今日は信州はドルカスの実家に朝から来ている。
道は東京の杉並から環七で練馬ICへ。関越道をまっすぐに走ると、いつもながら関東平野の広さに驚いてしまう。時速100kmで1時間以上走っても平野は尽きない。郷里の広島はデルタや盆地の町ばかりで、市街地をのろのろ数十分走ったらおしまいの私には、どうしてもこの広さには驚く・・・・のだ。
埼玉を過ぎ、群馬の高崎に入ってすぐに長野方面に分かれるが、写真はこの辺りの高速道路沿線の風景で、晩秋の風景である。盛りを過ぎかけた紅葉がきれいだった。これでは碓氷峠を越えると冬景色だと予想したが、まさにその通りだった。
二枚目の写真はタバコの写真だ。今は見事に禁煙している方の、お飾り品を拝借して撮った。近頃はこんなにもでっかく「健康への重大な害」「中毒への警告」が刷られているのかと、これも驚いた。
過去喫煙者として私も相応の経験をしたので言うのだが、正しい判断として止めなければならないことを、止めることができないのが中毒。ならば、この自分を支配するものに対して、「ゆるせない思い」、戦うファイトはわかないものだろうか。それともあきらめたのだろうか。情けないことにわたしはやめる時、他人が吸った紫煙、吸い残した吸いモクにまで吸おうとした。そしてその自分がますます情けなく、ゆるせなく思った。やめられない気持ちもよく分かる。自分がやめることができたのは、決して自分だけの力でもない。人は弱いと、その時思い知らされた。
それならまして、自分を支配している罪(Sin・・・・宗教的な意味の罪であって、Clim・・・・法的な犯罪、罪ではない)に対して多くの人が戦えないのも無理はないのかも知れない。だから気づかないふりをして、たましい(霊)を放棄するか、あるいは勝てる手立てというか、勝算が立たないのでClimの意味で自己正当化をして良しとする、これが現実だろう。
確かに罪は、喫煙者のタバコと同じように、自分の力では勝てない。逆説的だが、自分を支配する罪に気づき、自分の力では勝てないことを自覚することから、実は勝利が始まる。
座して永遠の命、霊の死を待つのでなく、イエス・キリストの十字架に、真実の勝利があることを何とかして知っていただきたい。
思いきってキリスト教会のドアを開ける、そこに真の開放、勝利があるのだが。私たちは、あなたが教会のドアを開ける、そのことを祈り続けている。 ケパ