老いのひまつぶし

東海地方に在住の80才の男性です。
日常の喜怒哀楽を綴って行きます。

名古屋市博物館へ

2010-08-22 10:34:56 | 日記

子供たちの夏休みも残り10日です。高校野球も終わり私は気分的にもう夏は済んだ様です。
沖縄・興南球児や沖縄県民の皆さん、春夏連覇おめでとう。念願の真紅の優勝旗が沖縄で見れますね。
さて先日、開催中の 「ポンペイ展」を見に猛暑の中出掛けてきました。
平日で開催日も終わりに近いので空いて居るかなと思って居ましたが、夏休みと言う事で親子連れで賑わって居ました。
2000年前のイタリアの美術・工芸品や生活用品が見られて感激しました。
ヴェスヴィオ火山の噴火に因る火山灰で当時の生活振りが一瞬にして葬られたのです。
その被害で約一万人のポンペイ市民が亡くなられる大災害でした。でも、その火山灰が貴重な遺品を大切に保存して呉れたのです。
今年3月に開催された 「大ローマ展」の様に、大理石の大きな裸像や大きな油絵・美術品は在りませんが、ポンペイ市民の豊かな生活振りが窺える展示品がありました。
信仰の為、家庭に祭られた銅製のギリシャの神像や銅製の装飾品・銀製の食器類の全てに細かい細工がしてあります。
一番驚いたのが別荘で使用されていた浴槽用のボイラーです。あの時代に蛇口をひねるだけで湯が出て来るなんて・・・、しかも追い炊きまで出来るんですよ!
出土の際の損傷も少なく保存状態の良い数々の遺品に感激しながらの数時間でした。

聞き難くなって

2010-08-18 08:57:32 | 日記

お盆も過ぎ里帰りした二人の娘や4人の孫達もそれぞれの家に戻り、また静かな三人暮らしの生活に戻りました。
私は3~4年前から耳鳴りがひどくなり時には頭の中で音が反響する場合も有りました。
睡眠不足もありこれではと仕事を引退した訳です。

その間、3軒の耳鼻科に通院しましたが、いずれも加齢に因るものと診断され良くてビタミン注射・医者によっては何も無く診断のみ。
ところがここ一年程から、就寝時の耳鳴りも薄れすぐに眠りに入るし、途中で目覚めても以前の様に耳鳴りで1~2時間寝れないと言う事も無くなりました。
反面、少し人の会話やテレビの音声が聞き取り難くなってきました。

対面キッチンから妻が離し掛けて来ても声は聴けるものの話す内容が判りません。テレビの音声もボリュームを上げますがテンポの速い会話は無理です。
今、NHKの朝ドラマ「ゲゲゲの女房」にハマってますが時々会話が判らず、その都度妻に「いま、なに言った?」と問いかけて居ります。
もともとテレビではトーク番組が好きでしたが、その面白味が半減してしまいます。特に「さんま」さんの番組ではあの早口に降参です。

里帰りした孫達の甲高い声と早口でしゃべる言葉は聞き取り難く傍観している自分が情けないです。
まあ、考えようによってはつまらん雑談に振り回されずに済むし、重要な話は面と向かって話すので真剣味が有っていいかも。



父の遺骨は

2010-08-11 21:28:37 | 日記
毎年、お盆の時期になるとTVや新聞等のメディアで太平洋戦争の悲惨さを取り上げて居ります。
私の父もシベリアで戦死となって居ります。と言うのは戦争末期に中国・北京市にて兵役を逃れる年齢なのに徴兵で満州に出兵しました。
父は大阪で数名の職人を雇い縫製業を営んで居りましたが、取引先の会社が北京市で軍服工場を設立するに当たり工場指導者として北京市に来ていました。

私達母子は昭和18年に父の元へと移住し、塀に囲まれた日本人だけの社宅に住んで居ましたがその期間は僅か1年程でした
出兵後、父からは「元気で満州の部隊に居る」との1通のハガキが母の手許に届いただけでその後は全くの音信不通です。
そして、終戦になったのです。当時母は慣れない土地での生活から軽い結核にかかり入院生活をしていました。

でも、その地に留まる事は敗戦国民として迫害を受けると言うので幼い子供を連れて各地の終結所を経て、朝鮮半島から釜山港へ引き上げ船で山口県・仙崎港に着きました。
それが昭和21年4月です。住居の在る大阪駅ホームに降り立つと大阪市街全面焼け野原。
やむなく父母の故卿の岐阜県に、そして父方の祖父母の下で貧苦に耐えながら私達二人を育てて呉れました。

日々の暮らしの中、母や祖父母は父の帰還を待ち望みラジオで放送される舞鶴港での帰還兵の状況を聴いて居りました。
でも、父の情報は全くありません。母はシベリヤからの帰還兵の人を訪ね回っても朗報は聴けませんでした。

昭和31年、当時の厚生省から父が生死不明と言うので事務手続き上戦死者となり、県庁へ遺骨箱を受け取りに行きました。
近親者でささやかな葬儀を済ませ、白木の箱はお墓に埋葬しました。でもその遺骨箱には父の名前と仮の死亡年月日が書かれた紙切れが一枚だけです。
それからずーっと今まで遺骨の無い墓ですが母と私は父のお墓としてお参りをして居ります。

今年初めに、村山常雄氏が調査し纏められた「シベリヤ抑留死亡者名簿」を姉とパソコンで父の名前を探してみましたが有りませんでした。
満州のどの部隊に居たのか聞こうにも97才の母にはもう記憶が有りません。ましてやソ連軍に連れ去られた先など判る筈が無いのです。
父の遺骨の埋葬地が判明すれば、老体に鞭打ってでもその地に訪ね遺骨の一片でも持ち帰り供養したいと願うのですが
また、今年も一枚の紙切れが入ったお墓を亡き父と思ってお参りするお盆です


ナゴヤドームへ

2010-08-07 22:41:30 | 日記

相変わらず日中は全国的に猛暑日ですね。
そんな中、昨夜は孫(小学4年)を連れてナゴヤドームへプロ野球観戦、阪神対中日戦。幸いにも孫も阪神ファンなので三塁側内野席。
まず、通路で阪神の応援グッズ、帽子・タオル・カンフーバットを買い与えました。お弁当はタイガースユニホーム弁当。

今回は席も前の方で試合前の練習姿が良く見えました。ジュースを飲みながら5時に、孫がお弁当の中身が気になり見てみたいと。
店頭サンプル画像では丸い赤い物がありミニトマト(苦手)かと心配してたら「おじいちゃん、サクランボだよ」ってニッコリ。
ご飯は赤色だ何だろう? 他にから揚げ・ソーセージ・やきそば等で美味しい、美味しいと完食。空になった容器も持って帰るとの事。

6時試合開始、孫は初めての球場観戦ですが周りの熱烈タイガースファンの真似をして手にしたカンフーバットを打ち鳴らしてました。
観戦中、ジュース2杯とソフトクリーム・ポップコーン。こちらがお腹を心配するもバットを打ち鳴らす応援にお腹が空くのかぺロリです。
試合結果は1対4で負けましたが球場で生で見る試合とファンの応援に喜んでいました。

今朝、その母親(私の娘)から電話 「楽しかったからまた今度も行く」と言って、昨日買った阪神マークの帽子を頭に外出したようです。
何はともあれ、おじいさんの私としては、孫が喜んでくれて夏休みの楽しい思い出の一環となって好かったです。