歩くたんぽぽ

たんぽぽは根っこの太いたくましい花なんです。

ロジャーとラファとルーティーン

2017年01月31日 | 日記
スポーツ観戦において、個人競技で最も熱心に観るのがテニスだ。

何時間もの間たった二人の選手が注目され続ける競技というのはあまりない。

技術力ももちろんだが、終盤になるにつれて精神力の戦いになっていくような泥臭さ、

これで決まりだと思ったところからはじまる大逆転、

見終わるころには長い時間を共有した選手たちへの感情移入がより一層強くなっている。



今年の全豪オープン決勝は見物だった。

いずれも現役にしてレジェンドになりつつあるフェデラーとナダル。

面白くない訳がない。

こんな後世に語り継がれそうなマッチを前にしても、的外れな会話が飛び交う当ハウス。



「フェデラーの顔色が悪すぎる。真っ白だよ。」

「フェデラーは髭が濃いから、剃ると青白くなるんだよ。よく見たらおでこは血色いいでしょ。」

「お〜そういわれればそんな気がしてきた。」

「ナダルは応援したくなる人で、フェデラーは負けてほしくない人。」

「フェデラーのユニフォームカッコいいね。センスが抜群。」

「フェデラーがセンス良く見えるのは、スタイルがいいからだ。」

「ナダルの顔ウサギに似てる。」

「フェデラーの目がくぼみ過ぎて、影で目が見えない。」

「ナダルの奥さんすごく奇麗。」

「フェデラーの奥さんの隣に座っているスキンヘッドの人、頭の形が奇麗。」



とにかく言いたい放題。

そんな中、その日抜群のくだらなさを発揮したのがKの言葉。

「ナダルは食い込まないパンツをはいた方がいいね。」



ラグビーの五郎丸選手のキック前のポージングが話題になり、

ルーティーンという言葉が注目されているが、

ナダルも厳格にルーティーンを守る選手として有名だ。



ナダルのルーティーンはサーブ前に行われる。

私の確認した所によると、

左手でラケットを持ちボールを弾ませている数秒間、

まず右手でパンツの食い込みをなおすところからはじまる(そう見えるが厳密には分からない)。

Kはこれのことを言っている。

それから左肩ちょん右肩ちょんとユニフォームをひっぱり、

鼻を上からなでて左耳にそってなぞり、鼻をなでて右も同じようにやってサーブに入る。

サーブの時顔の左側を歪ませるのも一連の流れに組み込まれているのだろう。

初めて見たときは、ナダルは敬虔なクリスチャンで、

毎回「アーメン」をジェスチャーで唱えているのだと思っていた。

いずれにしろ、厳密に何度も同じ動きを繰り返す姿は神経質に見える。

それが表彰式の笑顔を見て、イメージとは本当にいい加減なものだなと思った。

試合が終わると人のいいラファになるのだから。



今回優勝したのはフェデラー。

5セットからの流れの持っていき方は見事だった。

これまた彫りの深い彫刻のような顔が笑った瞬間、こっちの心までほぐれていく。

歴代1位の優勝経験を誇るフェデラーだけど、

優勝が決まったとき泣いていたのを見て、珍しくKがうるうるしていた。

怪我で半年も離脱して、今大会前まで世界ランク17位まで落ちていたわけだから、

