歩くたんぽぽ

たんぽぽは根っこの太いたくましい花なんです。

花男

2020年05月28日 | 
松本大洋の漫画って本当に不思議だ。



例えば、人には普段の生活では使わない筋肉というのがある。

そういう筋肉は体を作るのに不可欠な構成要素のはずなんだけど、

使わないので知らないうちにだんだん衰えていく。

体のプロはそのことを知っているから、

自覚的にそういう部分を鍛えてバランスの良い体をつくっている。



感情も同じだ。

普段触れることのない隙間の感情というのがある。

どうすればそこに刺激を与えられるのか、素人の私にはわからない。

それどころか、それがそこにあることすら知らないのだ。

松本大洋の漫画はいつもそういう無自覚な感情を開拓してくる。



『花男』、

この漫画はバイブルだ。

こんなに優しい物語を私は知らない。

類稀なる暖かさに包まれて喉が細くなる。



『花男』は30過ぎてもなお巨人軍入団を夢見る破天荒な父と、

都会の競争社会で勉強ばかりしてきたエリート志向の息子との再会の物語だ。

プー太郎で自由奔放な父とそれをバカにする口の悪い息子という

一風変わったコンビが繰り広げる平和な日常と、

それを見守る街の人々がユーモラス、かつ丁寧に描かれている。

物語が進むにつれ凸凹コンビの息が合ってきてどんどん心地よくなってくる。

そしてラストには否応無く感情がほとばしるのだ。



くさいのはなかなか入ってこなかったりするけど、

『花男』はまっすぐ入ってくる。

いびつな背景と変な通行人と草野球の怪しい対戦相手と、

なんだかよくわからないものがごちゃごちゃと絡まり合って、

どストレートに響く、本当に変な漫画だ。

要は絶妙。



なんでこんな物語を描けるのだろうか、本当に不思議でしょうがない。



追伸、最後の方に『伝染るんです。』のかわうそくんが出てきてびっくりした。
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流星ワゴンに乗る前に

