バレエなるものを観にいったので記憶が新しいうちに感想を書くことにする。
公演の基本的な情報は→ ttp://blog.livedoor.jp/masamifc/archives/1417699.html
1.コンチェルト
ショスタコービッチ作曲ピアノ協奏曲第2番に振付が加えられたもの。特に明確なストーリーはつけられていない、抽象的な作品である。この公演独自の美術だろうか、大きな部屋の中という場面が与えられている。部屋には大きな窓が配置してあり、青い海や空を思わせる印象派的な光景が奥に広がっている。説明では窓の外についてnaturalistic world(自然界)を意識しているとのことだ。このような示唆に加えて、ダンサーたちの衣装が色調を様々に変えた青で統一されているのを見ていて、各楽章について次のようなストーリーが思い浮かんできた。
第1楽章(楽曲を聴く→YouTube)
賑やかなお昼の海、魚たちが軽快に波と戯れている。
第2楽章(楽曲を聴く→YouTube)
静かな夜の海、月の光が水面に映り、揺れている。
第3楽章(楽曲を聴く→YouTube)
翌朝、気の早い魚が戯れ始める。他の魚も加わってくる。
しかし波が激しくなっていく。翻弄されていく魚たち。波と魚が見分けがつかなくなっていく。
最初ダンサーたちが手を大きく広げ羽ばたくような仕草をするので空に舞う鳥と風と見立てることができそうだったが、全体的な「動」と「静」の配分として風というイメージよりも海の動きに近く、群舞の手の動きも波を思わせるものだったので、魚と波(海面)というイメージと見立てた次第である。休憩時間に近くにいた人が波を想起したと話していて、同様の印象を受けたようだった。
第1楽章と第3楽章の前半はソリスト=魚、群舞=波と位置づけられる感じであったが、第2楽章は水面そのものという印象を受けた。夜の静かな海に生き物は似合わない。ソロと群舞の動きも同じものが多かったというのもある。月が海面に映り、水の動きにあわせて揺れる光景と重なった。ソロの男女がこの部分を表現し、衣装の青野濃淡が異なっているために、明るさの違う部分で恋模様が描かれているようにも感じた。
「月明かり 恋紡がれる 水面(みなも)かな」なんてね。
第3楽章は一足先に魚が遊び始めるようなソリストの踊りから始まるが、まもなく音の厚みが増し、多くのダンサーが登場してくる。息をつく間もなく次から次へとフレーズが現れ、踊りも間断なく続いていく。もうここでは、どれが波でどれが魚かなんて見立てる余裕もない。全体がひとつのまとまりとして、圧倒的な存在感を発したまま終わる。
ここで、作品のテーマとして「自然界の秩序」というものが浮かんできた。自然界は原理は物理法則であるが、あまりに複雑で幾何学のように整然としたものではない。波の色も高さもひとつとして同じものはない。また、自然の動きは豪快でそこにいる生物の死を厭うこともしない。生も死も愛も恨みも悲喜劇も全て飲み込んでくる。
プロのハイレベルな踊りであってもよくよく見れば個々人の差異がある。波を表現する手の動きも、高さやタイミングはほんの少し異なる。この違いこそが自然なのである。そして、そんな細かい「粗探し」もできなくなるような勢いで圧倒されて終わるのである。
また、窓には大きな間仕切りがあり、舞台が部屋の中という人間の空間であるとはっきりとしている。それでも、その人間の空間においても、同じものが繰り広げられている。人間も自然の一部になるときがある、ということを意識させられる。同化の感覚。これは、先日の屋久島旅行で同様のことを感じたから、だけかもしれないけれど。
2.チェックメイト
チェスを題材にした作品。作品が成立した1930年代後半のイギリスとドイツを想起すれば話の展開を整理できそうである。
「赤」はイギリス。キングは老齢・虚弱で判断の思い切りがない。クイーンは宥和をしようとするがあえなく失敗してご退場。ナイトは命令を受けたわけでもなく自発的に守りに奮闘。相手のクイーンを追い詰めるもキングが慈悲をかけようと止め、その間にやられる。ナイトの死にも悠長に荘厳な葬式をする。残ったのはキング一人。
「黒」はドイツ。キングがいない(君主が退いた時代)。ビショップもいない(ナチス下、キリスト教の影響力低下の時代)。統率はクイーンが行う。自ら剣を持ち、ナイトにビシビシ命令する。トップダウン。組織的で統率がとれている。相手の善意の行動には全て裏切る。圧倒的勝利を収める。
イギリスの作品でありながらイギリスが負ける結末になっている。このままではやばいよ!という時代の雰囲気だったのだろう。「赤」に救いはない。神様が見ていてバチが当たる、因果応報を主体とする日本人の宗教観からは納得がいかないかもしれない。
