3月7日 火曜日。
3月5日の日曜日は、レースから家に戻った後、そのままヨット専門誌の原稿に取り掛かり、途中ちょっと机に上半身を倒して気絶して、翌6日、月曜日の午後3時に完成して、編集長にメールで送って、また気絶した。
こんなに度々気絶しながら書いた原稿は、ラッセル・クーツが自分で設計したワンデザイン艇、ラッセル・クーツ44についての記事です。
興味のある人には面白いと思います。興味のない人には面白くないと思います。
気絶を繰り返して書き上げたこの原稿は、4月3日発売の5月号に載ります。
立ち読みでもいいですから手に取ってあげてください。予期しない臨時収入があったか、宝くじが当たったかしてたら、買ってあげてください。
日本で生き延びている唯一つのヨットの専門誌。厳しい雑誌生き残り戦国時代、孤高の戦いを続けていますが、かなり苦戦しているようです。
さて、気絶から立ち直り、月曜日の午後5時から、次はターザンの原稿に突入。
この原稿は、翌7日火曜日の午前中までに編集部に着いてなければ殺すと言われている(ホントはそこまでは言われてませんよ)。外洋ヨットレースで走る海も怖いが、こっちも怖い。恐怖と戦いながら、眠気とも戦わねばならない。
自己管理を怠り、日々の時間管理を怠り、締め切り間際まで放っておいた原稿を突然思い出してそれに苦しむことになったとき、あまりの眠さに、グニャグニャに歪んでくるパソコン画面を睨みつつ、目を開けたまま気絶することが何度かある。
その気絶状態の最終段階で必ず見る夢。それは、自分の担当ページが真っ白のまま、その雑誌が書店に並んでいるというもの。この夢を見たらもうおしまい、というか、いよいよ始まり。もう決して眠ることができなくなる。そこからが本当の勝負だ。
こういう勝負はなるべくしないでおきたい、もう二度とするもんか!と心に誓うのだが、もう何度同じ過ちをやっちまったことか。
どうも、これからもやりそうだ。
早く、海だけで生計を立てるようにならねばならぬ。
さて、本日のエッセイは、『ラッセル・クーツと巡った紀州&瀬戸内クルージング日記2003-その4』です。
====================================
ラッセル・クーツと巡った紀州&瀬戸内クルージング日記2003
(その4)
文 西村一広
text by Kazuhiro Nishimura
【連日のパーティーの嵐に、ちょっとお疲れ】
7月26日 今治~しまなみ海道~大三島~松山
今治から再び車で大三島に戻り、松山に向けて出港。
この日の航程は長い。午前中のセーリングシーン撮影の後はひたすら走る。夕方松山入港。
松山全日空ホテルでスイスとメール&電話で仕事の後、愛媛テレビのパーティー会場へ。
瀬戸内海の持つ魅力を一生懸命伝えるいいスピーチ。ビンゴゲームの賞品プレゼンテイター。
控え室では、かなり疲れた様子。「こんなにパーティーが沢山あるとは知らなかったヨ」。
パーティー後、地元セーラーの方々と懇談会。
【原爆の現実を知り、ラッセル憤慨す】
7月27日 松山~宮島~広島
松山出港前に、昨夜スケジュールが立て込んで行けなかった道後温泉で撮影。
番台のおばあさんにお願いして駆け足で館内見学。入浴中のおじいちゃん達が目を丸くしている中を手刀で挨拶。
朝からスパ、に不思議な様子。
松山港から一路北上、宮島へ針路を取る。
宮島ではOPのレース開催中。
風待ちの子供たちの群に突入、照れ屋の日本の少年少女と強制的に親睦を図る。
宮島に上陸し、「岩惣」で食事の後、厳島神社で撮影。
その後OPの表彰式に出席。特別賞「ラッセル・クーツ杯」の授与。
「今日勝った人だけでなく、負けた人にも先におめでとうを言っておきます。なぜなら、今日負けた人も、頑張っていれば必ずいつかは勝つことができるから。キープ・セーリング!」
宮島を後にして広島観音マリーナへ。タクシーで広島市内の平和公園に向かい、原爆ドームを背景に撮影。
20万人もの人たちが犠牲になったこと、また広島が思ったよりも大きな町だったことを知り、非常に憤慨す。