2020年05月16日 | 
重松清の2002年の小説『流星ワゴン』を知っているだろうか。

悲惨な現状に苦しむ主人公が時空を超えるワゴン車に乗って、

過去に戻り幸せな現在を手に入れるべく奔走するという物語だ。

今思えば今流行りのタイムリープものの走りじゃないかと思う。



なぜかは知らないけれど私の夫は無類のタイムリープ好きで、

過去に戻って頑張ってさえいればなんだって好きなのだ。

私はといえば随分前に夫に勧められて読んだのだがあまりピンとこなかった。

でも未だに強く印象に残っている箇所がある。

それは、

過去を振り返った場合人生にはいくつかの分岐点がありその時の行動が現状を決定づけているということ。

例えば不幸な現状があった場合、ある過去の時点に絶対に見逃してはいけないサインが発せられていたのに、

それを重要視しなかった、あるいは気づけなかった結果取り返しのつかない今になってしまっているということ。

『流星ワゴン』では妻や息子が発していたサインを見逃してしまったのだ。



私はよくこのことを思い出す。

私の場合は過去を振り返るというより、今が未来にとっての過去だという認識のもと思いを馳せる。

つまり今がまさに分岐点かもしれない、サインを見逃してはいけない、という風になるわけだ。

幸せな未来が欲しいという漠然とした思いすら浮かべず、ただ単純に「今」を遊ぶ妄想に近い。



一人じゃつまらないので夫にこの遊びを押し付けることもある。

夫にチクリと嫌なことを言われたら「今が分岐点かもしれないよ」って言い返したりして、

むしろ岐路に立たされているのは私の方だったって可能性の方が高いな。



それにしてもどうしたって『流星ワゴン』のラストが思い出せない。

主人公は幸せになれたのだろうか。

やはり大事なのは結末よりそこに至る過程ということか。

人生が続く限り、今なおずっと分岐点であり続けている。

『流星ワゴン』はきっと逆説的に「今を大事にしろ」と言っているんだろうね。

これが簡単そうで難しい。



重松清の小説がすごいのは印象的な考え方や強い言葉を読む人の心にざっくり刻むところ。

夫婦の会話で「流星ワゴン」や「分岐点」、それに『疾走』の「穴ぼこの目」といのは未だによく出てくる。

『疾走』も随分前に読んだけれど、あのなんとも言えない読後感は鮮明に覚えている。

人生でもう二度と読むことはないと言い切れる、なのにこんなに強く残っている、すんごい小説。


虫眼鏡で一人遊びパート2
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一番読んだのは誰の本

2020年03月31日 | 
最近本好きの人に「今までで一番読んだのは誰の本?」と聞かれた。

こういう質問はテンションが上がる。

「一番好きな作家は誰?」と聞かないところがいい。

そんな野暮な質問は受け付けていないし、

無邪気にそんなことを聞いてきたら、

皮をかぶった私の面倒くささが露わになってしまう。



ここでは自らの意思でその皮をはぐわけだけども、

例えば「今までで一番読んだのは誰の本?」という質問は、

「好き」が全てじゃないってところに返答の活路が見える。

「好き」だからたくさん読むとは限らない。

勉強や研究に必要でたくさん読むこともあるだろうし、

昔と今で好みが変わることもあるだろう。

「面白い」と「好き」がイコールとは限らないという点も見逃せない。

うかつに好きでもない作家の本をたくさん読むことだってあるかもしれない。

そんな予期せぬストーリーで、是非盛り上がりたい。



「今まで一番読んだのは誰の本?」という質問は、

「一番好きな作家は誰?」という質問に近いようで実は遠い。

前者にはワクワクするけど、後者には緊張する。

先にも書いたけれど前者には「好き」以外の物語が許されるが、

後者には「好き」しか許されない。

「好き」に向き合うことは、これ即ち丸裸にされるも同義。

話し相手の口を押し広げて出てきたエイリアンに、

服を剥ぎ取られ「お前は誰だ?」と言われるようなもんだ。

その恐怖に耐えつつ私は唯一無二の私だ!と言い切るくらいの、

強靭な精神力を持ち合わせていないといけない。

こんなリスキーな質問にはとてもじゃないが答えられない。



人間のややこしい危機管理問題について、

もう少し論理的な言葉で思いを綴りたかったけれど、

差し迫ったタイムリミット(寝る時間)を考慮してその権利を放棄する。



「今までで一番読んだのは誰の本?」

普段緩慢な思考しか任されていない錆び付いた脳がビリリと反応する。

この30余年の人生で一番読んだ作家、、、。

徐々に稼働し始める脳。

少しずつ蘇るめまぐるしい記憶。

昔村上春樹の短編にはまって、短編だけ全部読んだっけ。

短編の流れで星新一もずいぶん読んだ気がする。

母が入院時に読んでいたという藤沢周平の本を借りてからは、

しばらく彼の本ばかり読み漁ったなぁ。

一時はもう時代小説しか受け付ないなんて勘違いもしたくらい。

ミステリーにはまったのは貴志祐介の『黒い家』がきっかけだった。

それからすっかりサイコスリラーに魅了され貴志中毒になった。

京極夏彦とか三津田信三とかそれからそれから、あとはあとは、、、。

早送りの記憶が脳を駆け抜けていく。

あんまり早いからよく見えなくて、目をこすったりなんかして。



しばらくして自分ばかりになっていたことに気づき相手に同じ質問をした。

すると「◯◯◯だよ(誰だか忘れた)。」と即答。

そして曇りなき眼で「昔から一番好きなんだよね。」と言い放った。

頭に石でも投げつけられたような気分だ。

そうか、それでもいいよね、うん。

見方を変えれば私には一番と言えるほどのこだわりがないだけ。

エイリアンは口から出てこない。

絞り雑巾くらいの心の捻れを少し緩くしてもらった。

その流れで違う作家のおすすめの本を貸してもらったけれど、

半年に一回会うか会わないかの人なわけで、

今度は借りパク問題が勃発しそうだけどそれについて語るのはまた今度。

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殺人犯はそこにいるー隠蔽された北関東連続幼女誘拐殺人事件

