(原題:Capote)フィリップ・シーモア・ホフマンの個人芸を見る映画だ。もちろんトルーマン・カポーティがどういう外見の人物だったのか知らないし、ホフマンがどれだけ似せることに成功したのか分からないが、少なくともここでの彼の演技は“有名作家センセイの生態”を具現化する上で大健闘していると言って良い。
カン高い声でジョークを飛ばすパーティでの人気者であり、かなりの自惚れや。身だしなみには細心の注意を払う。特に滞在先のホテルを出発する際、同行した作家ネル・ハーパー・リーの前でくるりと一回転して“本日のコーディネート”を見せびらかすあたりは思わず吹き出してしまった。
さて、映画の出来映えだが、どうもパッとしない。「冷血」の題材であるカンザス州の一家惨殺事件の容疑者ペリー・スミスに、どうしてカポーティが作家生命をかけてまでのめり込んだのか、そのあたりの説得力に欠けている点が敗因だ。
もちろん物語の持って行き方で“説明”はされているが、観る側をグッと引き込む求心力はまるでない。どこか一カ所でも良いから、強い印象を与える暗示なりモチーフなりが必要だったのはないか。
シナリオを担当したダン・ファターマンは、当初は別の人物を想定して“作家とモデル”の関係性を描こうとしていたらしく、それがたまたまある文献を目にしたのをきっかけにカポーティを主人公にすることにしたというから、最初からカポーティそのものについての掘り下げが足りなかったのかもしれない。しかも、これが監督デビューとなるベネット・ミラーの演出は平板に過ぎる。
ともあれ、個人的にはあまりピンと来ない作品であった。リチャード・ブルックスが67年に撮った「冷血」の映画化の方がよっぽど強烈だ。