歩くたんぽぽ

たんぽぽは根っこの太いたくましい花なんです。

深川江戸資料館

2017年11月28日 | 日記
半蔵門線・大江戸線の清澄白河駅から歩いて5分くらいの場所に「深川江戸資料館」という名の興味深い施設がある。

江戸時代中後期の町人に生まれたかったという妄想を昔からよくしていた。

町人文化が花開いた時代だ。

大抵は、もし江戸時代に生れ落ちることができたら呉服屋の娘がいいなんて都合のいいことを考えている。

江戸時代は江戸時代で実際はほとんどの人が大変だったろうに、漠然とした憧れは変わらない。

ということで用事がてら先週の日曜日にその資料館へ行ってきた。

エントランスというには随分庶民的な受付の奥に、江東区に所縁ある横綱大鵬のコーナーが設置されていたがそこは見ていない。

チケットを買い順路を辿るとはじめに深川と縁の深い歴史的人物の説明書きがあった。

伊能忠敬、市川団十郎、山東京伝、佐久間象山、松平定信とかね。

そこら辺はサラーッとスルーしてお待ちかねのメインコーナーへ突入。

それはまさに三層にわたる高い吹抜けの大空間に展開する江戸時代の深川を再現した町。


路地


船宿の台所ー建前は船宿だが船で吉原へ行くまでの男女の休憩所のような場所らしい。


船宿


長屋ー木場の木挽職人


水茶屋・床店ー手前の道具は現代で言うライターと灰皿。なんだかお洒落。

全体的な写真を撮っていなかったので興味がある人は是非ホームページで。→「深川江戸資料館」

他のコーナーに長屋のミニチュアがあった。

一部の壁や屋根がないので中の様子がよく見えてテンションが上がる。





結構マイナーな施設だと思うけど、日曜だからかたくさん人がいておどろいた。

あまり広くはないが大人入館料400円を考えればかなりお安い。

子どもが好きそうだが、再現のクオリティが結構高いので大人も十分楽しめると思う。

また資料館のはっぴを着た係員に話を聞くとより理解が深まり面白いので行った際は是非。
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うんざりするほど極端だ

2017年11月18日 | 空想日記
白か黒か。



好きじゃないのなら嫌いなのだな。

嫌いじゃないのなら好きということか。



ちゃんとやるのか、諦めるのか。

やりたいのかやりたくないのか。

今やらないのならやめちまえ。



こんな簡単な買い物になぜ悩む。

選択肢は2つしかないというのに。



いつになったら机の上を片付けてくれるのか。

期限を決めよう。

それを過ぎてもダメなら部屋を別けよう。



これはお互いの利益を考えての線引きである。

ここからここまでは私のテリトリーだからもう干渉しないでくれ。

ましてや土足で踏み込むなんていう無作法はやめてくれたまえ。



なんもかんもがうんざりするほど極端だ。

加えて気が強いやつほど一方的で他の者を顧みない。

わたしか。



三次情報くらいの曖昧な話なのだけど、

宇宙飛行士がはじめて宇宙から地球を見たときに思うのは国境がないということらしい。

ないものをあるようにつくるのは人間の得意分野だ。

極端な思考は人をより妄想の世界へといざなう。


季節外れの開花。わけわからん。
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<ブレードランナー2049>2017年衝撃作

2017年11月11日 | 映画
ネタバレの前に一つだけ言っておきたいことがある。

映画が好きな人、本物に出会いたい人は『ブレードランナー2049』を観るべきだということ。

もちろん3DIMAXで。

私にとっては、もう一度映画館へ観に行きたいと本気で思わせてくれる久々の超ヒット作品だった。

以下大いにネタバレありなのでご注意を。





『ブレードランナー2049』

製作総指揮:リドリー・スコット
監督:ドゥニ・ヴィルヌーヴ
出演:ライアン・ゴズリング、ハリソン・フォード
キャラクター原案:フィリップ・K・ディック「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」
原案:ハンプトン・ファンチャー
脚本:ハンプトン・ファンチャーandマイケル・グリーン



