なぜいまこの映画を取り上げたかというと、21世紀になっても絶えない軍靴の音に辟易としているからだ。ウクライナの町で息を潜めて恐怖に耐え忍ぶ幼女の姿を見て何も感じない感性を憎む。戦争というものが絶対的な悪であることを如実に物語っているのである。映画が始まると、まるで現下のウクライナの瓦礫と化した町を見ているような錯覚に陥る。
私などがいまさら解説するまでもない、世に名高きイタリアン・ネオ・レアリズモの傑作である。その申し子たるロベルト・ロッセリーニはヴィットリオ・デ・シーカとともにドイツ占領下の、あるいは戦争終結直後のイタリアの悲惨な日常を無機質なキャメラがただ偶然それを捉えていたかのようなリアリズムの手法で真実を描き出すことに成功した。
ロッセリーニについていうと、わが国では「戦火のかなた」(1946年)が先に紹介され、キネマ旬報ベストテンの第1位に選出された。その後、1950年に公開された「無防備都市」は同第4位に甘んじた。しかし、いま見ると、こちらのほうが「戦火のかなた」などより、はるかに優れているように見えるのは、私だけであろうか。
ムッソリーニ失脚後のイタリアにはドイツ軍が侵攻し、ローマを占領する。連合軍がローマを開放するまで反ファシズムのレジスタンス活動を根絶しようと、ゲシュタポが町なかに潜伏している反抗勢力の一掃に躍起となる。
幼い男の子とアパートで暮らす未亡人のピーナはレジスタンスに加わる印刷工のフランチェスコと恋仲になり再婚を誓う。アパートの子どもたちもいつしか、いっぱしのレジスタンス気取りだ。ドン・ピエトロ神父は人格高潔で周囲の人びとに慕われ、絶えずみんなの生活を気遣っている。しかも、ひそかにレジスタンスを手助けしているのだ。映画はナチスの酸鼻をきわめる拷問にも屈せず抵抗運動に命を捧げる市井の人びとのイタリア人としての矜持を描く。
この作品の圧巻となるのは、ピーナとフランチェスコが式を挙げるためアパートを出たところをゲシュタポの車に取り囲まれ、逮捕されたフランチェスコが警察車両に押し込められるエピソードだろう。走り出す車のあとをピーナが大声をあげて追いかける映画史上、屈指の名場面。キャメラは正面から片手を振り上げて車を追うピーナをとらえ、次に側面からのロングショットで、銃撃されたピーナが路上に倒れる瞬間を撮る。このように絶命して物体と化した人間の身体はすとんと地面に落ちるものかとおもわせる迫真のショットだった。そうして、その真後ろから男の子が「ママ!」と泣き叫んで遺体に跳び乗るようにすがる衝撃の場面は胸を深く抉られるところだ。「戦艦ポチョムキン」の歴史的名場面「オデッサの階段」に匹敵するショットである。
今回、見ていて気がついたのだが、ピエトロ・ジェルミの「刑事」のラスト・シーン(カルディナーレが警察の車を追う場面)は、これにオマージュを捧げたのではないかとおもった。既に誰かが指摘しているかもしれない。
終盤、当局に捕まったレジスタンスの男は正視に耐えない凄惨な拷問の果てに絶命する。しかし、いっぽうで、この映画は絶望的な現在を描きながらも、明るい未来への希望を捨て去ることなく懸命に生きようとする人びと、とりわけ新生イタリアを託された子どもたちの姿に光を当てることも忘れないのである。
セルジオ・アミディの原案をアミディ自身と、若かりし頃のフェリーニが共同で優れた脚本に仕上げた。のみならず、マニャーニ(ピーナ)とともに、神父に扮したファブリッツィの圧倒的な名演がすばらしいとつけ加えたい。(健)
原題:Roma città aperta
監督:ロベルト・ロッセリーニ
脚本:セルジオ・アミディ、フェデリコ・フェリーニ
撮影:ウバルド・アラータ
出演:アルド・ファブリッツィ、アンナ・マニャーニ、マルチェロ・パリエーロ、マリア・ミーキ