だけど、その名乗りをするにあたって
自分がなんて名乗るのかを確定していない場合
うまくいかないものだよなぁ
なんてことを考えていたsachiakiです。
前にも書いたことがあるような気がするんだけど
私は自分の名前に座りの悪さを感じていて
旧姓の頃のフルネームも今のフルネームも
いまいいちシックリしていないし、
なんならここで名乗っている「sachiaki」も
しっくりとはしてないんですよね。
なんじゃそりゃ?と思われるかも。
で、このシックリこない感じってのが
名前だけじゃなくて
自分の関わる全てに対して感じられていて
自分の職業だったり、性別だったり。
だから全ての物事に対して
「仮に」というイメージをつけて
接しているところがけっこうあったりします。
まぁその方が具合がいいということもあるかな。
なんとなくこういう人なんだろうなって思っていた人が
全然違った面を見せてきた時も
上書きしやすいというか、
「仮に」にしてあるので
その人へのイメージを分岐させることができるというか。
仏教観でいうところの”無常”というものが
自分の中で一番ビタッとくる感じでしょうか。
常に変わり続け、変わらぬものなどない。
しかし世の中そんな変化し続けて
実態の掴めないものなんて気持ちが悪いので
なるべく相手が思う「こうだ」というものに
ピタッとくる名前や物語を提供して
自分が気味の悪いものではないと
信用してもらわないと何もできないんですよね。
だから固定しているものが強く長い人こそ
信用されるし、受け入れられるのも早い。
そういうものなのですよね。
そんなわけなので、
座りが悪いのも恥ずかしいのも全部取っ払って
「私は◯◯です」と言い切って
それっぽく見せられればなんとかなるもののようです。
とある社会学者さんも言っていました。
5割ぐらいわかっているのなら
それはもう「◯◯を知っている」と言って
どんどん外に出していけと。
間違ったことは広めてはいけないけれど、
間違ったことを伝えてしまった時に訂正し、
その訂正が自分をさらに進化させてくれるのだから
精度はどんどん上がっていくのだと。
まぁ私の場合、もう将来が見えなくなってしまったので
自分がどうありたいのかとか
全然思いつかないってことがネックなんですけれど……。
やりたいことはいっぱいあるし、
妄想ならあるんだけどね〜。
いやはや難しい。
こんな状態で次の誕生日を迎えられるのでしょうか。
不安定な日々をなんとか生き延びたいと思います。
それではまた!モイモイ