ラッセル・クーツがいた瀬戸内海 その4

2006年03月07日 | 風の旅人日乗
3月7日 火曜日。

3月5日の日曜日は、レースから家に戻った後、そのままヨット専門誌の原稿に取り掛かり、途中ちょっと机に上半身を倒して気絶して、翌6日、月曜日の午後3時に完成して、編集長にメールで送って、また気絶した。

こんなに度々気絶しながら書いた原稿は、ラッセル・クーツが自分で設計したワンデザイン艇、ラッセル・クーツ44についての記事です。
興味のある人には面白いと思います。興味のない人には面白くないと思います。

気絶を繰り返して書き上げたこの原稿は、4月3日発売の5月号に載ります。
立ち読みでもいいですから手に取ってあげてください。予期しない臨時収入があったか、宝くじが当たったかしてたら、買ってあげてください。
日本で生き延びている唯一つのヨットの専門誌。厳しい雑誌生き残り戦国時代、孤高の戦いを続けていますが、かなり苦戦しているようです。

さて、気絶から立ち直り、月曜日の午後5時から、次はターザンの原稿に突入。
この原稿は、翌7日火曜日の午前中までに編集部に着いてなければ殺すと言われている(ホントはそこまでは言われてませんよ)。外洋ヨットレースで走る海も怖いが、こっちも怖い。恐怖と戦いながら、眠気とも戦わねばならない。

自己管理を怠り、日々の時間管理を怠り、締め切り間際まで放っておいた原稿を突然思い出してそれに苦しむことになったとき、あまりの眠さに、グニャグニャに歪んでくるパソコン画面を睨みつつ、目を開けたまま気絶することが何度かある。

その気絶状態の最終段階で必ず見る夢。それは、自分の担当ページが真っ白のまま、その雑誌が書店に並んでいるというもの。この夢を見たらもうおしまい、というか、いよいよ始まり。もう決して眠ることができなくなる。そこからが本当の勝負だ。

こういう勝負はなるべくしないでおきたい、もう二度とするもんか!と心に誓うのだが、もう何度同じ過ちをやっちまったことか。
どうも、これからもやりそうだ。
早く、海だけで生計を立てるようにならねばならぬ。

さて、本日のエッセイは、『ラッセル・クーツと巡った紀州&瀬戸内クルージング日記2003-その4』です。

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ラッセル・クーツと巡った紀州&瀬戸内クルージング日記2003
(その4)


文 西村一広
text by Kazuhiro Nishimura


【連日のパーティーの嵐に、ちょっとお疲れ】
7月26日 今治~しまなみ海道~大三島~松山 

今治から再び車で大三島に戻り、松山に向けて出港。
この日の航程は長い。午前中のセーリングシーン撮影の後はひたすら走る。夕方松山入港。

松山全日空ホテルでスイスとメール&電話で仕事の後、愛媛テレビのパーティー会場へ。
瀬戸内海の持つ魅力を一生懸命伝えるいいスピーチ。ビンゴゲームの賞品プレゼンテイター。
控え室では、かなり疲れた様子。「こんなにパーティーが沢山あるとは知らなかったヨ」。
パーティー後、地元セーラーの方々と懇談会。


【原爆の現実を知り、ラッセル憤慨す】
7月27日 松山~宮島~広島 

松山出港前に、昨夜スケジュールが立て込んで行けなかった道後温泉で撮影。
番台のおばあさんにお願いして駆け足で館内見学。入浴中のおじいちゃん達が目を丸くしている中を手刀で挨拶。
朝からスパ、に不思議な様子。

松山港から一路北上、宮島へ針路を取る。
宮島ではOPのレース開催中。
風待ちの子供たちの群に突入、照れ屋の日本の少年少女と強制的に親睦を図る。

宮島に上陸し、「岩惣」で食事の後、厳島神社で撮影。
その後OPの表彰式に出席。特別賞「ラッセル・クーツ杯」の授与。
「今日勝った人だけでなく、負けた人にも先におめでとうを言っておきます。なぜなら、今日負けた人も、頑張っていれば必ずいつかは勝つことができるから。キープ・セーリング!」