今回の優勝は特別なものだったんだろうね。



3時間半を共有した二人に親しみを込めて、今日はロジャーとラファと呼ばせていただきます。

長かったけど、ドラマチックでとても面白い試合でした。

スポーツ選手にはいつも元気をもらいます。

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右向け左

2017年01月23日 | 空想日記
スッスッスッ、シャッシャッシャッ、スースッスッス。

電車の中に充満する不穏な空気。

皆首を垂れスマートフォンに従事している。

仕事をしているのかもしれないし、

ゲームをしているのかもしれないし、

SNSをしているのかもしれない。

なんであれ皆が一様に下を向いている姿は異様だ。



皆空いた時間を嫌がる。

何もすることがないと人はそわそわして落ち着かなくなる。

そんな時スマートフォンは救世主だ。

あんな小さな姿をしているのに、

あれ1つあればいろんなことができる。



誰が見ている訳でもないのに、

自分までもがその風景に同化するのは許せない。

誰かがこの風景に歯止めをかけなければ、

というまこと勝手な使命感に燃えているわけだ。

そういうこともあって移動時間が長いと分かっているときは、

必ず軽目の本を持っていくようにしている。



私は空間の在り方というのを気にしてしまう癖がある。

特に皆が同じことをしている空間が嫌いだ。

電車内もそうだし、知人とお茶を飲んでいるときなど、

片方がスマートフォンを触りだしたら意地でも自分は触らない。

端から見たら、本当にどうでも良さそうなことだ。

全体的なバランスを私一人の行動でどうにかできる訳でもなしに。



2016年爆発的に流行し社会現象となったポケモンGOは、

ゲーム自体は斬新で魅力的だろうし楽しむ分にはなんら問題ない。

しかし夜な夜な公園に集まる大勢の人々の姿を目の当たりにするとゾッとする。



限定された空間内で、ある一定の時間を過ごさなければならない移動時間、

暇を嫌う人たちにとってこれほど苦痛な時間があろうか。

今のところはスマートフォンを触っている人が多いが、

近い将来、紙媒体への関心が高まり皆本や新聞へ回帰したらどうだろう。

電車の中で皆熱心に本を読んでいたらそれはそれで異様だな。

その時私はどうすればいいんだろう。



メールも電話もゲームも本もパソコンもスマートフォン一つに集約されたわけで、

皆下を向いて同じ姿勢を保っていても違うことをしていたりする。

何をするかよりも、何かをするための媒体が少なくなりすぎたのだ。

ただただ風景が寂しい。

しかし、それも今にはじまったことではないのだろう。

その時代、時代に流行はあるし違う形でそういう現象があったに違いない。



私は今よりも昔に憧れを抱くけれど、

昔を懐かしんであの頃はいい時代だったと言うのは幻想だと思っている。

その連鎖は永遠に続くものだからね。

今は未来人にとっての古き良き時代になるのだ。

時間が過ぎるだけで時代に価値がついていく。

それもノスタルジアに取り憑かれた妄想が育むあたたかくも薄っぺらい価値。



右向け左、回れ左!

