歩くたんぽぽ

たんぽぽは根っこの太いたくましい花なんです。

こぼれ落ちる自分

2013年04月22日 | 日記
古代ギリシアの哲学者アリストテレスが言うように「人間は社会的動物である」。

少なからず集団の中で生きていかなければならず、そのための努力をする必要がある。
こう言う人もいるかもしれない、「みんな自分の人生を演じているのよ」。
日本人の中で苦笑いや愛想笑い、お世辞、また若者がよく言うKY(空気が読めない)という言葉が重複されるのは、それだけ集団に馴染むことが重要とされているからだろうか。

では演じる前の自分はいったいどこにいるのだろうか?
「本当の私はこうだけど、皆の前では違う私でいるの。だってその方が楽でしょ?」
そうかもしれない。
でも本当の自分はいつ現れるのか?

自分しか知らない自分、それはとても瞬間的なもので改めて「それが本当の自分か」と問われれば皆頭をかしげるだろう。
そもそも話の根底が思考に支配されすぎているのだ。

それでも「自分はこういう人間だ」という確固たる言葉が存在するだけでヒトは安心感を得られるものだ。
その典型的なタイプが私である。

社会学の中でヒトの消費行動について学ぶときに「準拠集団」という言葉が出てくる。
以下引用
ーーー
準拠集団とは,私たちが消費について考えたり実際に行動したりする時に,比
較対象となったり,よりどころになる人々のことである。
具体的には,
(1)会員集団(自分が現在所属している集団)、
(2)期待集団(自分が属したいと希望する集団)、
(3)拒否集団(自分が属したくない集団)の3つに分けられる.
        「なぜヒトは消費するのか~他者という視点」,松井剛、2003
ーーー
消費行動について学ぶことはとても面白い。
消費行動にはヒトの心理が色濃く反映されているからだ。
例えば(2)期待集団 について述べるのであれば、
流行に敏感な女の子からすれば最新の服を着ているモデルが、
野球少年からすればプロ野球チームが、
新入社員からすれば仕事も遊びもお洒落も一枚上手の先輩社員がそれぞれ典型的な期待集団だと思えばいい。

多くのヒトはこうありたいというイメージを持っているはずだ。
そして逆にこうはありたくないというイメージも持っているだろう。
その形作りによって消費行動が定まっていくというのが上記の論文の流れだったように思う。

そんなわけでヒトは知らず知らずのうちに自分のイメージづくりにいそしんでいるわけだ。
もちろん例外はあるだろうけど。
他者の目はいつも頑なにそばにあり続ける。

改めて私の話に戻るが、私は比較的いろんなことに対してこだわりが強い方である。
「こうあるべき自分」も明確だし、そのために自分はどうするべきかについても分かっているつもりだ。
そんな自分が本当の自分だと思ってきた。
そしてそれを長い間守り続けてきたように思う。

ところが最近なかなかうまい具合にそれが実行できなくなってきている。
情けないところや、ださい自分がどんどん露出していく。
感覚的には「あれ私ってこんなに格好わるかったっけ?」と言った感じ。

でも不思議とそんな感じが居心地よかったりするのだ。
大げさに言うと以前の拒否集団に平気で所属している感じ。

そしてなんといっても自分という人間が全然分からないということに気づいた。
前から気づいていたのかもしれない。
でもそんな事実は見て見ぬ振り。

どんどんこぼれ落ちていくかっこいいはずの自分、しっかりしているはずの自分、個性的な自分、、、

穴が開いたポケットから知らず知らずのうちにこぼれ落ちる自分。
「自分」ってモノは、いつの間にか持ちきれないほど大きく膨らんでしまうものだ。
落ちてしまった自分はそのまま放っておいて、とりあえず前に進もう。

それくらいでちょうどいいのだ。
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掃除夫の続き

2013年04月04日 | 日記
昨日書いた掃除夫のお話なんだけれども、小学校の先生かなんかが教えてくれた話かと思っていたら、
ミヒャエル・エンデの『モモ』に出てくる道路掃除夫ベッポのことだったようだ。

大まかになんとなく覚えていただけで、ほとんどがでたらめだったので改めて彼の言葉を抜粋したい。



「なあ、モモ」と、ベッポはたとえばこんなふうにはじめます。

「とっても長い道路をうけもつことがあるんだ。おそろしくて、これじゃとてもやりきれない。
こう思ってしまう。」

「そこで、せかせかと働きだす。どんどんスピードを上げていく。ときどき目をあげて見るんだが、
いつ見てものこりの道路はちーともへっていない。だからもっとすごいいきおいで働きまくる。
心配でたまらないんだ。そしてしまいには息がきれて動けなくなってしまう。道路はまだ残って
いるのにな。こういうやり方はいかんのだ。」

「一度に道路ぜんぶのことを考えてはいかん。わかるかな?つぎの一歩のことだけ、つぎの
ひと呼吸のことだけ、つぎのひと掃きのことだけを考えるんだ。いつもただつぎのことだけをな。」