宮島を後にして広島観音マリーナへ。タクシーで広島市内の平和公園に向かい、原爆ドームを背景に撮影。
20万人もの人たちが犠牲になったこと、また広島が思ったよりも大きな町だったことを知り、非常に憤慨す。
沈鬱な表情で憤りを語る。「自分達の持っている力を示したいのであれば、別のところに落としてアピールすればいいじゃないか!」。

リーガロイヤル広島泊。3時間ほどスイスと仕事。ホテル内のジムで汗。そのあとプライベートな、のんびり夕食。内輪ネタのおしゃべり。


【ラッセル、日本のバンカーと決戦】
7月28日 広島 

夜のパーティー出席以外は休養日。
この企画の中心的な立場の方々とゴルフ。
当初メンバーに入っていたぼくが怪我をしてプレーできないため、広島の人気レストラン・チェーンと外洋ヨット〈マリオ〉のオーナーである池田真理雄氏に無理にピンチ・ヒッターを依頼。

コースは公式戦も行なわれる名門・広島カントリークラブ八本松コース。ラッセルは慣れない貸しクラブに苦しんでいたが、今回の来日中唯一のオフとも言えるこの日のゴルフを楽しんだ様子。
ラウンド後の乾杯スピーチ「今日は、日本のバンカーの砂をじっくりチェックさせてもらいました」。

夜、地元テレビとセーリング団体が主催するパーティー。スピーチ。握手。サイン。記念撮影。
ほとんど連日のように続く各地でのパーティーの疲れがかなり溜まってる様子。辛そうだが、そのそぶりを見せずに地元ファンとの交流を楽しむ。
「ただ、本当を言うと、セーリングをしている日本の子供たちとの交流の場がもっと欲しいね」。


【ラッセルの初体験、純和式旅館の夜】
7月29日 広島~音戸瀬戸~尾道 

観音マリーナを朝8時出港。
雨のため、15時過ぎの尾道入港まで、この日は全く撮影できず。
和歌山以来の気疲れ、尾を引いている時差ぼけのためか、暑くなったり梅雨が戻ったりという天候不順のせいか、体調が悪いらしく、顔色悪し。

この日も夜パーティーが予定されているため、大事を取ってそれ以外の予定をキャンセル。
純和風の旅館、西山本館の自室にて休息。パーティーの時間までに体調をなんとか戻し、地元セーラーの前に笑顔で立つ。
パーティー後、西山本館に戻り、疲れた体に優しい和の夕食。様々な魚と料理。その繊細な味付けの妙に、感動の感想を述べる。

(続く。無断転載はしないでおくれ)

ラッセル・クーツがいた瀬戸内海 その3

2006年03月05日 | 風の旅人日乗
3月5日 日曜日。

きょうは、20代前半からお世話になっているヨットの大先輩のクルージングヨットに乗せていただき、葉山マリーナの月例レース。
結局まだ原稿の大半が終わってないため、レース後の夕食も途中で抜けてしまい、申し訳ないことをしたが、楽しいセーリングだった。

さて、本日のエッセイは、『ラッセル・クーツと巡った紀州&瀬戸内クルージング日記2003-その3』です。

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ラッセル・クーツと巡った紀州&瀬戸内クルージング日記2003
(その3)


文 西村一広
text by Kazuhiro Nishimura

【ラッセルの真情を知る、「ニュージーランドから」という言葉】
7月24日 淡路島~小豆島~高松

朝ホテルの周囲をジョギング。
淡路島を出港し、給油を兼ねて小豆島・土庄へ。
タクシーで銚子渓まで登って撮影。

昼食に小豆島そうめん。隣で食べていた西洋人女性2人に、ラッセルが「どこから?」と話しかける。
「イングランドから。あなたは?」。
一瞬の間を置いて、ラッセル「ニュージーランドから」。

今回の来日中も、アメリカズカップ公けの場では常に「スイスのラッセル・クーツ」をアピールするラッセルが、プライベートの場で答えた「ニュージーランドから」。ラッセルの心の中を垣間見た。

