宮崎あおいにセーラー服を着せるとチョーかわいいね・・・・といったオタク的戯れ言で片付けるしかないような(爆)、どうしようもないシャシンである。
監督と脚本をつとめる石川寛の前作「tokyo sora.」は中身がスカスカの映画だったが、今回も同様。
こいつは、存在感のある俳優をただ並べ、そばでカメラをただ回し、それに小綺麗な映像とセンスの良い音楽を乗せれば映画になるとでも思っているのだろう。それは断じて違う・・・・と言いたい気分も虚しくなる。そんな方法では劇映画は出来ないと本人も頭では分かっているのだ。だから、後半起伏のあるエピソードを入れて物語を綴ることに腐心している。
しかし、伏線もへったくれもない行き当たりばったりの“展開”では、これまた映画にならないのだ。特に映画の前後半を繋げるはずの、恋人を交通事故で亡くして情緒不安定になっている主人公の姉のくだりが、取って付けたような説明不足の与太話になっているのは閉口するしかない。
さらに、宮崎あおいと瑛太によるティーンエイジャーの登場人物と、西島秀俊と永作博美による30代になった彼らとが、まったく繋がらない。別々の話を漫然と並べているだけのように見える。映画を撮る前に、もうちょっと作者は人生経験を積んで人間を見る目を養うべきではないのか。
一頃と比べて邦画の全体的レベルは上がっているのは確かだが、中にはこんな“ニセモノ映画作家”も堂々と作品を手掛けてしまう現実があり、このへんをどうにかしないことには、真の日本映画の復活は覚束ないね・・・・などと平凡なグチを垂れるしかない現状が悲しい。