ストーリー

2049年、貧困と病気が蔓延するカリフォルニア。
人間と見分けのつかない《レプリカント》が労働力として製造され、人間社会と危うい共存関係を保っていた。
危険な《レプリカント》を取り締まる捜査官は《ブレードランナー》と呼ばれ、2つの社会の均衡と秩序を守っていた。
LA市警のブレードランナー“K”(R・ゴズリング)は、ある事件の捜査中に《レプリカント》開発に力を注ぐウォレス社の【巨大な陰謀】を知ると共に、その闇を暴く鍵となる男にたどり着く。
彼は、かつて優秀なブレードランナーとして活躍していたが、ある女性レプリカントと共に忽然と姿を消し、30年間行方不明になっていた男、デッカード(H・フォード)だった。
いったい彼は何を知ってしまったのか?デッカードが命をかけて守り続けてきた〈秘密〉ー
人間と《レプリカント》、2つの世界の秩序を崩壊させ、人類存亡に関わる〈真実〉が今、明かされようとしている。
(公式ホームページより引用)



感想と考察

ベスト2017年映画であることはまず間違いがない。

もうすぐ『スターウォーズ 最後のジェダイ』が公開されるが、これを超えるとは到底思えない。

2015年に観たクリストファー・ノーラン監督の『インターステラー』以来の衝撃作である。

とにかく超面白い。



『ブレードランナー2049』は2時間44分とかなり長く、その時点で万人受けするエンターテイメントとは言い難い。

前作が興味深いのは一見嗜好的でありながら、映画史のメインストーリームを堂々と走れる力があったということ。

現に様々な分野に大きな影響を与えた伝説的な映画という華々しい地位を確保している。

対して、今作においては評価が割れる可能性は十分にあり得る。

この映画の静けさが受け入れられなければ、長くて退屈な映画に終わりかねないからだ。

しかしだからこそはまる人からすれば、深く心に突き刺さる忘れ難い映画になるのだと思う。

ヨーロッパ映画のような感じとでもいおうか。

またリアルタイムで『ブレードランナー』に出会えなかった新しい世代にとっては、

今作はブレードランナーという強烈かつシンボリックかなアイコンへの一次的接触を許してくれたかのような感慨すらある。



SF映画という括りにはおさまりきるはずもない。

哲学的であり観念的であり文学的でさえあるこの映画は、その本質に静寂を抱いている。

この映画に論理的なリアリティだけを求めるのであれば「なぜこんなに重大な任務を一人で背負っているのか」という疑問にぶつかるが、

これが「壮大なスケールで描かれるSF映画」というよりは「人間とは何かというシンプルかつ根本的な核心を携えた精神的な物語」であり、

だからこそ場面の一つひとつが静けさを保ち象徴的である必要があったのだと解釈する。

つまるところ押井守監督の『イノセンス』を彷彿とさせる美しい映画であった。

SF映像作品に限定した話になるが、一部で神アニメと評されるいくつかの日本アニメが有する侵すことのできない絶対領域があるとして、

『ブレードランナー2049』はその境界線をはじめて実写で超えてきた作品だと感じる。

どちらがいいとか悪いの話ではなく、答えのない問いへの迷妄と虚しさが紡ぐ繊細な日本的領域(私がそう思っていただけ)とでも言おうか、

あるいはそれが答えを得ぬまま物語が終了してしまう無情さとでも言うべきか。

明瞭な起承転結を望む人からすれば退屈とも捉えられかねない虚しくて孤独な内なる物語である。

重要な場面で繰り広げられる哲学的な会話も見物である。

ウォレス氏がデッカードに放った「君は苦痛を愛している」という言葉はなかなか印象的だった。

見終わった後の満足に加味されたえも言われぬ空虚感は小説を読み終わった後の気分に少し似ている。



