歩くたんぽぽ

たんぽぽは根っこの太いたくましい花なんです。

落書き散歩

2011年08月31日 | 日記
ある日、街を歩いていた。

すると誰かがいった。
「この街には、怪物が住んでいるからはやく帰りなさい。」

僕はいった。
「どんな怪物?」

誰かは少し困った顔をして、
「見たことがないから、分からない。」
と答えた。

もう少し進むと、道端に黒くて小さな球体が落ちていた。
僕はそれを拾ってみた。
その球体を手に取ると、懐かしいような、でも少し怖いような気分になった。

今度は違う誰かにきいた。
「この黒いのは何?」

すると違う誰かはいった。
「それは…怪物だよ!さわってはいけない。」

でも僕は捨てることができなくてポケットにしまった。

今度は、道端で子どもに風船をくばってるピエロにきいてみた。
「この黒いのって本当にカイブツなの?」

ピエロはいった。
「何をいってるんだい。それは宝物じゃないか。」


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絵と出会うということ

2011年08月24日 | 日記
それは初めての体験だった。
その瞬間、体中に電撃が走った。
懐かしいような、それでいて私を突き放すほどの存在感。


今日は休み。
話題の企画展「ワシントン・ナショナル・ギャラリー展 印象派・ポスト印象派 奇跡のコレクション」を見るために、相方と二人国立新美術館へ行ってきた。



一人1500円のチケット。



空が最高に綺麗だった。




国立新美術館は「シュルレアリスム展」以来。


展示会場は4つに区分されており、
入り口から「1印象派登場まで」、
「2印象派」、
「3紙の上の印象派」、
「4ポスト印象派以降」と年代に沿って作品を鑑賞することが出来る。

「3紙の上の印象派」の区画が終る頃には、
エドゥアール・マネ、
カミーユ・ピサロ、
エドガー・ドガ、
クロード・モネ、
そしてピエール=オーギュスト・ルノワールなど、
印象派として語られる彼らの絵画を堪能できる。

人の流れに乗って一つ一つ鑑賞していく。
なんといっても、大勢の客が訪れているので自分のペースで見るというような感じにはうまく持っていけない。
でも、いろんな人がいっぺんにそこにいる状況は結構面白かった。
絵を専門的な言葉で語る少女。
少女ばかり描くカサットをロリコンだと主張するレズビアン。
工事現場の作業服を着たおじさん。
知的な老夫婦。
秋葉原から迷い込んできたかのような青年。

そんな中、有名な絵画を目の前にして、私が抱く感情は「これ見たことある」というミーハーな喜び。
解説を読んではちょっと分かった気でいる。


そしてそのまま一定のテンションを保ち、「4ポスト印象派以降」の区画へ進んだ。
その瞬間、違う世界に足を踏み入れたような感覚に陥る。
ポール・セザンヌの2つの絵。
解説に目は向かなかった。
釘付けとはまさにこのことである。

明瞭な色の境界線。
太く力強い輪郭。
自分でも何がどういいのか説明できない。
ただその感覚を例えるなら、きっと恋に落ちるのと似ている。
この絵は、私のストライクゾーンにはまったのである。
見ているだけで、喉が熱くなる。
その絵を前にした瞬間、時間が止まったように周りの雑音が消え、絵との純粋な空間が出来あがる。

この会場を出てしまったらもう見ることはかなわない。
それを思うと、名残惜しくて何度も何度も見返した。
もはや片時も離れたくなかった。

その後見た絵は正直あまり覚えていない。
ゴーギャンやゴッホ、スーラの絵が並んでいたというのに。



(左)「赤いチョッキの少年」1866、油彩/カンヴァス、116.3×98.4cm
(右)「『レヴェヌマン』を読む画家の父」1866、油彩/カンヴァス、198.5×119.3cm、ポール・セザンヌ












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まとまらないニヒリズム

2011年08月19日 | 日記
『パトレイバー2』(1993)を知っているだろうか。
その中で語られる「戦争」。
自分の立っている場所さえも、危うくなるような議論。





