今から30年前の今日にあたる1994年8月20日、南アフリカで行われた試合結果です。
IBFジュニアフェザー級戦(現スーパーバンタム級):
挑戦者ブヤ二 ブング(南ア)判定3対0(117-111、116-112x2)王者ケネディー マッキニー(米)
(リング中央で対峙するマッキニー(赤)とブング)/ Photo: Youtube
*1994年8月20日時点での同級の世界王者たちは下記のような面々でした。
WBA:ウィルフレド バスケス(プエルトリコ/防衛回数7)
WBC:トレーシー パターソン(米/4)
IBF:ケネディー マッキニー(米/5)
WBO:ダニエル ヒメネス(プエルトリコ/4)
当時のジュニアフェザー級には、ウィルフレド バスケス(プエルトリコ)やダニエル サラゴサ(メキシコ)など、日本人選手の壁になった選手たちが世界王座、もしくは世界のトップ戦線に君臨しており、彼らの対抗王者マッキニーも、気になる存在でした。他の選手を圧倒的に凌駕する実力者が不在だった30年前のジュニアフェザー戦線。バスケスとパターソンもそれなりの実力者として知られていました。しかし「安定度ではマッキニー」と言うのが当時の一般的な評価でした。
(安定政権を築きつつあったマッキニー)/ Photo: Ring Magazine
ちなみにWBOはまだまだマイナー団体として扱われていました。そのマイナー王座に君臨していたヒメネスの実力は、同時のWBOにそれ相応のもの。メジャー団体の王座を獲得する実力は無かったでしょう。驚くことにWBAとWBCは、統括団体として非常に整っており、専門家からも世間一般からも非常に評価されていました。現在では考えられないことです。
1988年のソウル五輪に出場し、バンタム級で金メダルを獲得したマッキニー。プライベートでは、ドラックや未成年の女性に手を出そうとするなど、色々な問題を抱えていましたが、プロ転向から4年目の1992年師走に、世界王座奪取に成功。その後防衛記録を5にまで伸ばしています。
安定王者としての地位を固めつつあったマッキニーに立ちはだかったのが、マッキニーに王座を明け渡したウェルカム ヌシタ(南ア)の同胞ブング。24勝(17KO)2敗と好戦績の持ち主ではありましたが、マッキニーにとり比較的危険度の少ない挑戦者と思われていました。その「安全パイ」が、予想外の実力者でマッキニーを、そして世界中のボクシングファンを驚かせることになりました。ビースト(野獣)というニックネームを持つブングでしたが、世界戦で勝利を重ねていくうちに、日本のファンからは「南アフリカのファイティング原田」とまで言われるようになりました。
ブングのスタイルはその日本のニックネームから連想出来るように、とにかく手数があります。試合開始のゴングと同時に、上体を振りながらパンチの雨あられを相手に見舞います。その突進力は回が重なっていっても衰える事はありません。ただ単にパンチを放ちながら前進するのではなく、確かな防御がそのボクシングを支えています。しかし何といってもその左ジャブが光りました。マッキニーは左ジャブの名手として知られていましたが、ブングは左ジャブのみでも米国人を上回りました。実力者マッキニーも易々とブングに飲み込まれたわけではありません。時折シャープなパンチでライバルをぐらつかせます。しかしそれらの反撃はブングの圧倒的なパンチの量の前では焼け石に水。結局は数字以上の試合内容で、南アフリカから新王者が誕生する事になりました。
見事なボクシングで強豪マッキニーを世界王座から引きずり降ろしたブング。番狂わせの主人公になったことは驚きでしたが、その後5年もに渡り王座を守り続けたことも驚きです。
(マッキニーに代わり、長期政権を築くことになったブング)/ Photo: Goldern Gloves Boxing
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