銚子渓からの帰路、撮影をしながら船に戻る。土庄出港、高松へ。
高松入港前、夏休み合宿練習中のFJ、レーザーの高校生の群に突入。48ftのセーリング・クルーザーで、FJのすぐ後ろをマッチレースなみの距離でケツなめ。
そのままタッキングマッチを仕掛ける。四国の海洋少年少女たちが狂喜する。

16時高松港入港。
香川県警楽団の演奏の中を上陸。歓迎セレモニー。答礼スピーチ。記念撮影。サイン。
16時50分セレモニー終了。すぐに高松市内の栗林公園に行き撮影。

撮影終了後17時30分市内のうどん屋さんに急行し、讃岐うどんを食べるシーン撮影。「旨い旨い」と冷・温それぞれを啜りこむ。
18時15分全日空ホテルクレメント高松にチェックイン。
走って部屋に行きシャワー、ネクタイに着替え、18時30分同ホテル宴会場でパーティー開始。

スピーチ。乾杯。記念撮影。サイン。アトラクション参加。
21時前、パーティー終了。ニコニコと笑いながらパーティー会場を出てエレベーターに乗りドアが閉まって、やっと「フー」と深いため息。
おやすみなさい。


【生ビール「大」に、ラッセル驚愕】
7月25日 高松~瀬戸大橋~粟島~大三島~能島~しまなみ海道~今治 

朝、ラッセルは高松港防波堤、ぼくは高松城跡公園周囲と別々のコースをジョギング。
9時高松港出港、鬼が島伝説の女木島を過ぎ、瀬戸大橋をくぐるシーンを撮影開始するも、豪雨降り出し撮影不能。全員びしょ濡れ。

11時30分、浦島太郎伝説の香川県詫間町の粟島に上陸。
雲が切れて太陽が照り付け、正しい夏の瀬戸内海。
日本最古の商船学校の校舎跡と敷地で地元の子供たちと交流会。子供たちと接するときのラッセルはことのほか嬉しそう。子供たちとの握手やサインには自然熱意がこもる。

小豆島に続いてここでも嬉しいそうめん流し。
ツユに生姜をたっぷり入れるのが今回自身で発見したラッセルの好み。
来島記念植樹をして、子供たちに見送られて粟島出港。
「どこの国も子供はいいね」。

しまなみ海道のすぐ東側、伯方島、岩城島、赤穂根島、津波島で囲まれた狭い水面でセーリングシーン撮影。
岸ギリギリまで行ってタック、岩の横でジェネカー・ホイスト。細い水道をジャイブ、ジャイブ。
撮影そっちのけで熱いセーリング。
仕事を忘れてセーリングを楽しんでいる様子。

大三島の井口港に入港し、車で隣の大島、宮窪町へ。
ここから小舟に乗り換え、村上水軍ゆかりの島、能島へ渡り、激流の中のような潮流の中で撮影。当時の海賊たちの歴史との関わりや生活ぶりを説明する。

再び車に乗ってしまなみ海道で来島海峡を渡って四国へ入国。本日の宿、今治国際ホテルにチェックイン。
ラッセルを含む取材部隊の最大の懸案事項となっていた洗濯物問題を解決すべく、コインランドリーに直行。
洗濯中ホテルのスポーツ・ジムで汗。

夕食のときに出た生ビール「大」の大きさに、ラッセル驚く。
「日本人がこんなにビールを飲むの今まで知らなかったぞ」。

テレビの野球中継合間のコマーシャルで、翌日松山での「ラッセル・クーツ氏歓迎パーティー」の告知が流れる。みんなで顔を見合わせる。

(続く)

ラッセル・クーツがいた瀬戸内海 その2

2006年03月04日 | 風の旅人日乗
3月4日 土曜日。

葉山は、3月に入って初めて、穏やかな晴天の朝。
霞んではいるが、富士山もよく見える。

今日中に原稿を、少なくとも一本は仕上げるぞ。
なので、日記はここで切り上げて、本日のエッセイは、昨日に続いて『ラッセル・クーツと巡った紀州&瀬戸内クルージング日記2003-その2』です。

