昭和11年(1936年)の冬、東京中野の料亭「吉田屋」。主人の吉蔵は新任の仲居・定に一目惚れし、店のあちこちで愛欲行為を繰り返した。吉田屋から失踪した定と吉蔵は待合を転々とし、資金がなくなると定が愛人のもとに行って金を工面した。食事もろくに取らず、外出もせず、昼夜を問わず互いの体を求めた。待合の女中に変態扱いされても意に介さなかった。
「俺はお前の好きなことなら何でもしてやるぜ」
吉蔵はそう言った。定は果てしなく求め続けた。やがて定は性交中に吉蔵の首を締めると、強い性的快感が得られることを知った。吉蔵が体を投げ出すと、定は吉蔵の腕を縛り、腰紐で首を締めた。吉蔵は顔が充血するほど苦しくなっても、定が欲すると拒まなかった。
「俺の体はお前にやったんだ、どうでもしてくれ」
行為は繰り返された。吉蔵は疲弊していた。
「定、そんなにしたいなら・・・できねえかもしれねえが、来な」
定は嬉々として吉蔵にまたがった。吉蔵が眠りそうになると、頬を叩いた。
「締めるなら途中で手を離すなよ、後がとても苦しいから」
吉蔵の言葉を聞くと、定は快感の極致を求めて、体全体で一気に締めた・・・
日本初のハードコア・ポルノとしてセンセーショナルな話題を呼んだ映画である。1936年に起こった「阿倍定事件」を題材に、男女の究極の性愛を描いている。私はこの作品をこれまで劇場で3回、DVDで1回見ているが、劇場で観た3回はそれぞれバージョンが異なっている。最初に観たバージョンは1976年に日本公開された時のもので、ズタズタにカットされて大幅な修正(ぼかし)が加えられていた。1987年にロンドンでオリジナル版を観た時は、まったく別の映画ではないかと思うほど驚き、深く感動した。2000年に「完全ノーカット版」と銘打って日本公開されたバージョンはカットや修正をできるだけ少なくし、日本の法律上ギリギリまで譲歩した作品だと思うが、やはりオリジナル版とは違っていた。オリジナル版ほどの感動は得られなかった。現在、日本のDVDや動画配信で見られるものは、おそらくこの2000年版に基づいているのではないかと思う。
オリジナル版と2000年版は何が違うのか。第一にオリジナル版にはぼかし修正が入っていない。ぼかしが入るとリアリティがなくなり、画面への集中力が途切れてしまう。シリアスな場面なのにコミカルに思えてしまうことすらある。第二に重要な場面がカットされている。豊満な待合のおかみと若い野卑な感じの男との肉欲と肉欲のぶつかり合いのような性交シーンがない。おそらくこのシーンはワイセツと判断され、ストーリー展開と直接関係がないのでカットされたのだろうが、私にはこのシーンがあるがゆえに定と吉蔵の交わりが性的快楽を探求する純粋な行為に思えてしまう。
定と吉蔵の場面以外に、性的能力をなくした高齢の男性や吉蔵との性行為で失神した老女等、老人の性がたびたび描かれているのも特徴的だ。その他にも子供、若い芸者、中年のおかみ等の性にまつわるエピソードが随所にある。作品のほとんどが性行為の場面であるにもかかわらず、不思議に官能的な感じがしないのは、この映画が人間の性そのものをテーマにしているからだと思う。性の深遠さ、底知れなさ、暴力性、怪物性、狂気、脆弱性、不可能性・・・性は様々な顔をもつ、ひとつの神秘なのだ。
それにしても不可解なのは、どうして吉蔵が自分の命を賭してまで定の性的快楽に尽くすのかである。これは愛なのか? 吉蔵は首を締められて快楽を得ているというよりも、定の快楽のために身を捧げているように見える。本来の窒息プレイなら痛みが快楽に変わるはずだが、吉蔵は苦行僧のように耐えるばかりで、楽しんでいるように見えない。定の果てしない性の要求に、ただただ体を張って応えようとしている。これは定への愛というよりも、定のもつ性に対する畏敬の念の表れであり、献身、服従、崇拝の態度ではないだろうか。吉蔵は性という巨大な神秘に自らを献じた、性愛の殉教者のように思えてくる。(KOICHI)