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思考の大河

2017年01月21日 | 空想日記
「思ったこと全部口に出さなくていいから。」とよく言われる。

「言いたいことの10分の1も言っていない」と答える。

忍ぶ美学というものが欠けているのか、単に自己主張が強いのか。

反対に「君の意見を聞かせてよ」なんて言われたら、

案外言いたいことがなかったりなんかして。

みんな何を思って言葉を口にするのだろうか。



頭の中を巡る数多の思考、

そのほとんどは表に出ることなく消えていく。

まるで大河の濁流のようだ。

どこから生まれてどこに消えていくのか。

あるいは存在したと感じる微かな気配自体錯覚だったのか。



言葉とか思考とか音とか想念とか、なんだかこんがらがりそうなので、

最初にそれらをどうやって使うか決めておこう。

その際に本来の意味と食い違う部分があっても決めた使い方を優先する。

ここで軸になるのは頭の中にあるものなのか、

話すなり書くなりして表に出したものなのかということ。

思考や想念は頭の中にあるもの。とても抽象的で存在自体が曖昧。

言葉や文章は表に出したもの。他者(自分自身も含む)への発信でありより物理的。



人は何を思って頭の中にある思考を言葉にするのかふと不思議になることがある。

どんなことなら言葉にし、どんなことなら口にしないのか。

多くの場合無意識的にこの選択が行われていて、そこに人間らしさを感じる。

その点私は言葉を口にする際意識的に選択しているという強い自覚があるが、

実際にはちゃんとできないことに気づき自分に対する妄想が打ち砕かれた時、

とても晴れ晴れした気持ちになる。私も捨てたもんじゃないななんてね。



もしかしたら、思考を取捨選択する濾過器のような物が頭の中にあり、

それによって濾過された思考が言葉になるのかもしれない。

濾過器といってもかなりいい加減な装置である可能性は高い。





人に伝えると言うのは本当に難しいことだとつくづく思う。

そもそも頭の中に流れる思考がまとまっていない。

例えば感情を表す言葉はたくさんあるが、

それ以外にもっと複雑な感情がお腹の当たりでごろごろしていたりする。

それでも共有出来るものが感情をあらわす代表的な言葉しかないから、それを使う。

あまり正確に伝えたら、それはそれで苦しくなりそうだけど。

正確に伝えようと考えた人たちが、いろいろな表現方法をもって小説とか書くのかな。

内に秘めるのがいいことか悪いことかは置いておいて、

周りを見ていると男性は内に秘める力を持っており、女性はその力が弱いような気がする。



いつ何時も人の頭を支配する思考、

膨大な想念は誰に気づかれるまでもなく生まれては消え生まれては消えていく。

その全てを拾い上げることなど到底できない。

去っていく思考にもう少し待ってくれと手を伸ばしたところで振り向いてもくれない。



さてはて、うまく発信された思考は置いておいて、

発信されなかった思考たちはいったい何者なのか。

思考の大河は自分だけのものなのか、それともこの宇宙と何処かで繋がっているのか。

思考の流れがあまりにも膨大で、自分だけのものとは思い難い。

例えば人々の思考を司る亜空間が実際にあり、

そこには思考の大河が脈々と流れているというのはどうだろう。

私は自分の脳を通して思考の大河の一部分に触れているにすぎず、

そこから救い上げたいくつかを自分のものにしていくのだ。

そう思えば自分自身の考えにそこまで囚われることもなくなるかもしれない。

そして誰に気づかれることもなく消え去っていく思考の孤独な旅も、

そんなに寂しいものではなくなるだろう。


思考の大河のイメージ図。天の川みたいな感じ。



坂口安吾の『文字と速力と文学』という短い随筆がある。

この文章が本当に好きでもう何回も読んでいる。

その一部をここに紹介したい。

何が面白いかって坂口安吾の選んだ言葉と、想念への執着、書く速力に着目している点、

そしてランニング姿の彼が情けない顔で机に向かっている姿が想像出来るから。

思考は瑞々しいままでで取り出さなければすぐに生気を失う、

まるで生ものを扱うように言葉を大切にしているのが伝わってくる。




『文字と速力と文学』(坂口安吾)より

私の想念は電光の如く流れ走つてゐるのに、私の書く文字はたど/\しく遅い。
私が一字づゝ文字に突当つてゐるうちに、想念は停滞し、戸惑ひし、とみに生気を失つて、ある時は消え去うせたりする。
また、文字のために限定されて、その逞しい流動力を喪失したり、全然別な方向へ動いたりする。
かうして、私は想念の中で多彩な言葉や文章をもつてゐたにも拘らず、紙上ではその十分の一の幅しかない言葉や文章や、
もどかしいほど意味のかけ離れた文章を持つことになる。



