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「在りし日の歌」(2019年 中国)

2020年12月30日 | 映画の感想、批評


 1986年、中国の地方都市。同じ国有企業で働くヤオジュン&ユーリン夫婦とインミン&ハイイエン夫婦には同じ生年月日の息子がいて、互いの子供と義理の両親の契りを交わしていた。ある時ユーリンが第二子を妊娠したことが発覚し、計画生育事務局にいたハイイエンは一人っ子政策に基づき堕胎を迫る。強制的に中絶手術を受けさせられたユーリンは妊娠できない体になってしまう。数年後、リーユンは工場の人員整理の対象となり、さらに長男のシンが水難事故で死亡するという悲劇に見舞われる。いたたまれなくなったヤオジュンとリーユンは逃げるように住み慣れた街から姿を消す・・・
 1976年に毛沢東が亡くなると、最高指導者となった鄧小平は毛沢東の権力闘争と言われた文化大革命を終結させ、改革開放政策や一人っ子政策を打ち出して社会主義市場経済を推進した。軍事的、経済的に目覚ましい発展を遂げ、今や超大国アメリカを脅かすほどの強国へと成長した中国だが、1980年代から現在へ至る激動の時代に国の施策の犠牲になった人は数知れない。この映画の主人公も苛酷な運命に翻弄され、2人の子供を亡くしている。第二子は一人っ子政策の犠牲になったが、第一子(長男)は不慮の事故により命を落とした。その真相が20年後に明らかになる。インミンとハイイエンの息子であるハオが、ヤオジュンとリーユンにシンの死の経緯を語る場面がこの作品の最大の山場になっている。
 物語は三つの時代を行き来する。 
① 1980年代~90年代 ②1990年代~2000年代 ③2010年代(現代)
時間軸は①と②の間を頻繁に移動し、最終的に③の時代に到着して終焉を迎える。プロットの展開が込み入っているのは単調さを避けるためだろうか。重要なエピソードをロングショットで見せたり説明的な場面を省いたり、映像や音楽、演出に映画的センスを感じる。完成度の高い作品だとは思うが、作品のテーマにはいささか疑問を感じる。
 「在りし日の歌」の原題「地久天長」は永遠の友情を意味するらしい。日本人にもなじみの深い「蛍の光」が劇中で何度も流れるが、この曲の中国名が「地久天長」であり、スコットランド民謡の「Auld Lang Syne」が原曲になっている。原曲の歌詞は<旧友と思い出話をしつつ酒を酌み交わす>という内容で、どちらかというと「蛍の光」より「地久天長」の歌詞に近い。この映画のテーマが<友情>であることを端的に示している。
 ハイイエンはリーユンを堕胎させ、更に長男の死にハオが深く関わっていることを隠し続けた。シンの死の真相を聞いた後でも、ヤオジュンとリーユンはハオやハイイエンを恨むことなく変わらぬ友情を抱いている。それどころかハイイエンの夫インミンが「倅を殺してくれ。命で償わせる」と包丁を持って現れたとき、「絶対にハオハオを責めるんじゃない。シンシンは死んだ。ハオハオを守らないと」と友人の息子をかばう。
 とても感動的な場面だがヤオジュンとリーユンは本当に友人を赦したのだろうか。友情や義理の両親という美名のもとに、悲しみや苦しみ、憎しみ、絶望を押し殺してしまったのではないか。忌憚なく感情をぶつけあうのが本当の友情ではないか。インミンとハイイエンを責めることは長男の死の責任を追及するだけではなく、第二子を堕胎させたハイイエンの社会的責任を問うことにもなりかねない。そうすると一人っ子政策を推進した共産党批判につながってしまう。批判をカムフラージュするために運命の苛酷さや友情の美しさをクローズアップさせた、と考えるのはひねくれた見方だろうか。子供を死に至らしめた者への怒りは友情という大義の前に打ち消されてしまった。
 中国では映画製作は当局の監視下にあるため政府批判は容易ではない。文化大革命は批判できても、現政権につながる鄧小平の施策を公然と批判することはむずかしい。天安門事件に至っては話題にすることすらタブーだ。自由な製作環境の中であれば、この映画は違った展開になっていたかもしれない。感情を吐き出してこそドラマは深化する。かの国に表現の自由が訪れるのはいつのことだろうか。(KOICHI)

原題:地久天長
監督:ワン・シャオシュアイ
脚本:ワン・シャオシュアイ  アー・メイ
撮影:キム・ヒョンソク
出演:ワン・ジンチュン ヨン・メイ  アイ・リーヤ  チー・シー