沈鬱な表情で憤りを語る。「自分達の持っている力を示したいのであれば、別のところに落としてアピールすればいいじゃないか!」。
リーガロイヤル広島泊。3時間ほどスイスと仕事。ホテル内のジムで汗。そのあとプライベートな、のんびり夕食。内輪ネタのおしゃべり。
【ラッセル、日本のバンカーと決戦】
7月28日 広島
夜のパーティー出席以外は休養日。
この企画の中心的な立場の方々とゴルフ。
当初メンバーに入っていたぼくが怪我をしてプレーできないため、広島の人気レストラン・チェーンと外洋ヨット〈マリオ〉のオーナーである池田真理雄氏に無理にピンチ・ヒッターを依頼。
コースは公式戦も行なわれる名門・広島カントリークラブ八本松コース。ラッセルは慣れない貸しクラブに苦しんでいたが、今回の来日中唯一のオフとも言えるこの日のゴルフを楽しんだ様子。
ラウンド後の乾杯スピーチ「今日は、日本のバンカーの砂をじっくりチェックさせてもらいました」。
夜、地元テレビとセーリング団体が主催するパーティー。スピーチ。握手。サイン。記念撮影。
ほとんど連日のように続く各地でのパーティーの疲れがかなり溜まってる様子。辛そうだが、そのそぶりを見せずに地元ファンとの交流を楽しむ。
「ただ、本当を言うと、セーリングをしている日本の子供たちとの交流の場がもっと欲しいね」。
【ラッセルの初体験、純和式旅館の夜】
7月29日 広島~音戸瀬戸~尾道
観音マリーナを朝8時出港。
雨のため、15時過ぎの尾道入港まで、この日は全く撮影できず。
和歌山以来の気疲れ、尾を引いている時差ぼけのためか、暑くなったり梅雨が戻ったりという天候不順のせいか、体調が悪いらしく、顔色悪し。
この日も夜パーティーが予定されているため、大事を取ってそれ以外の予定をキャンセル。
純和風の旅館、西山本館の自室にて休息。パーティーの時間までに体調をなんとか戻し、地元セーラーの前に笑顔で立つ。
パーティー後、西山本館に戻り、疲れた体に優しい和の夕食。様々な魚と料理。その繊細な味付けの妙に、感動の感想を述べる。
(続く。無断転載はしないでおくれ)
3月5日の日曜日は、レースから家に戻った後、そのままヨット専門誌の原稿に取り掛かり、途中ちょっと机に上半身を倒して気絶して、翌6日、月曜日の午後3時に完成して、編集長にメールで送って、また気絶した。
こんなに度々気絶しながら書いた原稿は、ラッセル・クーツが自分で設計したワンデザイン艇、ラッセル・クーツ44についての記事です。
興味のある人には面白いと思います。興味のない人には面白くないと思います。
気絶を繰り返して書き上げたこの原稿は、4月3日発売の5月号に載ります。
立ち読みでもいいですから手に取ってあげてください。予期しない臨時収入があったか、宝くじが当たったかしてたら、買ってあげてください。
日本で生き延びている唯一つのヨットの専門誌。厳しい雑誌生き残り戦国時代、孤高の戦いを続けていますが、かなり苦戦しているようです。
さて、気絶から立ち直り、月曜日の午後5時から、次はターザンの原稿に突入。
この原稿は、翌7日火曜日の午前中までに編集部に着いてなければ殺すと言われている(ホントはそこまでは言われてませんよ)。外洋ヨットレースで走る海も怖いが、こっちも怖い。恐怖と戦いながら、眠気とも戦わねばならない。
自己管理を怠り、日々の時間管理を怠り、締め切り間際まで放っておいた原稿を突然思い出してそれに苦しむことになったとき、あまりの眠さに、グニャグニャに歪んでくるパソコン画面を睨みつつ、目を開けたまま気絶することが何度かある。
その気絶状態の最終段階で必ず見る夢。それは、自分の担当ページが真っ白のまま、その雑誌が書店に並んでいるというもの。この夢を見たらもうおしまい、というか、いよいよ始まり。もう決して眠ることができなくなる。そこからが本当の勝負だ。
こういう勝負はなるべくしないでおきたい、もう二度とするもんか!と心に誓うのだが、もう何度同じ過ちをやっちまったことか。
どうも、これからもやりそうだ。
早く、海だけで生計を立てるようにならねばならぬ。
さて、本日のエッセイは、『ラッセル・クーツと巡った紀州&瀬戸内クルージング日記2003-その4』です。
