私はテニスを43年も愛好してきた大のテニスファン。だからテレビでウィンブルドンの試合を観て、一つ一つのプレーに心から感動する。それがどれほど超人的で驚くべきものか、実際にプレーしているからこそ分かるものがある。
同じように、長らく教師をプロとして経験したので、聖書にある神さまとは、実に偉大な教育者であると真底感動する。今回のイスラエル派遣では、ほんとうに久しぶりにヨッパに行くことができた。ここはドルカスが住んでいた街であり、ケパによって生きかえさせられたところである。今日の話は旧約聖書に出てくるもう一つの話で、ヨッパから航海に出た預言者ヨナの話である。(右絵は大魚からはき出されたヨナ)
真の教育とは、知識を詰め込むことよりも、良き人間に変容させることである(全人教育などとも言う)。ところがこれが至難の業である。というか、私のような粗末な教師ごときにできることではなかった。しかし神にはできるのである。その典型的な例を旧約聖書のヨナ記に見ることができる。
一言で言えば、「自分で体験し、その誤りに自ら気づかねば、頑ななこころを溶かし、悔い改め、心を変えることは出来ない」ということだ。
神はイスラエルの預言者であるヨナに、強大な敵国アッシリアの首都ニネベに行き、その民に悔い改めを迫れと命じる。アッシリアは先には南ユダ王国を攻め、欺いてその審きを受け、後にヨナの母国北イスラエルを滅ぼすことになる宿敵の国だった。もし自分が使命を果たし、ニネベの町が悔い改めたら、あわれみ深い神はニネベの町を滅ぼさないだろう。するとイスラエルが滅んでしまうことを悟ったヨナは、愛国心の故にこの命令を忌避する。
そしてイスラエルの港町ヨッパから遠国に船で逃れようとするのだが、なんと船は激しい嵐のため難破しそうになり、災いを呼び込んだヨナは自分を海に投げ出し、難を逃れるように乗組員に進言する。そのヨナを大魚がジャストタイミングで飲み込んだ大魚がいて、三日三晩ヨナはその腹の中で過ごす。結局ヨナは悔い改めて、命令を果たすことになった。
ここまででも相当すごい話(大魚に飲み込まれ、三日間も過ごし、陸地に戻される)だが、これはイエス・キリストも認められた(マタイ12:39-41・ルカ11:29-32)話なので、私としてはこれを事実と信じる。天地創造の神にはできないことはない。教育者の問題はこの話の後なのだ。
さて、ヨナが使命を果たすと、ニネベの人々は王から民にまで悔い改めた。そうなるとヨナは成功を喜ぶどころか、すこぶる面白くない。きっと自国イスラエルの滅亡がこれで決定的になったからだろう。ヨナは広島弁で言う「はぶてる(不満たらたら)」のである。ここからである、神様の偉大な教師ぶりがわかるところは。
神はきつい役回りをさせたヨナに体験をさせ、骨身に浸みてから分からせてから教えられるのだ。頭では納得して従ったヨナも、感情というものがついていかない(はぶてる態度のこと)。それはありのままの人間の姿でもある。普通はそんなはぶて者に「馬鹿モン!」と一喝して終わりだろう。
ところが神はニネベの町外れに陣取っているヨナに、一本のとうごまを生えさせ、それでヨナの頭上を覆わせる。涼しい日陰に恵まれたヨナは喜ぶが、神は次の日にはそのとうごまを枯れさせる。焼け付くような東風と照りつける日差しの中、ヨナは怒って自分の死を願うようになる。
そこで神はヨナに語られる。「あなたは、自分で骨折らず、育てもせず、一夜で生え、一夜で滅びたこのとうごまを惜しんでいる。まして、わたしは、この大きな町ニネベを惜しまないでいられようか。そこには、右も左もわきまえない十二万以上の人間と、数多くの家畜とがいるではないか。」(ヨナ4:10-11)と悔い改めた町をあわれむのが正しいことを教えられる。まさにぐーの音も出ない、これこそ偉大な説諭ではないだろうか。完全に参りました神様。(下方の挿絵は「アトリエTrinity」から)
ケパ