歩くたんぽぽ

たんぽぽは根っこの太いたくましい花なんです。

羅生門

2021年01月30日 | 映画
芥川龍之介はまず顔が好きで学生の頃よく読んだ。

国語の教科書に載っていた坊主頭に学生服の写真が特によかった。

読書家ではなかったけれど、文章が美しいと感じる土壌はあったらしい。

安易にも日本人で良かったなどと思ったものだ。

特に『鼻』が好きだったけれど、なぜ好きだったのかは思い出せない。

とにかく鼻の長い男の話だ。

『羅生門』は一番怖かった記憶がある。

たまに髪のまばらなやせ細った老婆を断片的に思い出したりする。



とある昼食時、

無性に90年代から00年代の若者映画を観たくなり、

Netflixやアマゾンプライムを漁っていたのだが適当なのが見当たらず、

なぜか黒澤明の『羅生門』でも観てみるかということになったのだ。

この「なぜか」の部分はミステリーなのだが深入りはやめておく。

前もなぜか横溝正史の『獄門島』を観ていたことがあったし、

厳つい和風の三文字に惹かれる習性でもあるのかもしれない。



映画『羅生門』は異様に面白かった。

でも髪の抜けた老婆は出てこなかった。

小説『羅生門』からこんなインズピレーションを受けたのかと驚いていたら、

原作に芥川龍之介『藪の中』とあったので納得。



世界の黒澤とか言われているけれど相対的な評価はよくわからない。

生きている時代も観てきた映画も違うわけでリアルタイムで観るのとは話が違う。

でも今改めて観ることで、現代とは違う映画が持つ空気や芸術性が衝撃的だった。

未だ観ていない人にはとてもおすすめ。





『羅生門』

監督:黒澤明
脚本:黒澤明、橋本忍
製作:箕浦甚吾
出演者:三船敏郎・森雅之、京マチ子、志村喬、千秋実
音楽:早坂文雄
撮影:宮川一夫



今回ばかりは運が悪かった。

つい去年の暮れまで国立映画アーカイブ主催の、

「公開70周年記念『羅生門』展」がやっていたらしい。

悔しいな〜。

「なぜこの映画が特別なのか」の理由を知りたかった。

せいぜい50年前くらいの映画だと思っていたから、1950年の映画と知って驚いた。

戦後だよ、下手したら歴史だよ。



Netflixで観たのだけど映像が綺麗でこれまた驚いた。

なんでもいろいろなところが協力して2008年に復元したのだとか。

俳優の表情がはっきり観て取れるのがありがたい。

70年前の俳優の迫力に圧倒される。



白黒映画はあまり見ないけれど、いいね。

もう少しわかりにくくなるのかと思っていたけれど、

カラー映画とは違う映像美とでもいうのか、美しい。

陰影で浮かび上がる巨大な羅生門のセットがまたいい。

黒々と鬱々とした門は最後まで異様な存在感を放っている。

作ったんだろうね、あっぱれ。



70年前の映画を表すのにアレだけど、モダンな映画だった。

芸術性が高いというのかな。

場面は羅生門、裁判らしき場、藪の中の攻防の3つしかない。

当事者たちが見たものを横に羅列していくだけと言えばただそれだけ。

同じような場面ばかりなのだ。

藪の中で多襄丸と真砂と金沢武弘があれこれ動き回っている。

しかしその中で繰り広げられる攻防が微妙に違うから面白い。



大岡越前みたいに役人の前で登場人物たちが自分の見たものを告白していくのだけど、

手前にいるらしき役人の声も映像もなく俳優が一人で画面を占領している姿は舞台のようでもだった。

多襄丸も真砂も金沢武弘を降ろしたイタコらしき女も仰々しい演技なのに、ワザとらしくない。

むしろ嫌という程生々しい。

そま売り役の志村喬さんもよかったな、一回見たら忘れない顔。

登場人物6人ともすごい存在感だった。

時代的なものなのか、『羅生門』という映画がそうさせたのか、個人の力なのか。

わからないことばかりだ。



すごく面白かったというより、異様に面白かった、という方が正確だ。

なんでこんなに心に残るのかまだ整理しきれていない。

人間の業が刺さるのか。

不条理に惹きつけられるのか。

あれはなんだったんだ?

