19世紀の北ベトナムが舞台。14歳の主人公メイが、絹業を営む裕福な家に、第三夫人として嫁いでくる処から物語が始まる。実話がベースである。ちらしには、監督のアッシュ・メイフェアは、『スパイク・リーが激賞し製作資金を援助した、「青いパパイヤの香り」「夏至」のトラン・アン・ユンが美術監修を手掛けるなど、巨匠たちも大きな期待を寄せる期待の新人監督』とある。こういった謳い文句には弱く、否応なしに期待が高まる。
確かに、新人監督らしからぬ安定感を感じた。全編を通して、セリフが少ない。始まってから暫くは、山奥の神秘的なベトナムの風景の中をメイが嫁いでくるシーンで、人の動きと風景だけで、これから起きる人生の起伏など全く想像がつかないくらい雄大で、そして、静かである。映像美というのはこういうことを云うのだろうか。冒頭から映像に引き込まれる。カラフルだがシックな色合いのアオザイも美しい。
1991製作のチャン・イーモウ監督「紅夢」の女性同士のドロドロしたストーリーをイメージしていたが、本作は、そういったものはなく、叙情的に「生」と「死」を生々しく形を変えて、繰り返し淡々と描いた映画だった。閉鎖的な狭い村社会が舞台なので、次々と起こる「生」と「死」が隣り合わせであることも生々しさを駆り立てる。飼っている牛が出産するが、生まれた子牛が病気なのか成長することなく安楽死させるシーン。生きた鶏の首にナイフを入れ、清血を出させるシーン。第一夫人の流産。長男に嫁いできた嫁の死。「死」の連続の中で、新たに誕生した第三夫人の子供。やっと、「生」の誕生と思われたが、その子供が泣き止まず、思わず、毒花に手を伸ばしてしまう主人公。でも、実際には口には持っていかない。
冷淡に思えたりもするが、はっきりと「生」と「死」を区別させ、今、この瞬間の「生」を生きる者達(=自分も含む)に、現実を生きる辛さ、苦しさ、楽しさ、嬉しさ等々を感じることが出来る喜びを、言葉ではなく映像で表現している。
全編を通して、ベテランの域に達するような作品だった。世界の映画祭で賞を獲得している。監督の次回作にも期待したい。
(kenya)
原題:「The Third Wife」
監督・脚本:アッシュ・メイフェア
撮影:チャナーナン・チョートルンロート
出演:グエン・フォン・チャー・ミー、トラン・ヌー・イエン・ケー、マイ・トゥー・フォン他
確かに、新人監督らしからぬ安定感を感じた。全編を通して、セリフが少ない。始まってから暫くは、山奥の神秘的なベトナムの風景の中をメイが嫁いでくるシーンで、人の動きと風景だけで、これから起きる人生の起伏など全く想像がつかないくらい雄大で、そして、静かである。映像美というのはこういうことを云うのだろうか。冒頭から映像に引き込まれる。カラフルだがシックな色合いのアオザイも美しい。
1991製作のチャン・イーモウ監督「紅夢」の女性同士のドロドロしたストーリーをイメージしていたが、本作は、そういったものはなく、叙情的に「生」と「死」を生々しく形を変えて、繰り返し淡々と描いた映画だった。閉鎖的な狭い村社会が舞台なので、次々と起こる「生」と「死」が隣り合わせであることも生々しさを駆り立てる。飼っている牛が出産するが、生まれた子牛が病気なのか成長することなく安楽死させるシーン。生きた鶏の首にナイフを入れ、清血を出させるシーン。第一夫人の流産。長男に嫁いできた嫁の死。「死」の連続の中で、新たに誕生した第三夫人の子供。やっと、「生」の誕生と思われたが、その子供が泣き止まず、思わず、毒花に手を伸ばしてしまう主人公。でも、実際には口には持っていかない。
冷淡に思えたりもするが、はっきりと「生」と「死」を区別させ、今、この瞬間の「生」を生きる者達(=自分も含む)に、現実を生きる辛さ、苦しさ、楽しさ、嬉しさ等々を感じることが出来る喜びを、言葉ではなく映像で表現している。
全編を通して、ベテランの域に達するような作品だった。世界の映画祭で賞を獲得している。監督の次回作にも期待したい。
(kenya)
原題:「The Third Wife」
監督・脚本:アッシュ・メイフェア
撮影:チャナーナン・チョートルンロート
出演:グエン・フォン・チャー・ミー、トラン・ヌー・イエン・ケー、マイ・トゥー・フォン他