原題:L’Empire Des Sens
監督:大島渚
脚本:大島渚
撮影:伊東英男
出演:松田暎子 藤竜也 中島葵 松井康子 殿山泰司
「俺はお前の好きなことなら何でもしてやるぜ」
吉蔵はそう言った。定は果てしなく求め続けた。やがて定は性交中に吉蔵の首を締めると、強い性的快感が得られることを知った。吉蔵が体を投げ出すと、定は吉蔵の腕を縛り、腰紐で首を締めた。吉蔵は顔が充血するほど苦しくなっても、定が欲すると拒まなかった。
「俺の体はお前にやったんだ、どうでもしてくれ」
行為は繰り返された。吉蔵は疲弊していた。
「定、そんなにしたいなら・・・できねえかもしれねえが、来な」
定は嬉々として吉蔵にまたがった。吉蔵が眠りそうになると、頬を叩いた。
「締めるなら途中で手を離すなよ、後がとても苦しいから」
吉蔵の言葉を聞くと、定は快感の極致を求めて、体全体で一気に締めた・・・
日本初のハードコア・ポルノとしてセンセーショナルな話題を呼んだ映画である。1936年に起こった「阿倍定事件」を題材に、男女の究極の性愛を描いている。私はこの作品をこれまで劇場で3回、DVDで1回見ているが、劇場で観た3回はそれぞれバージョンが異なっている。最初に観たバージョンは1976年に日本公開された時のもので、ズタズタにカットされて大幅な修正(ぼかし)が加えられていた。1987年にロンドンでオリジナル版を観た時は、まったく別の映画ではないかと思うほど驚き、深く感動した。2000年に「完全ノーカット版」と銘打って日本公開されたバージョンはカットや修正をできるだけ少なくし、日本の法律上ギリギリまで譲歩した作品だと思うが、やはりオリジナル版とは違っていた。オリジナル版ほどの感動は得られなかった。現在、日本のDVDや動画配信で見られるものは、おそらくこの2000年版に基づいているのではないかと思う。
オリジナル版と2000年版は何が違うのか。第一にオリジナル版にはぼかし修正が入っていない。ぼかしが入るとリアリティがなくなり、画面への集中力が途切れてしまう。シリアスな場面なのにコミカルに思えてしまうことすらある。第二に重要な場面がカットされている。豊満な待合のおかみと若い野卑な感じの男との肉欲と肉欲のぶつかり合いのような性交シーンがない。おそらくこのシーンはワイセツと判断され、ストーリー展開と直接関係がないのでカットされたのだろうが、私にはこのシーンがあるがゆえに定と吉蔵の交わりが性的快楽を探求する純粋な行為に思えてしまう。
定と吉蔵の場面以外に、性的能力をなくした高齢の男性や吉蔵との性行為で失神した老女等、老人の性がたびたび描かれているのも特徴的だ。その他にも子供、若い芸者、中年のおかみ等の性にまつわるエピソードが随所にある。作品のほとんどが性行為の場面であるにもかかわらず、不思議に官能的な感じがしないのは、この映画が人間の性そのものをテーマにしているからだと思う。性の深遠さ、底知れなさ、暴力性、怪物性、狂気、脆弱性、不可能性・・・性は様々な顔をもつ、ひとつの神秘なのだ。
それにしても不可解なのは、どうして吉蔵が自分の命を賭してまで定の性的快楽に尽くすのかである。これは愛なのか? 吉蔵は首を締められて快楽を得ているというよりも、定の快楽のために身を捧げているように見える。本来の窒息プレイなら痛みが快楽に変わるはずだが、吉蔵は苦行僧のように耐えるばかりで、楽しんでいるように見えない。定の果てしない性の要求に、ただただ体を張って応えようとしている。これは定への愛というよりも、定のもつ性に対する畏敬の念の表れであり、献身、服従、崇拝の態度ではないだろうか。吉蔵は性という巨大な神秘に自らを献じた、性愛の殉教者のように思えてくる。(KOICHI)
原題:L’Empire Des Sens
監督:大島渚
脚本:大島渚
撮影:伊東英男
出演:松田暎子 藤竜也 中島葵 松井康子 殿山泰司