皆誰が殺したのかという犯罪性よりも、自分の名誉を主張しているところがなんだか尋常じゃない。

なぜそんなに話がもつれるのか不思議でならない。

それでも破綻していないのは、私が人間の不合理さをどこかで確信しているからなのか。

全ては羅生門で話を聞いていた男の言葉「人間のやるこたぁわけがわからね」に帰着する気がする。



多襄丸と金沢武弘が戦う場面が衝撃だった。

絡まり縺れ合い醜い。

刀を携えた戦いの場であれほど格好悪いシーンは見たことがない。

それがどうしようもなく「人間」で、心がザワザワした。

隠しようのない「人間」という現実。

『その男、凶暴につき』でたけしが拳銃の持ち方一つで世界に衝撃を与えたみたいに、

これでもかというくらいのリアル。

時代で言ったら逆か。

現実的であるっていうのは人を傷つける。

そういえば誰かが芸術とは人を傷つけるものだと言っていたな。



2021年の今見ても衝撃的な映画だ。

もしかしたら知らない世界への扉かもしれない。

子供の頃観たけど、また『七人の侍』観てみようかな。

今なら面白さがわかるかもしれない。
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悩ましき机上の一角

2021年01月24日 | 日記
夫婦共々自由業で子供もいないとなると、時間感覚が一般とずれることもある。

夫の場合、仕事が立て込むと特に曜日感覚が損なわれてしまうらしい。

私はといえばまさに生活リズムが壊滅的なのだ。

我ながら30を超えた大人の生活とは到底思えない。

作業に没頭してしまうと、いつの間にか空が白んでいるなんて日常茶飯事。

遅まきながら布団に入るが、その場合午前の荷物を受け取るのも一苦労だ。



そもそも体によくない。

人間たるもの朝起きて夜に寝るようにできている。

こればっかしは朝起きて夜に寝るのが紛うことなき正解なのだ。

一端に常識を胸に掲げ、同時にぬぐいきれない罪悪感を懐にしまいこんでいる。

社会と自分自身に対する言い訳がましい的外れな罪悪感ね。

奥へ奥へ押し込んでいたらいつか消えるかもなんて期待するだけ不毛。

年を重ねるごとに漬物石みたいにずっしりのしかかってくるのはわかっている。

話は簡単なのだよ。

朝起きて夜に寝ればいいだけ。



だからいつものごとくまた寝る時間と起きる時間を決めてしばらくやってみる訳だ。

しかしこれがうまくいかない。

肉体的な疲労が足りておらず、夜に眠くならないのだ。

サイクリング30分から1時間ではどうやら体は疲れないらしい。

こんな寒空でもじっとり汗をかくのでその気になっていたけれど、

決まった時間に寝るだけの権利はまだ与えてくれないらしい。

それを補完するために本を読む。

これが誠に優秀な睡眠導入剤となる訳だ。

もう本なしでは眠れる気がしない。

できれば面白くない本の方がいいけれど、

ここ最近はずっと京極夏彦の百鬼夜行シリーズを読んでいるので、

面白くて興奮するのか反対に眠れなくなる夜が多々。

して寝る時間と面白さとのせめぎ合いが始まるのだ。



ついにその時間が訪れると一旦は潔く本を閉じ電気を消し目を瞑る。

思考が激しく飛び交っている時は羊ならぬ佐野史郎を数えて頭の中を落ち着かせる。

そのイメージは詳細であるほど眠気を誘う。

柵をまたいでゆっくり奥の方に消えていく佐野史郎を手前の薄闇からじっと眺めている。

なぜ佐野史郎なのかと言うと、落ち着いているし個人的に眠気を誘う顔だから。

余談だけど以前友達にこの話をしたら友達が何の気なしに

「佐野史郎が柵を越えて来るのはどうのこうの」と言ったので、

佐野史郎が遠のいて行くのではなく近づいて来る絵を想像し驚愕したことがある。

それは必死に訂正しておいた。

ちなみにその友達は佐野史郎は怖いから目が覚めると言っていた。

彼にしてみればどこを切り取っても失礼な話だ。



忍耐力が足りないのか、

そういうことでもダメなら諦めて自然に眠れるまで再度読書に励む。

しかし今日はそれもダメだった。

京極夏彦の『塗仏の宴(ぬりぼとけのうたげ)』だが、やはり面白い。

面白くて読み進めてしまう。

しかしそれが面倒臭い。

眠れないのも、寝る時間に本が面白いのもなんだかどうしようもなく面倒臭い。

珍しい感情だ。

これまで面白さに身を委ねることになんの躊躇もなかったのに、

今日はなんだか面白いってことが面倒臭い。

つまらない本でも探そうかって思考を一旦ストップして、

眠ることに執着しすぎている自分にはっと気づく。

何かがおかしくない?

スケールが小さいというか、大事なものを見失っているというか。

そんな自分に呆れて思い切って布団から飛び出した。

すると呪縛から解放されてとてもすっきりした気分になった。

ヒャッホーイ!



その時点ではまだ本末転倒だってことに気づいていないのだ。

1時間後に本格的に眠たくなって改めて当初の目的を思い出す。

あれこれって最初に戻っただけじゃない?