これに加え、個人的な視点として、日本の将棋と比較してどうかな、なんてことも思いながら鑑賞してみた。まず最初に指摘できることは、将棋にはクイーンのような女性がいないということだ。基本的に男性のみの編隊が想定されているだろう。愛の物語を描くのは難しそうである。脱線するが、将棋の駒を二次元美少女/美男子擬人化すれば当たると個人的に思っている。アイデアに著作権はないので誰か試してみてね。
次は、駒は自己判断ではなく王の命令で動くが、やられても相手に寝返ってまた登場することが指摘できる。駒のぶつかり合いは生死をかけた殺し合いというより、生け捕りに近いものがあるだろう。命をかけているのは王だけ、実に牧歌的だ。駒は命令に忠実に従うけれども、自分の意思というよりやらされている感で、相手側に身柄が渡ればそこでまた同じように振舞う、という感じだろうか。なんとなく坂口安吾「続堕落論」を思い出した。
こうしてチェスと将棋のルール等から文化の違いを見出そうとすると、他にも色々と考えられるだろう。日本的な話の筋として、善と悪の陣に分けることはなく、角や飛車といった大駒を歩の集団が打ち負かしたり、劣勢を覆して勝利とか、そういう感じになるだろう。文化の対照を意識した作品ができたら面白いな、なんて思った。
3.パキータ
パキータは古典作品で、これぞクラシックという感じの演目だ。20世紀の比較的新しい抽象的作品・ストーリー物の作品と続け、そして最後に古典を持ってくることで、バレエの様々な可能性を提示しているように見える。古典モノで特にストーリーや意味づけを詮索したりはしなかった。純粋に舞台を見るというのも大切だ。
幕が開いてまず目を引くのが衣装と舞台美術の豪華さである。"gorgeous"と"noble"は当然には両立しない。両方を感じさせるために色使いや形の工夫がたくさんなされたんだろうなあ、と思った。踊りは、ソリストの方たちの音との合わせ方が見事であったし、主役の二人は立ち姿のプロポーションからまず完成されていて、手も長く、技術的にも素晴らしいと感じた。特に男性が舞台を大きく回りながら一周するところで、ひとつのサイクルごとに途切れを感じさせることなく、流れるように回っていったところに思わず唸った。
ということで、自己流っぽいけれど、とてもよく楽しめました。
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1.コンチェルト
ショスタコービッチ作曲ピアノ協奏曲第2番に振付が加えられたもの。特に明確なストーリーはつけられていない、抽象的な作品である。この公演独自の美術だろうか、大きな部屋の中という場面が与えられている。部屋には大きな窓が配置してあり、青い海や空を思わせる印象派的な光景が奥に広がっている。説明では窓の外についてnaturalistic world(自然界)を意識しているとのことだ。このような示唆に加えて、ダンサーたちの衣装が色調を様々に変えた青で統一されているのを見ていて、各楽章について次のようなストーリーが思い浮かんできた。
第1楽章(楽曲を聴く→YouTube)
賑やかなお昼の海、魚たちが軽快に波と戯れている。
第2楽章(楽曲を聴く→YouTube)
静かな夜の海、月の光が水面に映り、揺れている。
第3楽章(楽曲を聴く→YouTube)
翌朝、気の早い魚が戯れ始める。他の魚も加わってくる。
しかし波が激しくなっていく。翻弄されていく魚たち。波と魚が見分けがつかなくなっていく。
最初ダンサーたちが手を大きく広げ羽ばたくような仕草をするので空に舞う鳥と風と見立てることができそうだったが、全体的な「動」と「静」の配分として風というイメージよりも海の動きに近く、群舞の手の動きも波を思わせるものだったので、魚と波(海面)というイメージと見立てた次第である。休憩時間に近くにいた人が波を想起したと話していて、同様の印象を受けたようだった。
第1楽章と第3楽章の前半はソリスト=魚、群舞=波と位置づけられる感じであったが、第2楽章は水面そのものという印象を受けた。夜の静かな海に生き物は似合わない。ソロと群舞の動きも同じものが多かったというのもある。月が海面に映り、水の動きにあわせて揺れる光景と重なった。ソロの男女がこの部分を表現し、衣装の青野濃淡が異なっているために、明るさの違う部分で恋模様が描かれているようにも感じた。
「月明かり 恋紡がれる 水面(みなも)かな」なんてね。
第3楽章は一足先に魚が遊び始めるようなソリストの踊りから始まるが、まもなく音の厚みが増し、多くのダンサーが登場してくる。息をつく間もなく次から次へとフレーズが現れ、踊りも間断なく続いていく。もうここでは、どれが波でどれが魚かなんて見立てる余裕もない。全体がひとつのまとまりとして、圧倒的な存在感を発したまま終わる。