「するとたのしくなってくる。これがだいじなんだ。たのしければ仕事がうまくはかどる。こういう
ふうにやらなきゃあだめなんだ。」

「ひょっと気がついた時には、一歩一歩すすんできた道路がぜんぶおわっとる。どうやって
やりとげたかはじぶんでもわからんし、息もきれてない。」

「これがだいじなんだ。」



『モモ』はほんの子どもだったときに読んだ本だけど、今でも私の中にちゃんとあるんだな。
不必要な脚色と必要な部分の抜け落ちに関してはご勘弁。
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夜な夜なある掃除夫のお話

2013年04月04日 | 日記
なんだか寝れないので一つお話を書こうと思う。

子どもの頃に聞いた話で、
どういう経緯で誰から聞いたのかとか、
その話の周辺のことは全く覚えていない。
でも未だに時々頭をよぎるのだ。

厳密にはピンポイントでしか覚えていないから、大部分が私の創作であることは間違いない。




ある掃除夫はとても真面目で、いつも掃除をしていました。
いろんな人から、いろんな場所の掃除を頼まれます。

ある日、掃除夫は「道」の掃除を任されます。
その道はもう終わりが見えないほど長い道でした。
誰もがあんな長い道掃除できっこないとあきらめていました。
しかし、掃除夫は文句一つ言わず黙々と掃除を始めたのです。

それが何日か続き、何ヶ月か続き、そしていつの間にか何年も経っていました。
はじめは掃除夫を馬鹿にしていた人たちも少しずつ応援するようになりました。

そして本当に長い年月が経ち、ついに長い道の掃除が終わったのです。
誰かが掃除夫に尋ねました。
「なんでそんなに長い道を最後まであきらめずに掃除できたんだい?」
掃除夫は答えます。
「僕が掃除するときはほとんど目の先しか見ていないんだ。欲張らずに少しずつ前に進んでいくんだよ。
最初からゴールなんか見ていたら終わる気がしないだろう。だってはなからゴールは見えないところにあるんだから。」
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Wise up

2013年04月03日 | 日記
雨上がりの夕焼けは見たこともない色をしていた。

灰色の雲に夕日が映り表面だけが紫になって、雲の凹凸を出来るかぎり立体的に見せている。
空は淡い水色から黄色に、黄色から桃色に、それまた平面の淡いグラデーションをつくっている。
雲だけがやけに具体性を帯び、空は静止してしまった時の様に冷たかった。

それは単純に私との距離の違いにあるのかもしれない。
近ければ近いほどリアリティを感じるものだ。
あるいは空が奇麗すぎたのかもしれない。

どっちにしろ私というフィルターを通して見る以上、この世界は私のものだ。
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天の邪鬼な休日(いつもだけど)

2013年04月02日 | 日記
何かを書きたいのだけど、何を書きたいのかさっぱり分からない。
その気持ちを正直に書いてみるのも悪くないなと思って今この文を書いている。
きっとちぐはぐな文章になると思う。

今日は休みなのになぜか7時に目が覚めた。
朝から止みそうもない雨が降っている。
雨は基本的にあまり好きではないけれど、たまに雨に包まれたくてしょうがない日がある。
それが今日だ。
お粗末な縁側に出てぼーっと雨を眺めていると、自分が何かから解放されたような気分になる。
何から?それは分からない。
雨音は不規則に強くなったり弱くなったり、また煩わしかったり心地よかったり。
雨音はそれ以外のすべての音を消し去り、私に静寂を与えてくれる。

「静寂」、なんて難しい言葉だろう。
正確な意味なんてあるのだろうか。
言葉はいつも跡付けだ。
言葉はヒトが感じる気持ちや雰囲気を皆で共有するために、あるいは自分を理解する上で必要なのだろう。
しかしそれはあくまで大きな枠組みに過ぎない。
またしかしそれ以上に意味を細分化し、より明確にする必要もないのだろう。

村上春樹の短編で『タイランド』という話がある。
過去に傷を持った女性がタイ人の運転手にその話を打ち明けようとするのだが、
タイ人運転手はそれを遮りこう言う。
「あなたのお気持ちは分かりますがいったん言葉にしてしまうとそれは嘘になります。」
そしてこう付け加える。
「言葉をお捨てなさい。言葉は石になります。」

私こそが言葉に縛られている張本人か、少し笑える。

村上春樹が好きなんてなかなか言えない。
なにせ頑固な天の邪鬼なもので。

彼の紡ぐ物語は私をゴールのない迷路に誘い込む。
その登場人物は村上春樹であり、また私自身でもある。
彼は分からないことをはっきりさせようとしない。
何も分からないまま物語は終わる、あるいは続いていく。
その結局なんにも分からない感じが私を安心させてくれる。
とても感覚的な話だ。

天の邪鬼のせめてもの抵抗でまだ「1Q84」は読んでいない。
本当にどうでもいいことだ、少しだけ笑える。

やはりまだ雨は降っていて、私は雨がしたたる音に耳をすます。
本当にどうでもいいことだ。
雨音がひと時でも私を何かから解放してくれたのだとしたら、それはきっと天の邪鬼な私からだろう。
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