を作ってみたいという意味だろうと思います。

長談義になったので、ブログとは、はまた明日ということになりました。


1日でできる!はじめて作るホームページ for Windows
藤森 元治,三ヶ島 希
成美堂出版



パタンと落ちて困るのは

2012年12月03日 | 忘れかけていたこと

パソコンがときどきパタンと落ちて再起動します。
起きる時間帯から、これはパソコンの故障ではなく、電源電圧の瞬時降下ではないかと思います。

どこかで大きな家電を使い始めたとき、瞬間ですが電圧が下がります。
デスクトップのパソコンは、電池を抱えてないので電源電圧の影響を正直に受け取ります。

 UPS:Uninterruptible Power Supply(無停電電源装置)を置くことを考えて、価格を調べました。

パソコンの定格が 650VA なので、750VA の UPS が必要、価格は約15,000円。
安いノートならもう少し出すと買えるので、どちらがよいか迷っています。

落ちたところで、だいじなデータを扱っているわけでもなし、[Ctrl]+[S] をまめにやっていればどうということもありません。

まだ何か方法はありそうとも思いはじめ、頭のほうがパタンと止まったままで前に回らずにいます。


 

定電圧電源もの知り百科―すべての電子機器は電源から始まる! (ここが「知りたい」シリーズ)
丹羽 一夫
電波新聞社

 


グラフィックを楽しむ

2012年12月02日 | ソフトいろいろ

おでん屋ののれんが風に揺れて、鍋のおでんから湯気が立ち上っている、そんなイラストを次々に作って見せてくれる方がおられます。
シニアナビのTさんです。

シニアナビ-ギャラリー
http://www.senior-navi.com/user/gall/index.html

イラストというよりイメジーといったほうがよいかもしれません。
単純な動きがどこか複雑に見えて、楽しい絵なのです。


ワードでオートシェイプを組み合わせて獅子頭を描いた方もおられます。
MPSnet のKさんです。
この方法の講習会を開こうかという相談もされていました。
MPSnet に入会するとパソコンを持って行かなくても、こんな講習も受けられます。
http://mpsnet.jp/Page_7.html


ワードに動く画像を取り込めないかと、ふと思ったら、できるそうです。
「オブジェクト」⇒「ファイルから」⇒「動画ファイル」を選択して貼り付け

動く印刷は、むりですね。
 

無料ソフトでデキる!動画編集スーパーテクニック (100%ムックシリーズ)
 
晋遊舎

特化に向かう流れ

2012年12月01日 | 千差万別

新しいタブレットPCが売り出されたと、一昨日書いたものの、タブレットPCという呼び方には、どこか引っかかるところが残ります。

汽車というものがもうなくなってしまったのに、夜汽車をどう呼んだらよいのか。
夜と車の間にどんな字を持ってきても感じが出ないのに似ているのです。

呼び名だからいいではないかと言ってしまえばそれまでですが、タブレット型のあの小道具は、パーソナル・コンピューターとは別世界のもののような気がするからです。

それはそれとして、これまでのパソコンはどうなっていくのでしょうか。
何でもできるあのシステムが、まったくこの世から姿を消すことはないでしょう。
形を変えて、社会が必要とするデータ処理機能を、部分部分で受け持つようになるのではないかと思っています。
どう形を変えるのか。
それは、何でもできるからといって何でもさせるのではなく、置かれる場それぞれに必要な機能をさらに高めて、使われない機能は削ぎ落とし、特化に向かうのではないかと思います。

そうなれば、家庭で使われてもパーソナルではなく、電子計算機という名も態を表さなくなってきます。

業務用には性能を磨き上げられた専門的なソフトが使われ、何年か後には、「家庭で使うのにオフィス? それなに」と言う人が増えてくることでしょう。

年賀状の時季にしかパソコンに手をつけない人には、もっと簡単な道具ができています。
バケツのような柄がついて持ち運びに便利、使い方の勉強などいらなくなっています。


モノすごいタブレット (ワールド・ムック 919)
 
ワールドフォトプレス