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ラッセル・クーツと巡った紀州&瀬戸内クルージング日記2003
(その2)


文 西村一広
text by Kazuhiro Nishimura


【ワイン博士ラッセルに学ぶ】
7月22日 白浜~田辺~和歌山マリーナシティー

さあ、今日も忙しいぞ。
7時朝食。その前に白良浜までジョギング。
朝食後、昨夜からホテル前で待機のバスで千畳敷、三段壁、白良浜、円月島、と和歌山県の海の名所を回り撮影。

白良浜では靴を脱いで波打ち際に行き子供と遊ぶ。
ラッセルが何気なく脱ぎ捨てていったサルバトーレ・フェラガモのデッキシューズを放っておくのが不安で、その横に座って波打ち際での撮影風景を遠くから見守る。「下足番」という言葉をフト思い出す。

戻ってきたラッセルと、靴の番をしていたことから日本の治安についての話題になる。
スイスでは、国民はとても管理された状態に置かれ、事件らしい事件はほとんど起きないらしい。

昼前、田辺市に着き、市内のマリーナから島精機所有のモーター・クルーザーに乗って、石灰岩が美しい白崎へと向かう。
船中熟睡。時差ボケに苦しんでいる様子。
13時前、白崎沖で撮影用のモーター・クルーザーとセーリング・クルーザーと合流。
ラッセルとぼくはセーリング・クルーザーに乗り移る。

打ち合わせ通り、TVのヘリが飛来してセーリング撮影開始。
撮影終了後、海路和歌山マリーナシティーへ。

和歌山マリーナシティー到着後すぐ16時半から地元ラジオ番組の収録。
それが終わるとそのまま17時からヨットの艇上でテレビ和歌山のトークショー出演。終了後小走りでホテルの自室に戻り、18時からの島精機訪問に備えてスーツに着替える。暑いぞ。

工業編み機とCGソフトで世界水準をリードする島精機本社(和歌山市内)を見学した後、本社最上階にあるプライベート・レストランにて島社長主催の晩餐会。
木村県知事、大橋和歌山市市長などのお歴々が出席。
ここでもラッセル見事なスピーチ。

島社長が御自身専属のソムリエに指示して、ラッセルのために彼の誕生年である1962年のシャトー・ラトゥールを手配。1962年は島精機創業の年でもある。ワインの知識乏しいせいであまり熱心に飲んでないぼくを、隣のラッセルが肘でつつき、小声でアドバイス。「このワインだけは、真剣に飲んどいたほうがいいぞ」。

お金の話はお品がよろしくないのでしたくないが、あとでラッセルからそのワインの推定値段を聞き、言葉と思考を失った。
島社長、ありがとうございました。島社長夫妻の温かいおもてなしで、ラッセル日本滞在3日め、忙しいながらも幸せに暮れる。


【ラッセル、鳴門の渦潮に目を瞠る】
7月23日 和歌山~徳島~淡路島

朝、マリーナシティーの周りをジョギング。
午前中ラッセルは電話&メールでスイスとお仕事。
120通も溜め込んだ山のようなメールと格闘している模様。

午後、和歌山県を離れ、いよいよ瀬戸内海のクルージングへと出発。
この日は徳島までの行程。
淡路島の深浦側からの鳴門海峡と鳴門大橋が、太平洋側から見たゴールデンゲートそっくりだと、ラッセルが感想を述べる。
この日は小潮だったが、ラッセル、鳴門のうず潮に驚き、喜ぶ。

荒れる鳴門海峡を抜け、大塚製薬の御好意で徳島の亀浦港に入港。
着岸後、ラッセルとぼく、カメラマンでゴムボートに乗って小鳴門海峡探検へ。
落差のある潮を目の当たりにして、ラッセル大はしゃぎ。ただし、海岸に打ち上げられた発泡スチロール、プラスチック系のゴミを悲しむ。「次の世代にきれいな海を残すのは俺たちの世代の使命だぞ。」