この映画を面白くさせている要素の中で重要なのが、絶対的価値観、主に一部アメリカ映画でもてはやされる一方的な「正義」がどこにも存在しないことである。

個人的好みなのかもしれないが、ソレが振りかざされると途端に興ざめしてしまうのだ。

ハリウッド版『Ghost In The Shell』がどうにも受け入れられなかったのはそういった部分に大きく起因している。

対してこの映画は一人のレプリカントがいくつかの勢力の思惑に翻弄されながらも、自分自身に向き合い思い惑い自分だけの「大義」を見つける。

レプリカントにも関わらず、その選択があまりにも人間らしく悲しい、もう涙が止まらない。

押し付けがましくないので素直に物語をすくいとることができるのだ。



ブレードランナーの象徴ともいえる多文化が入り交じる混沌とした近未来的街並は今作にも踏襲され、

さらに見せる範囲を広げ、始まって早々に映し出されるカリフォルニアの無機質な上空映像のスケールには正直胸を躍らせた。

それを生活レベルまでズームインすれば、やはり闇鍋のように様々な者が無秩序の中を行き交ういかにもブレードランナー的街並になる訳だ。

日本語、中国語の看板が印象的だった前作からさらにハングル語の看板もちらほらと。

若くして亡くなった「ゼロ年代ベストSF」を世に残した伊藤計劃だが、そのベストSF作品『虐殺器官』の中で「読めない文字は情報というよりも意匠だ」という言葉を残している。

また、「理解できない文化は排斥の対象になりやすいのと同じくらい、崇拝や美化の対象になりやすい。エキゾチック、とか、オリエンタル、とかいう言葉のもつクールさは、理解できない文化的コードから発している」とも。

そうすると欧米人から見たこの街並は日本人から見たそれともまた違うものなのだろう。

伊藤計劃はさらに同作で物語上の近未来の「プラハ」を説明するのに以下のように書いている。

「店という店に、街路という街路に、これでもかというくらいの情報が貼りつけられている。それら溢れかえった文字情報が、百塔の街であるプラハの景観に、香港のネオン群か、リドリー・スコットが創造したロサンゼルスのような混沌を付け加えてしまっていた。存在しないネオンによる、現実の風景への膨大な注釈の山。店の種別、営業時間、ミシュランの評価。代替現実(オルタナティヴ・リアリティ)は観光客むけの広告が幾重にも折り重なるカスバと化していた。」

観光という概念を取っ払えばそのまま『ブレードランナー』の街並を説明しているような文章だ。

「リドリー・スコットが創造したロサンゼルス」と直接的な表現を使った時点で、ここでのプラハがブレードランナーの街並みに似てると言った方が正確か。



というわけで要は、人は理解出来ない文字や文化に理解出来ないからこそ魅力を感じてしまうということだ。

誰の何が最初なのかは分からないが、そういった価値観を世界に大きく発信した前作『ブレードランナー』の功績はとてつもなく大きい。

それが意識的だったのか、単にヴィジュアルへの無意識的敬拝だったのかは分からないが。



今作では市街地以外の場所も多く登場するため世界の全容・雰囲気を捉えやすくなっている。

マヤ文明のピラミッドを思わせるタイレル社に比べ、今作では霧に覆われた禍々しく巨大なウォレス社が印象的だった。

そのトップ、ウォレス氏の部屋は水の中にある均整のとれた画一的空間で、幻想的というよりはむしろ抽象的といった方が当てはまる。

フランスの漫画家メビウスが描く『アンカル』の精神世界を想起させる空間だ。

ウォレス氏のイメージを構成する重要な役割を担う異空間的なその間では度々重要なやり取りがかわされた。



その他にも物語の始まりとなる農場に霧に覆われたデッカードの館、人工物が無尽蔵に広がるカリフォルニアの上空映像、ゴミ集積場の中にこつ然と現れる孤児院と美術デザインが洗練かつ徹底さており観る者を鷲掴みにする。