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ラッセル・クーツと巡った紀州&瀬戸内クルージング日記2003
(その4)
文 西村一広
text by Kazuhiro Nishimura
【連日のパーティーの嵐に、ちょっとお疲れ】
7月26日 今治~しまなみ海道~大三島~松山
今治から再び車で大三島に戻り、松山に向けて出港。
この日の航程は長い。午前中のセーリングシーン撮影の後はひたすら走る。夕方松山入港。
松山全日空ホテルでスイスとメール&電話で仕事の後、愛媛テレビのパーティー会場へ。
瀬戸内海の持つ魅力を一生懸命伝えるいいスピーチ。ビンゴゲームの賞品プレゼンテイター。
控え室では、かなり疲れた様子。「こんなにパーティーが沢山あるとは知らなかったヨ」。
パーティー後、地元セーラーの方々と懇談会。
【原爆の現実を知り、ラッセル憤慨す】
7月27日 松山~宮島~広島
松山出港前に、昨夜スケジュールが立て込んで行けなかった道後温泉で撮影。
番台のおばあさんにお願いして駆け足で館内見学。入浴中のおじいちゃん達が目を丸くしている中を手刀で挨拶。
朝からスパ、に不思議な様子。
松山港から一路北上、宮島へ針路を取る。
宮島ではOPのレース開催中。
風待ちの子供たちの群に突入、照れ屋の日本の少年少女と強制的に親睦を図る。
宮島に上陸し、「岩惣」で食事の後、厳島神社で撮影。
その後OPの表彰式に出席。特別賞「ラッセル・クーツ杯」の授与。
「今日勝った人だけでなく、負けた人にも先におめでとうを言っておきます。なぜなら、今日負けた人も、頑張っていれば必ずいつかは勝つことができるから。キープ・セーリング!」
宮島を後にして広島観音マリーナへ。タクシーで広島市内の平和公園に向かい、原爆ドームを背景に撮影。
20万人もの人たちが犠牲になったこと、また広島が思ったよりも大きな町だったことを知り、非常に憤慨す。
沈鬱な表情で憤りを語る。「自分達の持っている力を示したいのであれば、別のところに落としてアピールすればいいじゃないか!」。
リーガロイヤル広島泊。3時間ほどスイスと仕事。ホテル内のジムで汗。そのあとプライベートな、のんびり夕食。内輪ネタのおしゃべり。
【ラッセル、日本のバンカーと決戦】
7月28日 広島
夜のパーティー出席以外は休養日。
この企画の中心的な立場の方々とゴルフ。
当初メンバーに入っていたぼくが怪我をしてプレーできないため、広島の人気レストラン・チェーンと外洋ヨット〈マリオ〉のオーナーである池田真理雄氏に無理にピンチ・ヒッターを依頼。
コースは公式戦も行なわれる名門・広島カントリークラブ八本松コース。ラッセルは慣れない貸しクラブに苦しんでいたが、今回の来日中唯一のオフとも言えるこの日のゴルフを楽しんだ様子。
ラウンド後の乾杯スピーチ「今日は、日本のバンカーの砂をじっくりチェックさせてもらいました」。
夜、地元テレビとセーリング団体が主催するパーティー。スピーチ。握手。サイン。記念撮影。
ほとんど連日のように続く各地でのパーティーの疲れがかなり溜まってる様子。辛そうだが、そのそぶりを見せずに地元ファンとの交流を楽しむ。
「ただ、本当を言うと、セーリングをしている日本の子供たちとの交流の場がもっと欲しいね」。
【ラッセルの初体験、純和式旅館の夜】
7月29日 広島~音戸瀬戸~尾道
観音マリーナを朝8時出港。
雨のため、15時過ぎの尾道入港まで、この日は全く撮影できず。
和歌山以来の気疲れ、尾を引いている時差ぼけのためか、暑くなったり梅雨が戻ったりという天候不順のせいか、体調が悪いらしく、顔色悪し。
この日も夜パーティーが予定されているため、大事を取ってそれ以外の予定をキャンセル。
純和風の旅館、西山本館の自室にて休息。パーティーの時間までに体調をなんとか戻し、地元セーラーの前に笑顔で立つ。
パーティー後、西山本館に戻り、疲れた体に優しい和の夕食。様々な魚と料理。その繊細な味付けの妙に、感動の感想を述べる。
(続く。無断転載はしないでおくれ)