順風ESSAYS

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イスラーム法から

2005年11月26日 | 時事
Jリーグが非常に面白いのでTBSスパサカを観ようと思っていたところ、チャンネル権を失い泣く泣くブログを更新。

今学期、労働法の授業を受けているが、社会法ということで、「これからどのように制度を変えていくべきか」という問いかけがよくなされる。中でも、個人主義をベースにした近代法体系の中で、現実として観察できる「共同体的側面」を加味していくべきかどうか、というのが印象に残る。個人主義を貫くのは自己決定の負担が大きく疲れるが、共同体に頼るとしても、共同体の論理が新境地を開こうとする個人を排除したり抑圧したりすることに働くのは断固として阻止すべきである。

イスラーム法の講義のなかで、トルコについて言及があった。ご存知の通りトルコは西欧化を進めている国だ。民法も制定当時最も先進的といわれたスイス民法のフランス語法典をそのまま持ち込んだそうだ。その結果、当然のように現実との乖離が生まれる。何せ国民のほとんどがイスラム教徒である。特に婚姻について、民法所定の手続きを踏まず宗教的な儀式で済ませてしまうことが多く、人口の4分の1が非嫡出子として扱われる事態にもなった。この婚姻手続違反には刑事罰も用意されているので、刑事罰免除と共に非嫡出子を嫡出子にする法律が今までに計7回時期を置いて施行されている。

ここまで読んだ方、なぜ民法を改正しないのか?と不思議に思うことであろう。なぜ現状にあわせず、不自然な手当ての立法を繰り返すのか。授業では、トルコの西欧化・世俗主義のシンボルであり、これをイスラーム的に合わせることは国是をつぶすことになりかねない、ということであった。当然選挙をすればイスラーム色の強い政党が躍進しかねないが、そうなるとケマル・アタトゥルクの意志を継ぐ軍部がクーデターにより介入する。危ういバランスで成り立っているな、という印象を受けた。

現状と合わせることは社会的相当性や実質的妥当性といった言葉であらわされる結論と結びつきやすい。一方で法には指導的な役割もあり、これも重要なものだ。しかし、民主主義では現状を支持する人たちが政治的にも多数になることになるし、その意見が尊重されるべきこととなる。一種のジレンマが生じるのではないか。一国の法の価値理念を宣言した憲法について、今の日本では笑われることも多い。労働法でも規定が守られず無価値になっていることが多い。権利を主張する人は協調性がないだのとも言われかねない。結局はバランスの問題で、各人が意識しなければならないのだと思う。この意識なくして、プロセスの保障だけでよしとすることはできないだろう。

自分自身に照らしてみれば、ここ1年ほど、私は他人に働きかけることを諦めてしまった感が強い。ニュースから想起される考えも現状肯定的なものが多く、その中で自分がどう対応するかを考えるようになった。これにはきっかけがあるのだが、やはりバランスの問題で、ある程度はお節介なこともしなければコミュニケーションが足りなくなってしまうことになる。自分について全体的に自信がない、というのが問題だ。