2020年03月14日 | 
私は本の帯があまり好きではない。

読む前に変に印象をもちたくないのだ。

でもこの本に関しては先に帯の文章を載せておく。



「この本を読まずに死ねるか!戦慄のノンフィクションー成毛眞(HONZ代表)」

「この真実をすべての日本人は直視すべきだ。ー石井光太(ノンフィクション作家)」

「衝撃。戦慄。震撼。怒り。著者の文章からは熱が出ている。ー乃南アサ(作家)」



本は読む方だと思うけど、ノンフィクション作品はほとんど読んだことがない。

ノンフィクション映画は好きだけれど、本となるとどうしても尻込みしてしまう。

実話を基にした小説ならまだしも、完全ドキュメントとなるとなおさらだ。

映像に比べ文章によるイメージは際限がなく、読む前から重苦しい。



それなのに先日TBSラジオのアフター6ジャンクションで紹介された、

純然たるドキュメント本『殺人犯はそこにいる』をまんまと買ってしまった。

最近行われたビブリオバトルの優勝者が紹介していたんだからしょうがない。

ビブリオバトルとは京都大学発の読書会・勉強会らしく参加者が好きな本を紹介し競うことを言う。

うっかりそんな大会を見に行ったら、帰りに何冊本を買う羽目になるやら。



そんなこんなで読みました。
以下ネタバレあります。





清水潔 著
新潮社 2013年



80年代から90年代にかけて栃木群馬の隣接する2つの街で5人の少女が誘拐または殺害された。

最後の事件発生から十年以上経った2007年、依然未解決だったこれらの事件を、

日本テレビで特番にするため当時局の報道局記者だった著者が取材することになった。

はじめは関連付けられていなかった5つの事件だが調べていくうちにいくつもの共通点が見つかり、

著者は同一人物による連続誘拐殺人事件なのではないかと疑い始める。

そして事実その殺人犯は捕まりもぜず未だのうのうと暮らしている。

しかし連続事件であると考えるにはあまりに大きな障害が一つあった。

5件のうち90年に起きた『足利事件』だけ犯人が逮捕されすでに服役していたのだ。

しかし著者の推測では5件でなければ辻褄が合わない、何かがおかしい。

無期懲役を言い渡された塀の中の犯人は無実を主張し再審請求を求めている。

逮捕の決め手は自供とDNA「型」鑑定だったという。

当時最新技術としてもてはやされたDNA型鑑定とはいかなるものだったのか。

取材を進めていくうちに著者は「冤罪」という司法のタブーに切り込んでいくことになった。



現実は小説より奇なり。

これがフィクションだったらあまりに劇的で反対に陳腐に思えたかもしれない。

それほどまでに記者が有能で物語がドラマチックなのだ。

立ちはだかる謎や壁にどんどん突き進んでいく著者はまさにミステリー小説の主人公然としている。

著者は新潮社「FOCUS」記者時代、所謂「桶川ストーカー殺人事件」で警察より先に犯人を割り出し、

被害者の告訴を改ざんした警察の不祥事をスクープ、報道被害に合った被害者の名誉回復にもつとめたという。

まっすぐで熱苦しいほど熱く一生懸命な記者清水潔、日本にこんな人がいたのかと驚いた。

まさに正義の味方だ。



最近つくづく思うことがある。

それは日本のお偉方(権力側)って市井が思っているよりもっとずーっと前時代的なんだということ。

政治家が糾弾されるときの失言なんか見てると心底嫌になる。

市民のことなんか屁とも思っていない。

大組織というのは組織を存続させるための組織であり、組織を守るためならなんだってする。

その中にもし真っ白な芽が芽生えてもすぐ摘まれてしまうだろう。

さくらの会の公文書紛失、加計学園の文書偽造なんてあまりに幼稚だ。



この本の中で著者がぶち当たる権力の壁は警察、司法、科警研という霞ヶ関の巨大組織群。