車で鳴門大橋を渡って淡路島西淡町にあるホテル阿那賀へ向かう。
車中、世界の海のゴミ政策の話が続く。日本の海もきれいにしなければならぬ。

ホテル到着と同時にラッセル、スタッフを巻き込んでインターネットと格闘。
その間に地元紙から電話インタビュー。パソコンで忙しいラッセルに代わって、鳴門の印象について彼の言葉を伝える。
「世界に類を見ない素晴らしい景観の海。でもゴミが多いことに心が痛む」。
翌日の新聞、残念ながらゴミについてのコメントは削除されていた。

来日後初めて、夜の公式行事なく、ホテルで和食のくつろいだ夕食。
現役スポーツマンとして肉体管理に厳しいラッセル、魚と野菜、油の少ない日本料理を好む。

今年2003年のアメリカズカップの話題。
チーム・ニュージーランドの秘密兵器"HURA"についてはNZL-81が進水した2日後にはアリンギは知っていた。
今回のアリンギ・チームは、相手艇のセールの写真から、そのセールのサイズを5ミリ単位の精度で知り、そのデザイン・シェイプを読み取るソフトを開発していた。
恐るべし。

セールがそこまで分析できるのだから船体、リグに至っては推して知るべしで、次回から艇を覆うスカートを廃止するという決定は、そういう科学的背景があるから。つまり隠しても無駄なんだから、意味のないことはやめようよ、ということ。

(続く。無断転載はしないでおくれ)

ラッセル・クーツがいた瀬戸内海 その1

2006年03月03日 | 風の旅人日乗
3月3日 金曜日。

世間はひな祭り。
今週中に仕上げなければならない原稿に苦しんでおります。
ひとつは雑誌『Tarzan』に書く不定期連載のボルボ・オーシャンレース2005-2006の第2回目の記事。
もうひとつは、ヨットの専門誌に書く、RC44というレーシングヨットの試乗記事。
RC44というのは、ラッセル・クーツが自分で設計した艇で、この「風の旅人セーリング日記」でも1月に簡単に紹介した。

この艇のコンセプトは、2003年の夏にラッセルと一緒に瀬戸内海をクルージングしていたときから聞かされていた。
原稿に時間を取られて日記を書く時間がないこともあり、そのときの、瀬戸内海クルージングの様子を日記形式で綴ったエッセイを、何回かに分けて掲載してみることにします。

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ラッセル・クーツと巡った紀州&瀬戸内クルージング日記(その1)


文 西村一広
text by Kazuhiro Nishimura


【Yokoso JAPAN!】

国土交通省が中心になって、「日本の美しさを外国人に知ってもらう」、「日本の魅力をもっと海外にアピールする」、「そして結果として日本の観光収入を増やす」、という眼目の"ビジット・ジャパン・キャンペーン"なる事業を推進している。

その事業の一環として、ラッセル・クーツに和歌山、瀬戸内海の海をクルージングしてもらい、彼の目で見た日本の海の魅力を本として出版し、日本語だけでなく外国語にも翻訳して海外にもアピールする、という企画が実現した。
ぼくもその事業に関わることになり、2003年7月20日から8月1日まで、ラッセル・クーツの身の回りの世話係として紀州・瀬戸内の海を一緒にクルージングした。


【ラッセル・クーツ関空に現る】

7月20日 パリ~関西国際空港~和歌山マリーナシティー。

7月20日午後3時。関西国際空港到着ロビー。ラッセル・クーツが乗ったパリ発JAL426便が、定刻より30分ほど遅れて到着。それからしばらくしてラッセルが入国ゲートから顔を出す。和歌山県関係者の人たち、大阪国際会議場関係者の人たち数人とお出迎え。

オリンピック金メダリストにして、アメリカズカップ史上初めて三連勝を達成したスキッパーである。サッカーで言えばベッカム3人分くらいに相当するスーパースターの来日だが、カメラの場所取りで喧嘩をしている報道陣なし。カメラ付き携帯を構えて群がるファンなし。
セーリングというスポーツのマイナーさをヒシヒシと感じる。

今年のアメリカズカップに勝った翌日、3月3日にアリンギのコンパウンドで行なわれたプロトコール発表の席以来に会うラッセルだが、その時期の戦闘モードの表情は消えて温和な表情。
少し太ったかな?