ここで、作品のテーマとして「自然界の秩序」というものが浮かんできた。自然界は原理は物理法則であるが、あまりに複雑で幾何学のように整然としたものではない。波の色も高さもひとつとして同じものはない。また、自然の動きは豪快でそこにいる生物の死を厭うこともしない。生も死も愛も恨みも悲喜劇も全て飲み込んでくる。
プロのハイレベルな踊りであってもよくよく見れば個々人の差異がある。波を表現する手の動きも、高さやタイミングはほんの少し異なる。この違いこそが自然なのである。そして、そんな細かい「粗探し」もできなくなるような勢いで圧倒されて終わるのである。
また、窓には大きな間仕切りがあり、舞台が部屋の中という人間の空間であるとはっきりとしている。それでも、その人間の空間においても、同じものが繰り広げられている。人間も自然の一部になるときがある、ということを意識させられる。同化の感覚。これは、先日の屋久島旅行で同様のことを感じたから、だけかもしれないけれど。
2.チェックメイト
チェスを題材にした作品。作品が成立した1930年代後半のイギリスとドイツを想起すれば話の展開を整理できそうである。
「赤」はイギリス。キングは老齢・虚弱で判断の思い切りがない。クイーンは宥和をしようとするがあえなく失敗してご退場。ナイトは命令を受けたわけでもなく自発的に守りに奮闘。相手のクイーンを追い詰めるもキングが慈悲をかけようと止め、その間にやられる。ナイトの死にも悠長に荘厳な葬式をする。残ったのはキング一人。
「黒」はドイツ。キングがいない(君主が退いた時代)。ビショップもいない(ナチス下、キリスト教の影響力低下の時代)。統率はクイーンが行う。自ら剣を持ち、ナイトにビシビシ命令する。トップダウン。組織的で統率がとれている。相手の善意の行動には全て裏切る。圧倒的勝利を収める。
イギリスの作品でありながらイギリスが負ける結末になっている。このままではやばいよ!という時代の雰囲気だったのだろう。「赤」に救いはない。神様が見ていてバチが当たる、因果応報を主体とする日本人の宗教観からは納得がいかないかもしれない。
これに加え、個人的な視点として、日本の将棋と比較してどうかな、なんてことも思いながら鑑賞してみた。まず最初に指摘できることは、将棋にはクイーンのような女性がいないということだ。基本的に男性のみの編隊が想定されているだろう。愛の物語を描くのは難しそうである。脱線するが、将棋の駒を二次元美少女/美男子擬人化すれば当たると個人的に思っている。アイデアに著作権はないので誰か試してみてね。
次は、駒は自己判断ではなく王の命令で動くが、やられても相手に寝返ってまた登場することが指摘できる。駒のぶつかり合いは生死をかけた殺し合いというより、生け捕りに近いものがあるだろう。命をかけているのは王だけ、実に牧歌的だ。駒は命令に忠実に従うけれども、自分の意思というよりやらされている感で、相手側に身柄が渡ればそこでまた同じように振舞う、という感じだろうか。なんとなく坂口安吾「続堕落論」を思い出した。
こうしてチェスと将棋のルール等から文化の違いを見出そうとすると、他にも色々と考えられるだろう。日本的な話の筋として、善と悪の陣に分けることはなく、角や飛車といった大駒を歩の集団が打ち負かしたり、劣勢を覆して勝利とか、そういう感じになるだろう。文化の対照を意識した作品ができたら面白いな、なんて思った。
3.パキータ
パキータは古典作品で、これぞクラシックという感じの演目だ。20世紀の比較的新しい抽象的作品・ストーリー物の作品と続け、そして最後に古典を持ってくることで、バレエの様々な可能性を提示しているように見える。古典モノで特にストーリーや意味づけを詮索したりはしなかった。純粋に舞台を見るというのも大切だ。
幕が開いてまず目を引くのが衣装と舞台美術の豪華さである。"gorgeous"と"noble"は当然には両立しない。両方を感じさせるために色使いや形の工夫がたくさんなされたんだろうなあ、と思った。踊りは、ソリストの方たちの音との合わせ方が見事であったし、主役の二人は立ち姿のプロポーションからまず完成されていて、手も長く、技術的にも素晴らしいと感じた。特に男性が舞台を大きく回りながら一周するところで、ひとつのサイクルごとに途切れを感じさせることなく、流れるように回っていったところに思わず唸った。
ということで、自己流っぽいけれど、とてもよく楽しめました。
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