老いのひまつぶし

東海地方に在住の80才の男性です。
日常の喜怒哀楽を綴って行きます。

深大寺~伊豆旅行

2018-11-25 16:09:53 | 日記
前回のブログの続きになります。少し日にちが空きましたけどね。

娘宅で一夜を過ごした翌日は娘婿がレンタカーを借りてくれて、私が行きたかった調布市に在る深大寺を訪ねました。
調布市街の道路は街路樹があって公園もあり割と緑の多い所です。
またこの市にはJAXA(宇宙研究開発機構)の本部が在るのです。私はてっきり都心に在るものだと思って居ました。

さて、深大寺ですが土曜日で天気が良いせいか参拝客(観光客?)ですごい人でした。
本堂に参拝し御朱印も頂きました、そして境内に安置された白鳳仏を拝むことも出来ました。
この白鳳仏は正式には”銅像釈迦如来椅像と言われお釈迦様が椅子の腰掛けられた姿の銅像なのです。
なぜ別名白鳳仏と言うかと、それは7世紀後半の白鳳時代に鋳造されたからです。
そして昨年(2017年)に国宝に指定されたのです。

深大寺と言えばお蕎麦が名物です、昔は蕎麦の産地だったそうです。お昼には門前と言う名のお店でお蕎麦を戴きました、蕎麦の香が味わえる美味しいお蕎麦でした。
そうそう、参道には漫画「ゲゲゲの鬼太郎」の作者”水木しげる”さんが生前に愛した甘味処”鬼太郎茶屋”が在りましたね。店の屋根には下駄が載っており、店舗前には鬼太郎の人形も立って居りました。

一度娘宅に戻り孫息子も載せて総勢6名で、一路今夜の宿が在る伊豆伊東へと向かいました。
やはり週末ですから伊豆方面の道路は混んでおりました。夕食には別注の大きな赤目鯛が一匹丸々大皿に、皆で取り分けて食べました。

翌日も良く晴れた日で城ヶ崎公園へ向かいました。途中に”ぐり茶”の専売店がありお買い物です。
ぐり茶なるお茶は私は初めて聞くのですが、試飲をしたらコクがあって美味しかったですね。
城ヶ崎では灯台に上がったり、溶岩のある歩きにくい海岸を散歩し打ち寄せて岩に砕ける波を楽しみました

今度は富士山を見ようと、伊豆中央道を経て土肥温泉近くの恋人岬?へ足を伸ばしました。
頼みの富士山は少し霞んで居ましたが何とか遠州灘超しに見る事が出来ました。
そこからJR三島駅に行きここで娘家族達と別れ新幹線こだまで帰路に着きました。
娘夫婦の企画にで本当に楽しい3日間でした、ありがとう。

東京へ

2018-11-14 14:09:58 | 日記
先週金曜日から東京に住んでいる娘家族を訪ねて東京へ。
PM11時前に到着し有楽町駅改札口で待ち合わせしました。
昼食を娘が選んでくれたお店で摂る手はずになっておりました。

そのお店は最近ミュシュランに紹介された中国点心専門店”転好運”でした。
11時開店なのに到着した時点で約100名程の人が並んでおりました。(全て女性客)
娘が少し躊躇して「どうする?」と問いかけましたが折角企画してくれたので待つ事にしました。

12:30分頃に入店し各種の点心を一皿づつ注文し、3人で取り分けて食べました。
味は?と言われても点心通ではないので、残念ながら「まあこんなものか」だけ。
この後、予定の皇居前広場から2重橋を見たかったので、徒歩で行きました。
やはり観光地ですから日本人を含め外国の人も沢山居られました。この日は皇居では秋の園遊会が開かれていたそうです。雨降りなので残念ですね。

次は明治神宮へ参拝です。神宮境内は思ったより広かった、でも歩きやすいように玉砂利道の左端が敷石道になっておりました。
七五三参りの家族や結婚挙式の家族もいらっしゃいました。持って行ったご朱印帳に記帳をを頂きました。
今までは記帳の料金が1枚に¥300でしたが、さすが東京は高いね¥500でしたよ。

予定ではこの後都庁の高層階から東京の街の景色を見る予定でしたが、雨降りなので視界が悪かろうと思い中止です。
新宿に出て京王線で娘家族が住む街”調布市”に向かいました。
娘宅では孫娘が私達の到着を待っていて、にこやかに迎えてくれました。

この日は婿さんや長男は深夜の帰宅と言う事で4人で夕食。孫娘の1日前の誕生祝いも一緒に出来て楽しかったですね。

杉原千畝記念館

2018-11-02 14:18:11 | 日記
先月に市が主催の講座で県内八百津町に在る”杉原千畝記念館”へ見学に行きました。
場所は木曽川を堰き止めた丸山ダムを見下ろせる町の高台に建っております。

彼の功績については今までにニュース等で大まかには知っておりましたが、ここを訪ねた事で詳細が判りました。
彼は青年時代英語教師を目指していましたが、生活が苦しい為公費で勉強が出来る外交官留学試験に挑み、合格してロシア語研修生となり外交官の道へ進んだ。

リトアニアの首都(カウナス)に領事館が開設され、その地で外交官生活を送る。
当時のヨーロッパではナチスドイツが侵略国となり反ユダヤが激しくなり、ニュルンベルグ法が制定されユダヤ人は居住区を追われる事となる。

追い詰められたユダヤ人達は隣国のポーランドからリトアニアへと流れ込んだ。

そして彼らが最終的に向かう目的地は南米に在るキュラソー島(オランダ領)なのです。
通常ならば地中海を経て大西洋を航海すればよいのですが、このルートはドイツに閉ざされているのです。
彼等はやむなくロシア(モスクワ)から汽車でシベリア大陸を横断しナホトカ港(ロシア)へ、そして日本海を船で敦賀港へのルートを取ったのです。

それには日本国の入国ビザがどうしても必要なのですね。
難民である彼等は日本国ビザの発給をリトアニアの日本領事館に求める為に、大勢のユダヤ人が連日押し寄せたわけです。
杉原氏はビザの発給許可を本国に認めるよう依頼したが、当時の日本国政府はそれを認めなかった。

そこで杉原氏は外交官という職を失うのを覚悟して、日本政府の意向に従わずビザ(2,199通)を発給し約6,000人のユダヤ人を助けた事になるのです。
彼等はナホトカ港から敦賀に帰港後、神戸港・横浜港を経て目的地のアメリカ・カナダ・キュラソー島へ無事に着く事が出来た。

敦賀市に滞在中は市民から手厚い生活援助を得て、ここでも日本人の博愛精神に大変感激したと言っております。
その敦賀市にも”人道の港・敦賀ムゼウム”と言う展示館が金ケ崎町に在ります。

1985年 ユダヤ人の国・イスラエル政府からヤド・バシェム賞(諸国民の中の正義の人賞)を贈られて始めて彼の功績が日本全国に知られた訳です。
彼は受賞翌年に亡くなって居ますので、受賞が生存中でよかったですね。