☆朝日新聞のコラム「ひととき」から☆
夏休みにでかけた長野県安曇野のガラス工房で、小6の息子が「吹きガラス体験」をした。体験料3,500円は少し高いかな、とも思ったが、息子は自由研究のテーマにしたいというし、自分で作ったガラスのコップで清涼飲料水を飲みたいとのこと。この先もずっと使えるので、やらせてみた。
工房の中はガラスを溶かす火を燃やし続けているため、すさまじい熱さだった。汗だくになりながらも、息子はうれしそうに色や形を自分で決め、スタッフの人に助けられながら、世界に一つだけの自分のグラスを作った。
作品の受け渡しは次の日だ。待ちきれず、朝一番で受け取りに行った。売り物と同じように、初めてのガラス作品を箱につめてもらい、誇らしげに持っていたのだが、トイレに入る際、うっかり洗面台の上に置きっぱなしにしたらしい。出てきたときにはもうどこにもなかった。
息子は目にいっぱい涙を浮かべながら、通る人たちに「僕のグラス知りませんか」と聞いて歩いた。その姿を見て、彼のうかつさを責めることはできなかった。工房の人に、もしも見つかったら連絡を、と頼んだが、今も連絡はない。箱を開ければ明らかに素人の作とわかる。おおぶりのいびつなグラス。持って行った人が、せめて大切に使ってくれたらと願うばかりだ。
-神奈川県二宮町 石井明美さん-
悲しい夏休みの思い出になってしまった少年の気持ちを思うとき、胸が痛むのは、歳をとった証拠なのか。
他人にとってはなんの価値がなくても、その人にとっては、宝物のようなものがある。それは思い出かもしれないし、高価ではない形見の品かもしれない。家を出て独り暮らしをはじめたときに見せた母の涙かも知れない。お揃いで買った、小さくなったセーターかもしれない。二人で歩いた銀杏並木、旅行に行った思い出の地。だれもが持っている自分だけの宝物。
大切な宝物を失ったとき、その価値の大きさに改めて気付く。そんな宝物を失ったこの少年の悲しみの涙、癒されるのはいつの日か。
暑かった夏が終り、風に秋を感じるとき、人は感傷的になる。失ったものが戻ったとき、人はそれをより大切にするだろう。
眼にいっぱいの涙に消えた「僕のグラス」が、この少年に戻って来ることを願う。