古代ギリシアの哲学者アリストテレスが言うように「人間は社会的動物である」。
少なからず集団の中で生きていかなければならず、そのための努力をする必要がある。
こう言う人もいるかもしれない、「みんな自分の人生を演じているのよ」。
日本人の中で苦笑いや愛想笑い、お世辞、また若者がよく言うKY(空気が読めない)という言葉が重複されるのは、それだけ集団に馴染むことが重要とされているからだろうか。
では演じる前の自分はいったいどこにいるのだろうか?
「本当の私はこうだけど、皆の前では違う私でいるの。だってその方が楽でしょ?」
そうかもしれない。
でも本当の自分はいつ現れるのか?
自分しか知らない自分、それはとても瞬間的なもので改めて「それが本当の自分か」と問われれば皆頭をかしげるだろう。
そもそも話の根底が思考に支配されすぎているのだ。
それでも「自分はこういう人間だ」という確固たる言葉が存在するだけでヒトは安心感を得られるものだ。
その典型的なタイプが私である。
社会学の中でヒトの消費行動について学ぶときに「準拠集団」という言葉が出てくる。
以下引用
ーーー
準拠集団とは,私たちが消費について考えたり実際に行動したりする時に,比
較対象となったり,よりどころになる人々のことである。
具体的には,
(1)会員集団(自分が現在所属している集団)、
(2)期待集団(自分が属したいと希望する集団)、
(3)拒否集団(自分が属したくない集団)の3つに分けられる.
「なぜヒトは消費するのか~他者という視点」,松井剛、2003
ーーー
消費行動について学ぶことはとても面白い。
消費行動にはヒトの心理が色濃く反映されているからだ。
例えば(2)期待集団 について述べるのであれば、
流行に敏感な女の子からすれば最新の服を着ているモデルが、
野球少年からすればプロ野球チームが、
新入社員からすれば仕事も遊びもお洒落も一枚上手の先輩社員がそれぞれ典型的な期待集団だと思えばいい。
多くのヒトはこうありたいというイメージを持っているはずだ。
そして逆にこうはありたくないというイメージも持っているだろう。
その形作りによって消費行動が定まっていくというのが上記の論文の流れだったように思う。
そんなわけでヒトは知らず知らずのうちに自分のイメージづくりにいそしんでいるわけだ。
もちろん例外はあるだろうけど。
他者の目はいつも頑なにそばにあり続ける。
改めて私の話に戻るが、私は比較的いろんなことに対してこだわりが強い方である。
「こうあるべき自分」も明確だし、そのために自分はどうするべきかについても分かっているつもりだ。
そんな自分が本当の自分だと思ってきた。
そしてそれを長い間守り続けてきたように思う。
ところが最近なかなかうまい具合にそれが実行できなくなってきている。
情けないところや、ださい自分がどんどん露出していく。
感覚的には「あれ私ってこんなに格好わるかったっけ?」と言った感じ。
でも不思議とそんな感じが居心地よかったりするのだ。
大げさに言うと以前の拒否集団に平気で所属している感じ。
そしてなんといっても自分という人間が全然分からないということに気づいた。
前から気づいていたのかもしれない。
でもそんな事実は見て見ぬ振り。
どんどんこぼれ落ちていくかっこいいはずの自分、しっかりしているはずの自分、個性的な自分、、、
穴が開いたポケットから知らず知らずのうちにこぼれ落ちる自分。
「自分」ってモノは、いつの間にか持ちきれないほど大きく膨らんでしまうものだ。
落ちてしまった自分はそのまま放っておいて、とりあえず前に進もう。
それくらいでちょうどいいのだ。
少なからず集団の中で生きていかなければならず、そのための努力をする必要がある。
こう言う人もいるかもしれない、「みんな自分の人生を演じているのよ」。
日本人の中で苦笑いや愛想笑い、お世辞、また若者がよく言うKY(空気が読めない)という言葉が重複されるのは、それだけ集団に馴染むことが重要とされているからだろうか。
では演じる前の自分はいったいどこにいるのだろうか?
「本当の私はこうだけど、皆の前では違う私でいるの。だってその方が楽でしょ?」
そうかもしれない。
でも本当の自分はいつ現れるのか?
自分しか知らない自分、それはとても瞬間的なもので改めて「それが本当の自分か」と問われれば皆頭をかしげるだろう。
そもそも話の根底が思考に支配されすぎているのだ。
それでも「自分はこういう人間だ」という確固たる言葉が存在するだけでヒトは安心感を得られるものだ。
その典型的なタイプが私である。
社会学の中でヒトの消費行動について学ぶときに「準拠集団」という言葉が出てくる。
以下引用
ーーー
準拠集団とは,私たちが消費について考えたり実際に行動したりする時に,比
較対象となったり,よりどころになる人々のことである。
具体的には,
(1)会員集団(自分が現在所属している集団)、
(2)期待集団(自分が属したいと希望する集団)、
(3)拒否集団(自分が属したくない集団)の3つに分けられる.
「なぜヒトは消費するのか~他者という視点」,松井剛、2003
ーーー
消費行動について学ぶことはとても面白い。
消費行動にはヒトの心理が色濃く反映されているからだ。
例えば(2)期待集団 について述べるのであれば、
流行に敏感な女の子からすれば最新の服を着ているモデルが、
野球少年からすればプロ野球チームが、
新入社員からすれば仕事も遊びもお洒落も一枚上手の先輩社員がそれぞれ典型的な期待集団だと思えばいい。
多くのヒトはこうありたいというイメージを持っているはずだ。
そして逆にこうはありたくないというイメージも持っているだろう。
その形作りによって消費行動が定まっていくというのが上記の論文の流れだったように思う。
そんなわけでヒトは知らず知らずのうちに自分のイメージづくりにいそしんでいるわけだ。
もちろん例外はあるだろうけど。
他者の目はいつも頑なにそばにあり続ける。
改めて私の話に戻るが、私は比較的いろんなことに対してこだわりが強い方である。
「こうあるべき自分」も明確だし、そのために自分はどうするべきかについても分かっているつもりだ。
そんな自分が本当の自分だと思ってきた。
そしてそれを長い間守り続けてきたように思う。
ところが最近なかなかうまい具合にそれが実行できなくなってきている。
情けないところや、ださい自分がどんどん露出していく。
感覚的には「あれ私ってこんなに格好わるかったっけ?」と言った感じ。
でも不思議とそんな感じが居心地よかったりするのだ。
大げさに言うと以前の拒否集団に平気で所属している感じ。
そしてなんといっても自分という人間が全然分からないということに気づいた。
前から気づいていたのかもしれない。
でもそんな事実は見て見ぬ振り。
どんどんこぼれ落ちていくかっこいいはずの自分、しっかりしているはずの自分、個性的な自分、、、
穴が開いたポケットから知らず知らずのうちにこぼれ落ちる自分。
「自分」ってモノは、いつの間にか持ちきれないほど大きく膨らんでしまうものだ。
落ちてしまった自分はそのまま放っておいて、とりあえず前に進もう。
それくらいでちょうどいいのだ。