この壁は見上げても上がかすむほど途方ない高さだ。

一介の記者にいったい何ができるというのか、本当に彼らの失態を暴くことができるのか。

読んでいる方としてはそういう劇的な展開に盛り上がるわけだが、

著者は誘拐、殺害された幼い命に寄り添い続け、決して大事なことを見誤らない。

真犯人を捕まえるという信念を強く持ち、

そのために足利事件の犯人とされている服役中の彼を舞台から降ろすため奔走する。

地道な現地調査、聞き込みには強い執念を思わせる。

絶対に手を出してはいけない司法のタブー「冤罪」に切り込むにあたり、

著者には相当な覚悟と確信が必要だったはずである。

まさにその時点で著者は真犯人に目星をつけており、確信に近いところまで詰めていたのだ。

目撃者の印象から真犯人と思しき男は「ルパン」と呼ばれることになった。

清水さんてば、もう警察になった方がいいのではと思ったが、組織の外にいたからこそできた行動とも言える。

そして著者と日本テレビは後追い取材など一切の援軍なし状態で「足利事件」冤罪キャンペーン報道に踏み切るのだ。

今思うと日本テレビもすごい決断をしたなと思う。

著者が相当信頼されていたのか、報道局の面々が正義感満ち溢れる人々だったのか。

なんだか胸の中が熱くなっていく。

私って案外洗脳されやすいかも。

やっぱり真っ正直な人というのは人の心を動かす力を持っているんだろうと思う。

この報道により一旦は再審請求が棄却されるも風向きが少しづつ代わりついには無罪を勝ち取るのだ。

そこまでは本当に痛快で不謹慎だが物語として面白いし、事実としてはあまりに衝撃的。

こんなことが本当に起こりうるのか。




しかしこの本の一番大事なところはむしろ「足利事件」の無実が証明された後の後半にあると思う。

無罪キャンペーンは終わったが、「幼女連続誘拐殺人事件」は振り出しに戻った。

私たちは後半に進むにつれこの話がまごうことなき実話であることを噛みしめなければいけない。

清水さんは捜査当局にルパンの情報を伝え、

一時国会で議論されるまでに至ったが結局ルパンが逮捕されることはなかった。

そこには巨大組織の組織による組織のための権力が働いたというほかない。

そこにあるのは「足利事件」で冤罪を招いてしまったDNA型鑑定における科警研の闇、

最後に起きた横山ゆかりちゃんの誘拐事件を絶対に連続事件として認めない警察の闇、

無実の人を17年半も投獄しておいてルパンを野放しにする霞ヶ関の闇。

最後は真犯人に対する著者の怒りの言葉で結ばれる。

「いいか、逃げきれるなどと思うなよ。」



個人的にはこの巨大組織に忖度しなかった当時の民主党政権と菅元首相は賢明だったのではないかと思う。

東日本大震災によって引き摺り下ろされ、何もできない政党という烙印を押され、再起不能となってしまったけれど。



文章量は比較的多いけれど小説っぽい語り口なので、ノンフィクションに尻込みする人も読みやすいと思う。

むしろ客観的事実だけ知りたい人からすれば多少くどいかもしれない。

読んでいて少しこっ恥ずかしい表現もあるけれど、事実が劇的なだけに私はあまり気にならなかった。



本の帯にあるようにこの本は皆読むべきだと思う。

もちろん一方通行的視点だけど、それでも一記者から見たこの国の実態を知るべきだ。

著者は「北関東連続幼女誘拐殺人」報道及び「足利事件」の冤罪キャンペーン報道で、

「日本民間放送連盟最優秀賞」「同テレビ報道番組優秀賞」「ギャラクシー賞」「編集者が選ぶ雑誌ジャーナリズム賞」を受賞。

この本は「日本推理作家協会賞」と「新潮ドキュメント賞」を受賞している。
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理由

