あも&サチアキの交換日記

どうやら交換日記が続いているようです(祝何年目?

伝えたいことがある時の態度のようなもの

2020-10-02 | from:amo
クソみたいな話だけど、伝えたいことを伝える時
どういった手法があるか?というのは
表現者だけじゃなくてもたくさんの方が考えることであって
例えば子供が親にものをねだる時なんてのもその一つで
プレゼン力が試されるものなんだろう。
って、そんなことを思って本当にクソだな……
なんていう気持ちになっているsachiakiです。

こんなんだからコミュニケーションオバケみたいなやつだけ
もてはやされて不器用は埋もれていくしかないのか……
なんて気持ちになったりもするんだけど、
そういうのは置いておいて。

純粋に。
むしろ、単純に。

最近になって覚えた様々なものがあるけれど
それらの中にフェミニズムとか、ミソジニーだとか
そういったものも含まれるんだけど、
色々と見てきて思い辿りつきつつある考えの一つに
”感度の問題”と”伝え方”の二つがとても大切なのだろうな
なんてことを思ったりしているところです。

つまり、”感度”が足りない人にとっては
いつまでたっても”辛い”と訴える側の”辛さ”に思いを寄せることはできず
ただ他の人はなんにも”辛い”と感じていないのに
ただ喚いているいるだけの人に見えるということだったり、
「私は平気なのに、あんたはなんで辛いと思うんだ」であったり、
「そんなことを問題にするぐらいならもっとちゃんとしろ」
と一蹴するだけであったり。
そもそも「それは問題なのか?」だというものだったり。

ニーチェ的にいうなら超克して、超人になってしまえば
すべての悩みから脱し、
新人類として新しい文化を築いていくことも可能なのでしょう。

だけど、まぁ、そういうのってブッダが云千年から言っている通り
「悟りたまえよ」みたいなもので
それができないから悩みがつきないのも本当なわけですわな。

そもそもフェアでないことを受け入れる
その悩みから脱却するのが最善であるという解決方法では
それこそ自己責任の極みであって、社会を営んでいる意味があまりない。
個人個人の悩みは自己責任でもよろしいかと思うけれど、
個人個人とされる悩みが集まり出したら
それは個人ではなく仕組みの問題なんじゃないだろうか。

というわけで、じゃぁア・セッションプリーズ!って
聴衆を鼓舞して問題提議してみたものの
ある集団とある集団を分断するなんてことはもってのほかだし、
無駄に煽るんじゃねーよっていうのもあるよね。

人々の興味をそそるための”怒り装置”を使うのも
それは戦略上ある話ではあるけれど、
燃料がでかいものの取り扱いが難しいのは
物理の問題とも共通するわけですよね。
つまり、”怒り”っていうもののエネルギーはでかい。
だから”怒り”を扱う場合は、より高度なテクニックが必要だということ。

だからここにきて、”伝え方”というテクニックが必要になるね。
っていう話に戻ってくるわけ。

誰かが目の前でぶん殴られるなどの暴力にさらされている時、
これはエネルギーがでかい事象なので
”怒り”エネルギーで自衛をしたり、
誰かを守るための力の発散が必要だと思うけれど、
現場から離れていけば離れていくほど、
その”怒り”が別のものにすり替わる可能性もあるわけで
よりクレバーな情報伝達が必要となると思います。

というわけで、いたずらにアジテーションしてみたところで
全ての人にフックするかといえば
むしろ「あいつウルサイな」なんて言われかねない状況。
怒っている人をバカにするなんて態度は最悪だけど、
バカにされていて伝えたいことも伝えられないのは
もっとよくない状況なのかもしれないな、
なんてことを思ったりもするのです。

なんでそんなことを思っているかといえば
とある人の「こんなに辛い」という訴えに対して
あまりにも周りが「そんなことよりも自分が幸せになりなよ」
って嘲笑して(いるわけではないと思うけれど)
問題をなかったかのようにしようとするのを見て
こちらまで悔しい気持ちになっていたからだったりして。

ー肩の力を抜けよ。

そりゃそうなんだろうけどよ。

どうして「辛い」という言葉を封じようとするのか
なかったことにしたいのか、とっても謎なんですよ。

なんてことを考えていたらもう夜ですわ。
今日も今日とて終わっていない作業を進めてきます。
そんじゃーまた。モイモイ
コメント
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