個人的には配管が張り巡らされた廃工場を思わせる孤児院のデザインがドンピシャ。

いずれにしろ退廃的雰囲気による終末感は拭えない。



『ブレードランナー2049』は後に続くであろう壮大な物語の始まりにすぎないのだと思う。

あまりにも美しく悲しいはじまりだ。

もう一回観に行きたいな。

書きたいことを好き勝手書きすぎてよく分からなくなってきたから今日はこれくらいにしておこうと思う。

今回は見終わった率直な感想と物語の本質的な部分について感じたことを書いた。

公式・非公式問わず外部からの情報に触れる前に、素直な感想を整理したかったのでとても抽象的な内容になっているかもしれない。

まだまだ書き足りないので思い立ったら順次書いて行くつもりだ。
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読書の秋です

2017年11月07日 | 
今年の梅雨は雨が少なく暑く、夏は雨ばかりで涼しく海水浴なんて雰囲気でもなかった。

秋は一瞬の晴れ間も空しく、もう既に背後には冬をしつらえている。

集中的な豪雨がどこかの地域に多大な被害を与え、季節外れの台風に戸惑う我ら。

何かで見た何者か定かでない評論家が「いずれ日本の四季はなくなり熱帯地域のように季節は雨期と乾期になってしまう」と言っていた。

そんな世迷い言が思いがけず真実味を帯びはじめた。

もしそうなれば自慢の四季も二季なんていう簡素な呼び名になるのだろうか。



とはいえ今日は秋らしく天高い爽やかな空を拝むことができた。

なんと気持ちの良いことか。

こんな晴れやかな日には窓を開けてほのかな風に当たりながら本でも読みたいもの。



引用するのも憚れるほど生かじりの知識だけれど読書の秋について少々、

中国・唐代の文人である韓愈は「符読書城南詩」の中で「燈火親しむべし」という一節を残している。

これには「秋の夜は灯火の下で読書をするのにふさわしい。」という意味があるそうだ。

この文を夏目漱石が小説『三四郎』で引用し、それから読書の秋が広まったのだとか。



ここにこの秋読んで面白かった本をいくつか紹介したい。

多少のネタバレはあるのでご注意を。

『満願』

米澤穂信 著
新潮文庫 2017年



帯はたくさん売るためのものだと分かっているが、前情報がなく急いでいるときは役に立つ。

「とにかく何でもいいから面白いやつを」と思い手にとったのが『満願』だった。

作家には失礼な話だが、何せ移動中の暇をつぶせさえすればいい。

帯には「磨かれた文体、完璧な技巧。至高のエンターテイメント!」という文とともに大きく「3冠!」と書かれていた。

何の3冠なのか分からないが、つまらないことはないだろう。

『満願』は全六編の短編で構成されており、いずれもサスペンスミステリーの要素が強い。

米澤穂信という作家を知らなかったので、一話目の『夜警』はとにかく衝撃的だった。

物語は一人の若い巡査・川藤浩志の死からはじまる。

主人公は野暮ったい語り口の中年巡査部長で、死んだ巡査の上司に当たる。

主人公が見た川藤の人物像と事件当日の出来事を丁寧に回想することで少しずつ明らかになっていく事件の全貌。

土壇場のどんでん返しとかトリックとかそういう大げさで単純な驚きではない。

むしろ淡々としていて地味でさえある。

それが全く予想だにしていなかった物語の本質に気づくとき、身の毛がよだつ。

人間の凡庸さと凡庸であるが故の恐ろしさに恐怖する。

文章の静けさとは裏腹に読了後の苛烈な余韻は長引いたように思う。

私はサスペンスやミステリーというものに対して何か大きな勘違いをしていたのかもしれない。

米澤穂信という人は誰も気づかなかった場所に風穴を開けたのだ。