和歌山マリーナシティーに向かうバスの中で、来日中のスケジュールを説明。
毎日非常に密に組まれたスケジュール、一度に説明しても覚えられず、3日先の予定までとする。
バスの中で、ここに来る直前まで家族と過ごしていたボルドー地方でのバカンスの話、アメリカズカップ後に生まれた長女の話。

マリーナシティー内ロイヤルパインズ・ホテル着後、一息つく間もなくTV撮影開始。
レポーター役の世良公則氏をヨットに出迎えるシーン、和歌山の海を語り合うシーンを、偏頭痛をおして収録。
撮影終了後そのまま前夜祭会場へ。
特にOPの子供達へ向けたスピーチ。被っていたアリンギ帽子を一番前にいたOP少女にプレゼント。子供たちにサイン。子供セーラーを押しのけてサインをねだる大人セーラーたちの姿に驚く。

前夜祭の後、数時間前の到着以来初めてやっと人心地つき、食事。お互いの近況報告など。
ゴルフの全英オープンをテレビ中継していることを教えると、ラッセルはそれを観るために急いで部屋に戻る。


【ラッセルは寝てないよ】

7月21日 和歌山マリーナシティー・島精機カップ~白浜。

9時、微風の中、島精機カップのスタート。
3月2日のアメリカズカップ最終戦以来のステアリング。

あのアメリカズカップ。5試合すべてのスタートでの、望んだサイドから、トップ・スピードで、ジャスト・タイミングで、まったくディーン・バーカーを寄せ付けない鬼気迫るスタートそのままに、このレースでも微風の中、重量艇X481を操って本部船側からジャスト・スタート。

その僅か3分前までキャビンで熟睡していたとは思えない(某ヨット専門誌のレースレポートで、レース途中から寝ちゃったとあったが、ラッセルの名誉のために敢えて言いますと、彼はレース中寝てません。ステアリングこそ途中でぼくに替ったが、デッキでいろいろ指示を出したりして一生懸命レースしてました。プロが、招待されたレースで寝る訳ないです)。

レース後、昼過ぎからマリーナシティー内数箇所で撮影。
そのまま15時30分表彰式出席。入賞者全員と握手。
17時30分表彰式後部屋に戻ってスーツに着替え、18時からの木村和歌山県知事主催のパーティーに出席してスピーチ。握手。記念撮影。
マグロの解体アトラクションの横に陣取り、刺身ほおばり写真撮影協力。

19時30分パーティー終了。部屋に戻り着替えを持って貸切バスで白浜へ。島精機カップ協賛の島精機社が経営する白浜ホテル・マーキーズに22時到着。ふー。来日2日め、忙しい一日が終わった。

(続く。無断転載はしないでおくれ)

頑張れ、バウワー

2006年03月03日 | 風の旅人日乗
ボルボ・オーシャンレースで、ホーン岬を回航直前だった『ムヴィスター』に事故が発生した。
この写真を送ってきたすぐ後に、『ムビスター』の船内に大量の海水が浸水した。

浸水が起きるとすぐに、『ムビスター』のクルーたちはすべてのセールを降ろした。
そして、クルーの一人が海水で一杯になったメイン・キャビンの床下に潜水し、排水ポンプのスイッチをバッテリーに繋ぐことに成功した。

その結果、排水量が浸水量を上回って、小康状態を保っている。
しかし、浸水の原因そのものが取り除かれたわけではない。
入ってくる海水よりも、くみ出している海水のほうが多いから、浮かんでいる状態だ。

浸水場所は、カンティング・キールの機構全体をキャビンから独立させている水密ボックスからだろう、とクルーたちは見ている。
水密ボックスは、もしカンティング・キール周囲の船底構造に亀裂が入っても、そこからの浸水がキャビンに流れ込まないようにするための、バックアップ構造だ。