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『STAR WARS ローグ・ワン』は観た方がいい

2017年01月10日 | 映画
昨年2015年の暮れに待望の『STAR WARSエピソード7』が公開された。

アナキン・スカイウォーカーが暗黒面に堕ちていく姿を描いた『エピソード3』から10年、

ルーカスフィルムがウォルトディズニーに買収されたり、

いろいろありながらもファンはその日を待ちに待っていた。

正直言うと私は期待すらしていなかったのだが、エピソード7の話を聞いたときは飛び上がった。

なんでこんなに好きなのか正直分からない。

両親が好きで子どもの頃から見ていたからかもしれない。



蓋を開ければ、主役のレイを演じた女の子がとても魅力的で、

ハン・ソロとチューバッカ、レイア姫が出てくるだけでも十分だった。

ディズニーの商業主義的な側面ももちろんあったかもしれないけど、

とても大事に作られたであろうことが伝わってきた。

世間の評価は結構厳しい部分もあったみたいだけどね。



それからたったの1年で『ローグ・ワン』が公開された。

やはりメインストリームでないからか、メディアも『エピソード7』ほど盛り上がっていないように思えた。

『ローグ・ワン』という言葉に対しても馴染みがなくピンとこない。

ファン心というのも複雑で、たった1年で新作が発表されるとなるとディズニーに対しての懐疑心が大きくなる。

金のために『STAR WARS』をかき乱すな〜、大量生産するな〜てな具合に。

そういう訳で映画館に観に行くなんて発想は皆無だった。



しかし、同居人Kが執拗に誘ってくる。

Kは『STAR WARS』旧シリーズの根強いファンで知識も断然私より豊富だ。

あまりにもしつこいので、結局観に行くことになった。

観るとなればそりゃあIMAXの3Dで。



正直なところ『エピソード3』と『エピソード4』の間の話ってことしか知らなかった。

それが途中ではっとする。

主人公たちのミッションを知った時、全てに納得する。

ああ、そうだったのか。

『エピソード4』のオープニングのあの一文にこんな壮大な物語が詰まっていたと思うと感慨深い。

そしてこの物語の一番の特徴はジェダイが出てこないことだ。

STAR WARSとういう舞台の上で、こんなにも多くの人がメインストーリーから外れて戦っていたことを知る。

誰かの物語ではなく、人々の物語。



映画2時間もあれば大抵少しくらい平和な時間が設けられているものだが、

この映画が凄いのは冒頭にはじまった緊張感が最後まで切れることなく続くこと。

我に帰る時間が全くない。

3Dで視界もかっちりガードされ、音響もIMAXの特別な環境というのもあるかもしれないけど、

物語自体がいつになくハードだという点は大きい。

何よりも、この映画を見ると『エピソード4』の理解が深まりより楽しめると思う。

家に帰ってからすぐに『エピソード4』を観たのは言うまでもない。



本当に期待を裏切られた。

面白いので是非観てみてください。

『STAR WARS ローグ・ワン』予告





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あけましておめでとうございます

2017年01月04日 | 日記
ここ一週間、晴れやかな空が続いている。

冬と言うにはあまりにあたたかく、昼は外でひなたぼっこだってできそうだ。

つい数日前までは2016年だったというのに、年の境をまたぐだけで遠い過去のような気がしてしまう。



2016年の暮れ、たまに手伝いに行く麻布十番の料理屋さんでひたすらおせち作りの手伝いをしていた。

店長と店員一人の小さな店だが、店長こだわりの料理はいつもお客さんに好評だ。

おせちは常連さん22件92人分。

さっさと終わるものだと思っていたら、なんとも時間のかかる作業で驚いた。

でも少しづつおせちが形になっていく経過は見ていて面白い。

余った分は皆で山分けし、元日に高級料理店のおせちを食べるという贅沢な正月を過ごすことができた。











昨日は神奈川県の寒川町にある寒川神社に初詣に行ってきた。

わざわざ遠くまで初詣に行くというのは個人的にはしっくりこないのだが、行く人がいいならそれでいい。

同居人Kが寒川神社が好きで、去年から初詣は寒川神社になった。

神社の門には人がごった返し、正月独特の活気がいい感じだ。










おみくじ100円に人々はどんな願いを乗せるのか、とにかく来たからにはおみくじ引かねばと手を伸ばす。

おみくじにあまり期待していないからか、ここ数年は引くたびに大吉だった。

しかし、いつも大吉だから今年も大吉でしょと少しばかりの欲を持つと、小吉とかいうぱっとしないものを引いてしまう。

子どもの頃は大吉じゃなければいっそのこと凶がいいなんて本気で思っていたけれど、今となっては凶じゃなくてよかったという弱腰。

交際の欄がなんだか的を得ていて笑えた。






さてはて、2017年どんな年になるでしょうか。

一年の始まりでございます。



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