はじめのたった一話でこの作家のファンになった。

そして全六編がそれと同じくらいあるいはそれ以上の熱量でもって迎えてくれるのだからたまらない。

「至高のエンターテイメント」という謳い文句はぴったりだ。

一番恐ろしいのは、非日常ではなく共感出来る部分があるということ。

物語の発端はいつだって誰もが抱くような感情であったりありふれた動機なのだ。

全話面白いけれど特に好きなのは『夜警』、『柘榴』、『万灯』の三話かな。



『儚い羊たちの祝宴』

米澤穂信 著
新潮文庫 2011年



前述の『満願』が面白かったので、同じ著者の作品を購入した。

『儚い羊たちの祝宴』は全五編の短編で作られていおり、『満願』同様一つひとつの物語が重厚かつ奇想で毎話ドキリとさせられる。

なんとなく米澤穂信の書き方を捉えたと思い読み進めたとしても全く違う結末に至り、自分の浅はかさに落胆しつつ作者の明敏な知性に驚嘆する。

一見独立した物語の集いに見える五話だが、謎めいた一つのキーワードによってある一点に導かれる。

面白いのは五話目の『儚い羊たちの祝宴』を読むか読まないかで全体の見え方が明確に変わるということ。

語り部の立場は様々だが、この作品は全て裕福な家やそれに関わる人が題材となっている。

そのため文章は常に上品で、登場人物の言葉使いも細部まで行き届いている。

知性的でありながら押し付けがましいわけでもなく、その洗練された文章に思わず感激してしまう。

本当面白い。

もうすぐ注文した米澤穂信の新しい本が届く。

楽しみだ。



『パラレルな世紀への跳躍』

太田光 著
ダイヤモンド社 2003年



「好きな芸人は?」と聞かれれば迷いなく「爆笑問題の太田光」と答える。

誰に言ったこともないけれど、子どもの頃からずっとそうだった。

どこがいいのかさっぱり分からないけれど、なぜか彼を見ると安心するのだ。

となりに田中裕二がいるのもなんかいい。

毎週2回あるラジオはほとんど聞いているし、NHKの探検バクモンも欠かさず見ている。

とかなんとか言いながら定評のある太田さんの文章は今まで読んだことがなかった。

ふと彼の文章を読んでみたいと思い買ったのが太田さんの最初のエッセイ集『パラレルな世紀への跳躍』だ。

2000年から2003年にかけて「TVブロス」誌に掲載されたコラムをテーマごとに再構成し単行本化したものらしい。

一話3ページほどの短いエッセイが62本も掲載されている。

率直な感想は読みやすくて笑えて面白くて考えさせられる。

様式や題材は様々でエッセイ、フィクション、ノンフィクション、

あるいはフィクションとノンフィクションの境目をうろうろしているような話とか、

政治・世相・少年時代・SF・妄想となんでもありの3ページだ。

とても正直なのに「赤裸裸」とかそういう斜に構えた表現は似合わない。

感覚的な言葉で申し訳ないが、どどーんと突き抜けている感じ。

初めて読んだ太田さんのフィクション『アマガエル』では表現の瑞々しさと美しさに圧倒され、

タイトルにもなっている『パラレルな世紀への跳躍』では14年前に書かれたとは思えない太田さんの先見性に触れた。

そうかと思えば大学時代の運動会について書かれた『運動会の思い出』で声が出るほど笑ったりと、

実に多才で最後まで飽きずに読むことができる。

トイレに置いておくと丁度いい感じの温度であり長さかもしれない。



今宵の月は満月を通り過ぎて少しだけ欠けている。

今日のような雲一つない明るい夜空でも、月の下に微かに光るオリオン座を見ることができた。

さてはて読書の秋、いくつか本を読んでみてはいかがでしょう。
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退廃的超未来