監督は押井守。
ロボット映画ではない。

特車二課第2小隊後藤隊長と自衛官荒川の印象的な会話がある。

荒川「後藤さん、警察官として、自衛官として、俺たちが守ろうとしているものっていったいなんなんだろうな。前の戦争から半世紀、俺もあんたも生まれてこのかた戦争なんてものは経験せずに生きてきた。平和、俺たちが守るべき平和、だがこの国の、この街の平和とはいったい何だ?かつての総力戦とその敗北、米軍の占領政策、ついこの間まで続いていた核抑止による冷戦とその代理戦争、そして今も世界の大半で繰り返えされている内線、民族衝突、武力紛争、そういった無数の戦争によって構成され支えられてきた血まみれの経済繁栄、それが俺たちの平和の中身だ。戦争への恐怖に基づくなりふりかまわぬ平和、正当な対価をよその国の戦争で支払いそのことから目をそらし続ける正義の平和。」

後藤「そんなきな臭い平和でも、それを守るのが俺たちの仕事さ。正義の平和だろうと、正義の戦争よりよほどマシだ。」

荒川「あんたが正義の戦争を嫌うのはよくわかるよ。かつてそれを口にした連中にろくな奴はいなかったし、その口車にのってひどい目にあった人間のリストで歴史の図書館はいっぱいだからな。だが、あんたは知っているはずだ。正義の戦争と正義の平和の差は、そう明瞭なものじゃない。平和という言葉が嘘つき達の正義になってから、俺たちは俺たちの正義を信じれずにいるんだ。戦争が平和を生むように、平和もまた戦争を生む。単に戦争でないというだけの消極的で空疎な平和はいずれ実体としての戦争によって埋め合わされる。そう思ったことはないか?その成果だけはしっかり受け取っていながらモニターの向こうに戦争を仕込む。ここが戦線の単なる後方にすぎないことを忘れ…いや忘れたフリをし続ける。そんな欺瞞を続けていれば、いずれは大きな罰が下されると。」

後藤「罰?誰が下すんだ?神様か?」

荒川「この街では誰もが神様みたいなものさ。いながらにしてその目で見、その手で触れることのできぬあらゆる現実を知り、何一つしない神様だ。神様がやらなきゃ人がやる。いずれ分かるさ。」


現在のアメリカの最新兵器を見て、驚く。
まるでSFのようだ。
今もアフガニスタンの上空にはアメリカの爆撃機が7千機も飛んでいる。
しかもその爆撃機は無人。
操縦は遥か離れたアメリカの基地で行われている。
操縦士はサラリーマンのように自宅から戦場に出勤し、時にそこから襲撃を行う。
今も戦争は続いている。

それを一人の私が実感することができるのか。
それはリアルなのか?


荒川の言葉はいつの時代も見ている。
1993年から18年経った今も、響く。
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まとまらないニヒリズム

2011年08月19日 | 日記
『スクラップ・ヘブン』(2005)を知っているだろうか?
このぶっ飛んだ日本映画の中で繰り返される「想像力が足らねぇ。」という言葉。
今の日本にぴったり当てはまるようだ。





害虫や菌から過剰に守られた社会。
痛みや苦しみを過剰に嫌う社会。

ヒトだけが住む一元的な社会。

想像力によって創られた街に、想像力の足りないヒトが住むパラレルワールド。
折り重なった抽象の先にある、現実という名の非現実。

真理とはなんだろうか?
価値とはなんだろうか?

もっと想像力があれば、もっとマシになっていたのだろうか?
痛みをもっと知っていればこんなことにはならなかったのだろうか?

何も出来ない自分がいる。
無力な自分がいる。


さて、今日は休み。
雨なので何かを考えてみようという気分であった。
依然原発事故の終息が見えぬまま、その事実が人々の頭から少しずつフェードアウトしているような気がしてならない。

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子ぐまのお好み焼き

2011年08月19日 | 日記
田園都市線たまプラーザ駅から徒歩3分、ログハウス風のお好み焼き屋「子ぐま」。





人気がある上、店内はあまり広くないので、予約しないとなかなか入れないんだとか。
店の中に入ると、やはりなかなかのにぎわい。
7つしかないテーブル席は外国人観光客や大学生、家族連れでいっぱい。

相方の事前リサーチで頼むメニューは決まっていた。
長いもふわお好み焼き(確か)とチャンポン焼きそば。





お好み焼きも焼きそばも店員さんが厨房でつくってくれて、鉄板に出してくれる。
もちろんおいしかったんだけど、特にガヤガヤしたお好み焼き屋独特の雰囲気がよかった。
店員さんもおばちゃんだからホッとできる。

また行こ。
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