昨日のニュースで中学生が同級生に刺されて亡くなった事件について
色々な話が飛び交っているけれど、
私があのニュースで思い出したのは
今もなお好きな映画を上げろと言われたら上位に食い込んでくる
『リリィ・シュシュのすべて』みたいだなぁってことでした。
人には人のそれぞれの地獄がある。
どっかのアナウンサーの言葉ですけれど
本当にそうだなぁって思うsachiakiです。
いじめられていたとか、いじめとかじゃなくて被害者妄想が強かったとか
そういうの第三者にわかるかよっていうのが一番の気持ちで
いじめっ子にはいじめっこの
いじめられっこにはいじめられっこの
被害者意識が強い人には強い人の
それぞれの事情があって、それぞれにときほぐさないとならない問題があるのに
なんでしたり顔で「いじめは良くない」とか
「プッツン系は暴力性を秘めているからそもそも危ない」とか
そういう話になるんだろうって悲しい気持ちになっていました。
そりゃいじめは良くないし、
いじめられっこには保護が必要だし、
被害者意識が強い人には現実認知についての指導が必要だけれど、
そもそも中学時代のあの暴力と理性の折り合いがまだ難しい時代の
とにかく不安定さ丸出しの少年少女に
どんな正義が通用すると思っているんだろう
なんてことを思ったりしてました。
大人ができることといったら、
家庭訪問などをした時の家の状況、親の考え方、子への接しかたなどを見て
危険因子を察知して、子供の行動をよく見ておくってぐらいだろうけれど
教師だって世話する生徒の人数が多いから見逃すだろうし、
危険因子を持つ子供らに自力でどうすれば逃げ道を作れるか
そういったことを常にアプローチしていくぐらいしかできないんじゃないだろうか。
それは子供だけでなく、
現在大人である人たちにもストレスチェックがあるのと同様に
今どれだけ自分が不安定であるかのチェックを欠かさないようにすることと
不安の程度が上がってきた時の対処法を身につけておくことが大事で
自分のスキーム(仕組み)をよく認知しておくことが何より大事なのではないでしょうか。
例えば最近甘いものをやたらと食べるなって気づいたら
それは体が疲れている証拠だし、その疲れが暴発してダウンしてしまう前に
有給を取るとか、誰かにヘルプを頼むとか
そういったことができるだけでもだいぶ生き方が変わると思います。
自分がどういったことに不満を感じやすいか
どういったことにストレスを感じやすいか
またはどういった時に喜びを感じるか、
そういったことをよくよく知っておくことと
それらをメモして自分の頭で考えることが難しくなっている時に
(だいたい疲れがピークであったり、心が折れている時には
頭がそんなに動かなくなっているものなので)
そのメモを見返して自分の喜ぶことや癒されることを実行すると良いんじゃないかな。
それがスキームを使いこなすってことだろうし。
他人からは見えないことがあまりに多くって
この世にはなぜって思うことが多すぎるから
自衛のためにも自分のことをよく知っておくのは大事だと思います。
まぁ自分のことって見えにくいんだけど。
ともかく。
私の中学時代はクラスメイトは誰も助けてくれないって思っていたけれど
それは私が誰にも助けを求めなかったからだし、
よく怒っていたのは周りがあまりに何もしないからだったけれど
例えそれが裏切られている気持ちであったとしても
それに折り合いをつけられる方法はあったと思うし、
あいつはキレやすいって言われていたとしても
あの時の正義感が別の人を救っていたのも確かだし、
それらはいじめられていた、というにはあまりに浅いことだったけれど
尊厳は踏みにじられていたことは確かだったし、
教師はまるで役に立たなかったけれど、
あの時の私が誰か(自分含む)を殺傷せずに済んだのは
ひとえに家族が味方でいてくれたことと
話を否定せずに聞いてくれてたことだと思っているので
もし家族すらも味方がいなかったらと思うと
やっぱり今回の同級生を刺してしまった生徒のことを
とやかくいうつもりもないし、
刺されてしまった側についてはお悔やみ申し上げますとしか言えない。
なにがあったのか、
なんていうのは当事者同士の中でも闇の中であることもあるだろうし。
そんなとりとめもない話。
たぶん”まっとうに生きる”ってことは
なにか思っていることがあっても”習わし”に沿って
”そういうものだ”と蓋をすることができる耐性の強さでもあって
それは誰かを虐げていることにも向き合わないってことでもあるけれど、
そんなことを言い出したらキリがないので
向き合おうとした瞬間に人は狂うのかもしれないな
とかそんなことも久々に感じたりしてました。
私たちは暴力の中に生きていて、
暴力をふるわずには生きていられないのかもしれない。
し、そんなことはないのかもしれなくて
全部妄想でパラノイア的なものなのかもしれない。
そういやそんな話をした気もする。
踊り狂い疑問も持たない方がおそらくハッピーなのだ。
とか、また面倒なことを書き始めてしまっているので
イラストを描きに行ってきます。
悲しみや辛いことが多い時の方が創作活動は捗るものなのです。イエイ。