2017年11月03日 | 映画
企業のネットが星を被い

電子や光が駆け巡っても

国家や民族が消えてなくなるほど

情報化されていない近未来ー



黒の背景にこの白文字が浮かび上がると、未だに背筋がぞくっとする。

1995年に作られた押井守監督作品『Ghost In The Shell』の冒頭文だ。

テクノロジーの飛躍的な進化と非合理的な精神性が入り交じったハイテクでいて人間臭い世界は、

私の持つ「近未来」という曖昧なイメージを甚く現実的なものにした。



そう遠くない未来、例えば私が順当に年を重ね90歳まで生きれたとして、

待ち構える60年後の世界はやはり今とは全く違うものなのだろうか。

ごく一部では既に何らかのチップを人間の体内に埋め込んだり、

まだ実用化されていないにしろ空飛ぶ車が開発されたり、

世界で一番強い囲碁棋士がAIに大敗したりと、

この世界は私たちが想像する未来予想図に少しずつだが着実に近づいていっている。

スパイクジョーンズ監督映画『her』で主人公が恋をしてしまう人工知能型のOSサマンサは、

マイクロソフト中国が実際に提供する会話型のAIシャオアイスと似ている。

アメリカの起業家イーロン・マスクは本気で火星移住計画を企てており、

彼の話を聞いていると夢物語ではないのかもしれないなんて思ってしまう。



『ドラえもん』のように技術が発展しすぎた何でもありの未来、

映画『ガタカ』のような遺伝子までコントロールされる現実的な管理型社会、

『風の谷のナウシカ』のような一度すべてが焼き尽され再生の途にあるはじまったばかり、あるいは全てが終わる少し手前の未来、

『ターミネーター』のようにAIが暴走し人間の敵となる未来、

『アキラ』のように強力な力を地下に封じ込め恐れ崇めながら生きる未来、

作家乙一が『ひだまりの詩』で描いたような人間のいない未来。

想像しうるいくつもの未来像は私の好奇心を刺激する。

全部とまではいかないにしろ、どれかは実際におとずれるような気がしてならない。



私の知的好奇心を最も刺激するのは『Ghost In The Shell』や『イノセンス』で描かれる世界。

技術的発展による著しい情報化の一方には様々な価値観が入り交じった煩雑な町並みと退廃的なムードがある。



















以前音楽番組で有名な音楽プロデューサーが曲のタイトルの付け方をレクチャーしていた。

彼は矛盾する2つの言葉を取り入れると人の興味をひくことができると言っていた。

歌の話ではないけれど、私の好奇心はそういう組み合わせに弱いのかもしれない。

光と影、生と死、発展と荒廃、デジタルとアナログ、慈愛の念と暴力性、創造と破壊。

超未来的でありながら同時に退廃的である未来をそのまんま「退廃的超未来」と呼ぼう。



この退廃的超未来を形にしたハリウッド映画がある。

先日新作が公開となったリドリー・スコット監督作品『ブレードランナー』だ。

この映画の世界観は押井守版攻殻機動隊の世界に非常に似ている。

多民族多文化が入り交じった秩序ないサイバーパンクな町並みと、終始漂う暗く荒んだ空気感。

漢字の看板に煌びやかなネオンなど、種々雑多な都市の風景はアジアの大都会を彷彿とさせる。














新作『ブレードランナー2049』を観るために、前作を久々に見返した。

不思議なことに今まで何度も観た中で今回が一番胸を打たれた。

こんな映画はもう作れまい。

世界観が徹底されていて35年経った今観ても遜色がないどころか今の映画より現実味がある。

もちろんCGが使われている部分もあるけれど、街のセットは本物だ。
→CGはまったく使われていなかった。公式メイキングムービーで確認したので間違いない。
 CGと思われる場面は全て技術的な撮影によって作られている。

全てが映画のために人工的に作られたものであると考えると途方なく、ちょっとした場面も見逃せないほど。

いかにもハリウッド的な大味の映画ではなく、細部まできめ細やかなセンスに満ち満ちている。

たまらん。



心を持ちはじめたレプリカントたちの苦悩は、

『Ghost In The Shell』における人間でありながら全身義体の主人公草薙素子が抱くアイデンティティへの懐疑心と真逆だが重なる。

そうした思念の先にはどんな未来が待っているのだろうか。

レプリカントは用意された死を迎え、素子は体を捨て広大なネットの海へ消えた。



人間が人間性を失わない限り未来はあり続ける。

ハイテク化からこぼれ落ち置いてけぼりにされたヒューマニティが退廃的なムードをつくる。

止まらない技術的進化と変われない人間の溝がどんどん広がっていく。

それが面白い。

人間の人間による人間のための未来。



そろそろ『ブレードランナー2049』観に行こうかな。
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