老いのひまつぶし

東海地方に在住の80才の男性です。
日常の喜怒哀楽を綴って行きます。

杉原千畝記念館

2018-11-02 14:18:11 | 日記
先月に市が主催の講座で県内八百津町に在る”杉原千畝記念館”へ見学に行きました。
場所は木曽川を堰き止めた丸山ダムを見下ろせる町の高台に建っております。

彼の功績については今までにニュース等で大まかには知っておりましたが、ここを訪ねた事で詳細が判りました。
彼は青年時代英語教師を目指していましたが、生活が苦しい為公費で勉強が出来る外交官留学試験に挑み、合格してロシア語研修生となり外交官の道へ進んだ。

リトアニアの首都(カウナス)に領事館が開設され、その地で外交官生活を送る。
当時のヨーロッパではナチスドイツが侵略国となり反ユダヤが激しくなり、ニュルンベルグ法が制定されユダヤ人は居住区を追われる事となる。

追い詰められたユダヤ人達は隣国のポーランドからリトアニアへと流れ込んだ。

そして彼らが最終的に向かう目的地は南米に在るキュラソー島(オランダ領)なのです。
通常ならば地中海を経て大西洋を航海すればよいのですが、このルートはドイツに閉ざされているのです。
彼等はやむなくロシア(モスクワ)から汽車でシベリア大陸を横断しナホトカ港(ロシア)へ、そして日本海を船で敦賀港へのルートを取ったのです。

それには日本国の入国ビザがどうしても必要なのですね。
難民である彼等は日本国ビザの発給をリトアニアの日本領事館に求める為に、大勢のユダヤ人が連日押し寄せたわけです。
杉原氏はビザの発給許可を本国に認めるよう依頼したが、当時の日本国政府はそれを認めなかった。

そこで杉原氏は外交官という職を失うのを覚悟して、日本政府の意向に従わずビザ(2,199通)を発給し約6,000人のユダヤ人を助けた事になるのです。
彼等はナホトカ港から敦賀に帰港後、神戸港・横浜港を経て目的地のアメリカ・カナダ・キュラソー島へ無事に着く事が出来た。

敦賀市に滞在中は市民から手厚い生活援助を得て、ここでも日本人の博愛精神に大変感激したと言っております。
その敦賀市にも”人道の港・敦賀ムゼウム”と言う展示館が金ケ崎町に在ります。

1985年 ユダヤ人の国・イスラエル政府からヤド・バシェム賞(諸国民の中の正義の人賞)を贈られて始めて彼の功績が日本全国に知られた訳です。
彼は受賞翌年に亡くなって居ますので、受賞が生存中でよかったですね。