そんじゃまた!モイモイ。
色々な話が飛び交っているけれど、
私があのニュースで思い出したのは
今もなお好きな映画を上げろと言われたら上位に食い込んでくる
『リリィ・シュシュのすべて』みたいだなぁってことでした。
人には人のそれぞれの地獄がある。
どっかのアナウンサーの言葉ですけれど
本当にそうだなぁって思うsachiakiです。
いじめられていたとか、いじめとかじゃなくて被害者妄想が強かったとか
そういうの第三者にわかるかよっていうのが一番の気持ちで
いじめっ子にはいじめっこの
いじめられっこにはいじめられっこの
被害者意識が強い人には強い人の
それぞれの事情があって、それぞれにときほぐさないとならない問題があるのに
なんでしたり顔で「いじめは良くない」とか
「プッツン系は暴力性を秘めているからそもそも危ない」とか
そういう話になるんだろうって悲しい気持ちになっていました。
そりゃいじめは良くないし、
いじめられっこには保護が必要だし、
被害者意識が強い人には現実認知についての指導が必要だけれど、
そもそも中学時代のあの暴力と理性の折り合いがまだ難しい時代の
とにかく不安定さ丸出しの少年少女に
どんな正義が通用すると思っているんだろう
なんてことを思ったりしてました。
大人ができることといったら、
家庭訪問などをした時の家の状況、親の考え方、子への接しかたなどを見て
危険因子を察知して、子供の行動をよく見ておくってぐらいだろうけれど
教師だって世話する生徒の人数が多いから見逃すだろうし、
危険因子を持つ子供らに自力でどうすれば逃げ道を作れるか
そういったことを常にアプローチしていくぐらいしかできないんじゃないだろうか。
それは子供だけでなく、
現在大人である人たちにもストレスチェックがあるのと同様に
今どれだけ自分が不安定であるかのチェックを欠かさないようにすることと
不安の程度が上がってきた時の対処法を身につけておくことが大事で
自分のスキーム(仕組み)をよく認知しておくことが何より大事なのではないでしょうか。
例えば最近甘いものをやたらと食べるなって気づいたら
それは体が疲れている証拠だし、その疲れが暴発してダウンしてしまう前に
有給を取るとか、誰かにヘルプを頼むとか
そういったことができるだけでもだいぶ生き方が変わると思います。
自分がどういったことに不満を感じやすいか
どういったことにストレスを感じやすいか
またはどういった時に喜びを感じるか、
そういったことをよくよく知っておくことと
それらをメモして自分の頭で考えることが難しくなっている時に
(だいたい疲れがピークであったり、心が折れている時には
頭がそんなに動かなくなっているものなので)
そのメモを見返して自分の喜ぶことや癒されることを実行すると良いんじゃないかな。
それがスキームを使いこなすってことだろうし。
他人からは見えないことがあまりに多くって
この世にはなぜって思うことが多すぎるから
自衛のためにも自分のことをよく知っておくのは大事だと思います。
まぁ自分のことって見えにくいんだけど。
ともかく。
私の中学時代はクラスメイトは誰も助けてくれないって思っていたけれど
それは私が誰にも助けを求めなかったからだし、
よく怒っていたのは周りがあまりに何もしないからだったけれど
例えそれが裏切られている気持ちであったとしても
それに折り合いをつけられる方法はあったと思うし、
あいつはキレやすいって言われていたとしても
あの時の正義感が別の人を救っていたのも確かだし、
それらはいじめられていた、というにはあまりに浅いことだったけれど
尊厳は踏みにじられていたことは確かだったし、
教師はまるで役に立たなかったけれど、
あの時の私が誰か(自分含む)を殺傷せずに済んだのは
ひとえに家族が味方でいてくれたことと
話を否定せずに聞いてくれてたことだと思っているので
もし家族すらも味方がいなかったらと思うと
やっぱり今回の同級生を刺してしまった生徒のことを
とやかくいうつもりもないし、
刺されてしまった側についてはお悔やみ申し上げますとしか言えない。
なにがあったのか、
なんていうのは当事者同士の中でも闇の中であることもあるだろうし。
そんなとりとめもない話。
たぶん”まっとうに生きる”ってことは
なにか思っていることがあっても”習わし”に沿って
”そういうものだ”と蓋をすることができる耐性の強さでもあって
それは誰かを虐げていることにも向き合わないってことでもあるけれど、
そんなことを言い出したらキリがないので
向き合おうとした瞬間に人は狂うのかもしれないな
とかそんなことも久々に感じたりしてました。
私たちは暴力の中に生きていて、
暴力をふるわずには生きていられないのかもしれない。
し、そんなことはないのかもしれなくて
全部妄想でパラノイア的なものなのかもしれない。
そういやそんな話をした気もする。
踊り狂い疑問も持たない方がおそらくハッピーなのだ。
とか、また面倒なことを書き始めてしまっているので
イラストを描きに行ってきます。
悲しみや辛いことが多い時の方が創作活動は捗るものなのです。イエイ。
そんじゃまた!モイモイ。