つまり、『ムビスター』は外板かキール基部に亀裂が入り、そこから水密ボックス内に浸水。さらに、水密ボックスと外板との接着がはがれ、そこからキャビン内に海水が浸水してきた、と考えられている。

ここのところ6隻のボルボ・オーシャンレース参加艇群は、30~35ノットの風の中を、平均20ノット以上のスピードで走り続けている。重量5トンもの重りを風上側に振り上げて、そんな荒海を走り続けていれば、いかにカーボンファイバーの鎧を着けたボルボ・オープン70クラスといえども、ダメージを受けてもおかしくない。

『ムビスター』は現在、ホーン岬近くの港を目指している。
艇長のバウワーは、「状況は今のところ大丈夫だ」とレース・コミッティーに報告してきている。
ステュー、ジョナサンも無事のようだ。
みんな、命を懸けて闘っている。

『潜水艦』と呼ばれるボルボ・オープン70

2006年03月02日 | 風の旅人日乗
写真はホーン岬に接近中の、世界一周レース参加艇『ムヴィスター』(スペイン)のデッキ。
ボルボ・オープン70クラスのヨットは、超高速で荒海を突っ走るため、船首から上がってくる海水で、デッキは常に水浸しだ。

だからクルーたちはこのクラスのヨットのことを、サブマリンと呼んでいる。すごい水圧で流れるこの海水に足を取られたら、あっという間に船外に押し流され、大事故に繋がる。

現代に残された最後の冒険、それがボルボ・オーシャンレースだ。

Mar.2 2006 ホーン岬

2006年03月02日 | 風の旅人日乗
3月2日 木曜日。

沖縄慶良間列島座間味島でのサバニ合宿を終えて久々にインターネットを見てみたら、ボルボ・オーシャンレースのフリートは明日にでもホーン岬を回航しそうな展開である。
上のバーチャルスペクテーターの画面の右端に見えているのがホーン岬だ。
2月19日に、ニュージーランドのウエリントンをスタートしたばかりなのに、わずか10日あまりでホーン岬に到達するボルボ・オープン70のスピードに改めて驚く。

子供たちにセーリングの魅力を伝えたり、サバニでのセーリング文化を復活させたり、海洋文化の復興から手を付けて行かなければならない日本と、一方でどんどんセーリング技術を進化させ続けている西欧と、その差の大きさを思うと、つい、ため息が出てくる。 でも、ため息をついていても、物事は進歩しないし、改善されない。その道のりがどんなに遠くても、目標に向って一歩一歩進んでいくしか方法はないのだよね。

Feb.28 2006 一旦、さらばサバニさらばザマミ

2006年03月01日 | 風の旅人日乗
2月28日 火曜日。

沖縄・座間味島サバニ合宿8日目。

8日間のサバニ合宿打ち上げの日。
3人で、向かい風を突いて、古座間味の浜を越えて阿佐の浜の近くまで漕ぎあがる。それからセーリングで座間味港を経由して、阿真港へと戻り、『まいふな』を艇庫に入れる。
すごくいい東南東の風に乗って、『まいふな』は今までで最高のセーリングを見せた。我々はもう、舵がなくても、伝統のセーリング技術で『まいふな』でのセーリングができる基礎を身に付けた。うっれしいなあ。

さてさて、本日のエッセイは、昨日の『太平洋の航海文化を辿る心の旅』前編に続く、後編です。

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太平洋の航海文化を辿る心の旅 (後編)

取材・文 西村一広
取材協力 スウォッチ グループ ジャパン 株式会社


二百年前、キャプテン・クックが初めて西洋社会に伝えた太平洋文化圏。それからの長い年月、我々は太平洋の航海文化の本当の意味を知らずに過ごしてきた。しかし、我々日本人のルーツを辿るとき、太平洋とその大海原に展開する文化が、重要な意味を持つことに気付く


