人の姿が見分けにくくなる夕暮れ時を、「誰そ彼(たそかれ)?」という意味から「たそがれ」となり、黄昏という文字が当てはめられたという。
また、明け方の薄暗い頃を、「彼は誰(かはたれ)」という意味で「かわたれ時」といい、黄昏時と使い分けるようになったとか。
30度を越す暑さとなった東京は、午後6時を過ぎてもまだ明るい。早めに仕事を終えた黄昏時、同僚に誘われて行ったのは上野公園入り口にある野外テラス。
公園から吹いてくる黄昏時の風は心地よく、ビールの味もまた格別。人生の盛りを過ぎた年代を例えて「黄昏」ともいうが、周りに居るのは働き盛りの人ばかり。
「四十五十(五十六十)は洟垂(はなた)れ小僧、七十八十は花盛り、九十でお迎え来たならば、百まで待てと追い返せ」は、明治時代の大実業家・渋沢栄一さんの言葉とされているが、六十を遠に過ぎた我が身も、黄昏と思わずに洟垂れ小憎ならぬ彼は誰(かわたれ)小憎と云おう。明け方の暗さは、次第に明るくなって陽も射し、やがて花盛りを迎えるのだから。
また、明け方の薄暗い頃を、「彼は誰(かはたれ)」という意味で「かわたれ時」といい、黄昏時と使い分けるようになったとか。
30度を越す暑さとなった東京は、午後6時を過ぎてもまだ明るい。早めに仕事を終えた黄昏時、同僚に誘われて行ったのは上野公園入り口にある野外テラス。
公園から吹いてくる黄昏時の風は心地よく、ビールの味もまた格別。人生の盛りを過ぎた年代を例えて「黄昏」ともいうが、周りに居るのは働き盛りの人ばかり。
「四十五十(五十六十)は洟垂(はなた)れ小僧、七十八十は花盛り、九十でお迎え来たならば、百まで待てと追い返せ」は、明治時代の大実業家・渋沢栄一さんの言葉とされているが、六十を遠に過ぎた我が身も、黄昏と思わずに洟垂れ小憎ならぬ彼は誰(かわたれ)小憎と云おう。明け方の暗さは、次第に明るくなって陽も射し、やがて花盛りを迎えるのだから。