この映画のチラシを見たとき、いの一番に「空白」が頭をよぎったのだけれど、それは娘役がともに伊東蒼であることと父親役がそれぞれ古田新太と佐藤二朗であることの相似性だった。しかし、「空白」では娘がコンビニで万引きを疑われ交通事故に至るという設定に対して、この映画ではこともあろうに父親(智)が万引きをして捕まり、中学生の娘(楓)がそこに呼び出されるという倒錯した状況が描かれる。
母親は難病の果てに自殺していて、父ひとり子ひとりの環境の中で、楓はグレもせず健気に明るく生きている。問題はロクに仕事もしていない智のほうにある。
連続殺人の指名手配犯を電車で見かけたと娘に話す智は、それが本人なら300万円の懸賞金が手に入ると浮き足立ち、翌朝から忽然と姿を消すのである。その指名手配犯が、重要なテーマと見られる「自殺幇助」に関係しているのだ。
そうして、父親に遺棄された楓はボーイフレンドを伴って父親探しに奔走し、西成の日雇い労務の派遣斡旋所で父の居場所を突き止める。そのごみ処理施設に居たのは父の名前をかたる若い男だった。果たして父親はどこに消えてしまったのか?
ここから物語はミステリ仕立てと変貌し、どうにもやりきれないテーマをおもしろおかしく語りだすのである。まじめな観客は怒り出し、私のようなブラックジョーク好きは身を乗り出すことになる。
新型コロナ感染症蔓延の鬱々とした世情では、職を失うという経済的な困窮ばかりか、過度のストレスによって追いつめられた精神状況を生み出した。
それ以前から、自殺志願者がSNSを通じて自殺幇助を求めるという歪んだ実態が社会問題となり、あまつさえ、それもかなわぬ自殺志願者がまったく無関係の人びとを巻き添えにして国家の死刑制度を悪用しようという自己中心的な企てとか、自分だけがこの世の不幸のすべてを背負い込んでいると錯覚し、幸せそうな他人を妬んで無差別に凶行に及び、ついでに死んでやろうという反社会的衝動が引きも切らぬのは、目下の逼塞感と無縁ではないようにおもわれる。
一昨年には京都でALSに罹患して生きる希望を失った女性がSNSで知り合った医師ふたりに安楽死を依頼し、亡くなるという事件が報道された。この事件は金銭がからんでいなければ患者の苦痛を和らげるために施された人道的な措置とみることもできたものを、あとから発覚した医師のこころの闇を見るような過去の疑惑によって単なる犯罪に貶めてしまった。この映画の着想はこんなところからきているようにおもう。
そこで、考え出されたのがこの映画のブラックユーモアだろう。黒い笑いと、サイコホラー風に語られる自殺幇助「屋」の物語は、まじめな観客にはふざけているとしか映らないかもしれない。しかし、対象を正視することから目線をはずした描き方が、むしろことの本質をみごとに抉り出すこともあるのだ。
ただ、ここで安楽死や自殺幇助を求めた人びとが果たして望みどおりに死ねたかというと、きわめて疑問だと、この映画はいっているようにおもった。
なかには依頼した仕事が成就され満足に死んでいった人びともいたかもしれない。しかし、むしろ多くの人がその死ぬ間際に「しまった」と後悔してしまうような瞬間があったとすれば、それはまた大きな禍根であるといわなければならないだろう。(健)
監督:片山慎三
脚本:片山慎三、小寺和久、高田亮
撮影:池田直矢
出演:佐藤二朗、伊東蒼、清水尋也
母親は難病の果てに自殺していて、父ひとり子ひとりの環境の中で、楓はグレもせず健気に明るく生きている。問題はロクに仕事もしていない智のほうにある。
連続殺人の指名手配犯を電車で見かけたと娘に話す智は、それが本人なら300万円の懸賞金が手に入ると浮き足立ち、翌朝から忽然と姿を消すのである。その指名手配犯が、重要なテーマと見られる「自殺幇助」に関係しているのだ。
そうして、父親に遺棄された楓はボーイフレンドを伴って父親探しに奔走し、西成の日雇い労務の派遣斡旋所で父の居場所を突き止める。そのごみ処理施設に居たのは父の名前をかたる若い男だった。果たして父親はどこに消えてしまったのか?
ここから物語はミステリ仕立てと変貌し、どうにもやりきれないテーマをおもしろおかしく語りだすのである。まじめな観客は怒り出し、私のようなブラックジョーク好きは身を乗り出すことになる。
新型コロナ感染症蔓延の鬱々とした世情では、職を失うという経済的な困窮ばかりか、過度のストレスによって追いつめられた精神状況を生み出した。
それ以前から、自殺志願者がSNSを通じて自殺幇助を求めるという歪んだ実態が社会問題となり、あまつさえ、それもかなわぬ自殺志願者がまったく無関係の人びとを巻き添えにして国家の死刑制度を悪用しようという自己中心的な企てとか、自分だけがこの世の不幸のすべてを背負い込んでいると錯覚し、幸せそうな他人を妬んで無差別に凶行に及び、ついでに死んでやろうという反社会的衝動が引きも切らぬのは、目下の逼塞感と無縁ではないようにおもわれる。
一昨年には京都でALSに罹患して生きる希望を失った女性がSNSで知り合った医師ふたりに安楽死を依頼し、亡くなるという事件が報道された。この事件は金銭がからんでいなければ患者の苦痛を和らげるために施された人道的な措置とみることもできたものを、あとから発覚した医師のこころの闇を見るような過去の疑惑によって単なる犯罪に貶めてしまった。この映画の着想はこんなところからきているようにおもう。
そこで、考え出されたのがこの映画のブラックユーモアだろう。黒い笑いと、サイコホラー風に語られる自殺幇助「屋」の物語は、まじめな観客にはふざけているとしか映らないかもしれない。しかし、対象を正視することから目線をはずした描き方が、むしろことの本質をみごとに抉り出すこともあるのだ。
ただ、ここで安楽死や自殺幇助を求めた人びとが果たして望みどおりに死ねたかというと、きわめて疑問だと、この映画はいっているようにおもった。
なかには依頼した仕事が成就され満足に死んでいった人びともいたかもしれない。しかし、むしろ多くの人がその死ぬ間際に「しまった」と後悔してしまうような瞬間があったとすれば、それはまた大きな禍根であるといわなければならないだろう。(健)
監督:片山慎三
脚本:片山慎三、小寺和久、高田亮
撮影:池田直矢
出演:佐藤二朗、伊東蒼、清水尋也