【日本人と太平洋】

さらに時代を遡ろう。
ポリネシア人の祖先とされているのは、現在のニューギニア辺りから舟に乗って太平洋に乗り出したラピタ人である。

ラピタ人の故郷とされる海域には、二万年ほど前まで『スンダランド』と呼ばれる古代大陸があり、その大陸は現在のスマトラ島、ジャワ島、ボルネオ島を含めマレー半島と繋がり、ユーラシア大陸とも陸続きだった。

その後の地殻変動と海面の上昇でその大陸が沈み始めると、そこに住んでいた人々は舟を造り、海を渡り、島々の間を行き来するようになった。そうしてそのまま太平洋へと乗り出していったのだ。

彼らは南だけではなく、黒潮に乗って北にも向かった。そして当時大陸と繋がっていた琉球に達し、その北にある大きな一つの島だった奄美群島にも到達し、そして九州、本州にも到達した。

その長い道程で、彼らの航海術と舟作り技術は格段に進歩していったことだろう。
鹿児島県の栫ノ原遺跡からは一万二千年前の丸木舟制作のための石器が発見されている。これは造船用の道具としては世界最古のものである。

その事実からすれば、我々日本人の祖先は、世界最古の造船民、海洋民だと言うこともできそうだ。そして、そんなふうに海からこの国にやってきた祖先から受け継がれた我々日本人の血の一部は、南太平洋へ向かった航海民族、ポリネシアの人々とも深く繋がっているはずなのだ。


【サバニがつなぐもの】

西暦2002年、ナイノア・トンプソンが沖縄を訪れた。
サバニに乗って座間味島から那覇までの海を走るためだ。

サバニとは、少なくとも数百年前まで歴史を遡ることができる琉球古来の帆装小舟である。主として漁業に使われてきたが、その船型は非常に洗練されていて、現代の西洋型ヨットをまったく相手にしないほど高速でセーリングすることができる。

しかし、サバニが伝える祖先の海洋文化を、操船法も含めて保存しようという有志が立ち上がらなければ、その存在は二十一世紀を待たずして日本の海洋文化の歴史から忘れ去られていたはずだ。

有志たちは「帆装サバニ保存会」という組織を立ち上げ、毎年梅雨明けに慶良間諸島の座間味島から那覇までのレースを行なうことで、サバニとその帆走技術を次世代に伝えていくことを企画した。

そのサバニ・レースは年を追う毎に規模を拡大し、最近では新しい木造サバニが続々と進水するようになった。サバニをきっかけに、沖縄の人たちが、海の民である自分たちの祖先とその誇りを思い出すようになったのだ。沖縄の海のルネッサンスである。

日本列島の南端に古い伝統をもつサバニという舟があることを、『帆装サバニ保存会』の活動を通してハワイ人たちが知るところとなる。そして彼らを代表するナイノアが、深い敬意を持ってそのサバニという舟に乗りに来ることになったのだ。

サバニに触れ、実際にそれに乗って航海したことで、ナイノアは日本とそこに住む人々が、自分たちポリネシア民族と深く繋がっていることを確信した。
「我々は太平洋の島々に住む同じ家族だ」。

ナイノアは2007年、今度は自分たちハワイ人の舟『ホクレア』で、沖縄と日本列島を再訪することを計画している。
サバニという小舟が、広大な太平洋に拡散していった航海民族の大きな輪を、数千年の時を経てつなぐ役割りを果たそうとしている。

ナイノアの確信によれば、二百年前、キャプテン・クックを驚かせた太平洋の航海文化は、実は我々日本人とも密接な関係を持っていることになるのだ。

このエッセイを書くときに参考にした本
『青い地図 キャプテンクックを追いかけて㊤㊦』
トニー・ホルヴィッツ 著
山本 光伸 訳
バジリコ株式会社
著者のトニー・ホルヴィッツはピューリッツァー賞受賞ジャーナリスト。キャプテン・クックの航海を西洋文化と太平洋文化の両方の側から詳しく取材し、三度に渡るクックの太平洋周航を、斬新な切り口で説き明かしてゆく。

(完。無断転載はやめてくだされ)