2019年09月30日 | 
一片の曇りなき満足感。

なんだこれ。

面白すぎるだろ。



宮部みゆきの小説を初めて読んだ。

この人は多分すごい人だ。

参りました。





『理由』



宮部みゆき 著
朝日新聞社 平成10年(新潮文庫 平成14年)



なかなかとっつきにくい本ではある。

事実、私は最初の100ページくらいを読んではやめ、忘れ、読んではやめを繰り返していた。

取っ掛かりがなかなか見当たらないのだ。

私が今まで読んできた小説は物語然としていたし、

その最たる要因である主人公が当たり前のように存在していた。

主人公とは感情移入のスイッチであり、物語の案内人である。

彼らは読者の立場を明確にしてくれるし、

彼らの後についていけばなんの迷いもなく物語のゴールへたどり着けた。

しかし『理由』は案内人を用意してくれていない。

甘やかされてきた読者はその時点で何を頼りに物語を進めばいいのかわからなくなってしまうのだ。

それ自体がこの物語を特別足らしめる肝だったとははいやはや。



この物語は荒川区にある超高層高級マンションで起きた一家四人殺人事件をめぐる物語である。

文章が書かれたのはすでに事件の全容が暴かれ周知の事実となったころ、

多くの関係者へのインタビューによってより生々しくかつ客観性を保って事件を伝える、というスタンス。

この物語には子どもも多く登場する。

子どもの視点のときだけ三人称一視点の物語として語られていたのは

大人と子どもが見ている世界を明確に分けようと意図したものなのか。

だとすると小糸孝弘だけインタビュー形式だったのはなぜだろう。



小説を読んでここまでリアリティを感じたのは初めてだ。

「本当にありそう」というリアリティではなく、「真実の置き場所」が非常にリアルなのだ。

過去の事件は人の記憶の中にしかない。

そのため多くの人にインタビューする訳だが、

同じ事件について語っているのにも関わらず人によって見え方が全然違う。

この本は彼らが語る真実を否定せず、物語を一本化しようとしていない。

それぞれの都合や思い込みでねじ曲げられた言葉を全てそのまま載せているのだ。

って”彼ら”って誰やねーーーん!!

あまりに現実味があるので”彼ら”が本当に実在する人のように錯覚してしまうほど。

一から全て著者が作っていると思うと不思議な気持ちになる。

このちぐはぐで移り気なパズルを少しずつ組み立てていき、最終的に事件の全容を提示している。



はじめは徹底された客観性に馴染めず戸惑ったが、200ページあたりから読む手が止まらなくなる。

スタンスへの戸惑いよりも、少しずつ明らかになる真相に目が離せなくなっていったのだろう。

遅い気もしないではないが、それでも余るほど面白さを享受できる。



初めて宮部みゆきの本を読んだのであまり偉そうなことは言えないけれど、

この本を読む限りどこにも宮部みゆきはいない。

著者の都合や作為を感じる瞬間が全くなかった。

というのもミステリーを読んでいるとなんとなくパターンが見えてくることがある。

こういう時はこうくるか、それとも予想を裏切る?って著者と駆け引きする瞬間があるものだ。

それはそれでそういうやりとりが楽しい訳だが、この本の中には著者を感じる瞬間がない。

『理由』の中に存在する登場人物があまりに生々しく生きているものだから、著者の出る幕などないのだろう。

いや違う、著者がそうしているのだ。

お見事である。



私の好きな漫画家は、キャラクターは言うことをきかないと言っていた。

キャラクターにはそれぞれ性格があって、

それを踏みにじってこちらの思うストーリーに当てはめることはできないのだと。

だからこそ自分でも想像しなかった話になるし、それこそが漫画の面倒くさくて面白いところだと。

『理由』を読んでその言葉を思い出した。



20年以上も前に書かれた本だけど、私からするととても新しい。

後から知ったのだけど、この本は宮部みゆきの代表作の一つとしてあげられることが多いようだ。

いい本に巡り会えた。
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