悩ましき机上の一角
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極彩 | I G L (S)

2021年01月23日 | 音楽




祝祭が見たいんだ 極彩色の心で



コロナ禍で生まれた命の賛歌。

受け売りだけど、この歌は祝われなかった命がたくさんある世界で、君の物語を絶やすなと訴え続けている。
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レボリューショナリーロード

2021年01月14日 | 映画
すごい映画を観てしまった。

脱帽。

先日聞いていたYouTubeの配信動画でチラッと触れられていた映画だ。

映画評論家の町山智浩さんはアメリカの今抱える問題について踏まえ、

今必要なのは自分が悪くなくても謝れる姿勢だ、と言っていた。

相手が悲しんだり怒ったりした段階でそれは間違いなんだから、と。

トランプ支持者の多くは自分が悪くても謝れないらしい。

面白い考察だ。

そこでダースレイダーが出してきたのが『レボリューショナリーロード』の冒頭、

主人公のディカプリオが車の中で妻を理詰めしていく場面だ。

妻がいかに間違っているか知らしめるために高圧的に追い詰めていく。

その話を聞いてなぜだかピーンときた。

Netflixにあったので昨日昼食時に何気なくつけてみたらまさかのヘビー級人生映画だったという次第。

監督は『アメリカン・ビューティー』のサム・メンデス。

なーるほど。

個人的には近年観た映画でベスト10に入りうる名作だった。

ただ感情移入しすぎると、自分の大切にしている幻想をぶち壊されるかもしれない。

とってもおすすめだけど、責任は取らないよ。

では以下ネタバレあり。





『レボリューショナリーロード』

監督:サム・メンデス
脚本:ジャスティン・ヘイス
原作:リチャード・イェーツ『家族の終わりに(英語版)』
製作:ボビー・コーエン、ジョン・N・ハート、サム・メンデス、スコット・ルーディン
製作総指揮:ヘンリー・ファーネイン、マリオン・ローゼンバーグ、デヴィッド・M・トンプソン
出演者:レオナルド・ディカプリオ、ケイト・ウィンスレット
音楽:トーマス・ニューマン
公開年:2008(アメリカ)



解説
『タイタニック』で世紀の純愛を演じたレオナルド・ディカプリオとケイト・ウィンスレットが11年ぶりに競演。
『アメリカン・ビューティー』のアカデミー監督サム・メンデスが描く、苦渋に満ちたホームドラマ。

ストーリー
1950年代。
コネチカット州の閑静な住宅街“レボリューショナリー・ロード”に住むフランクとエイプリルは、
子供2人に恵まれた理想の夫婦と思われていた。
ところが実際の彼らは、かつての夢と現実とのギャップに不満を抱えていた。
そんなある日、パリへ移住して新しい生活を始めようとエイプリルが提案し、フランクも同意する。
出発の準備を進めていたところ、フランクに昇進話が持ちかけられ、エイプリルの妊娠も発覚する。

(映画専門チャンネル ザ・シネマより引用)



いやぁ面白かった。

ちょっとだけ覗いてみるつもりが、最後まで見てしまった。

パッケージデザインを見て素敵な恋愛映画だと思って観たら痛い目を見る。

あのタイタニックカップルを起用したのは監督の嫌がらせあるいはジョークなのかもしれない。

ライムスターの宇多丸さんは、

タイタニック的恋愛を素敵だと思っている人ほど打ちのめされるというようなことを言っていた。

またカップルでは観ないほうがいいとも。

これには大いに賛成。

これを現実的というかは別としても、夢にすがることが悪いことだとも思わない。



前述した町山智浩さんはこの映画を「シャイニングみたいな映画」と評していたし、

宇多丸さんのラジオ番組では公開当時リスナーから「ホラーのよう」と言われていた。

でも長年結婚生活を送っている女性からしたら印象はだいぶ違うのでは?と思った。

私にはひたすら眩しくて虚しくて悲しい映画だった。



この映画では1950年代中頃のアメリカという時代背景が重要だ。

同じような背広にハットを被った通勤者たちの大群が何度も印象的に描かれている。

大量生産される人の波、その顔はまるで無個性で無機質。

その中に主人公のフランク・ウィーラーもいる。

彼は、あの時代を象徴するようなビジネスマンなのだろう。

しているんだかいないんだかよくわからない仕事を済ませ可愛い子と浮気してまた電車に乗って帰ってくる。

妻エイプリルはレボリューショナリーロードにある家の中で日々家事に追われている。

50年代のアメリカは今のアメリカほど女性の社会進出は進んでおらず、

女優を目指していたエイプリルもまた妊娠を機に家庭に入ることになった。

家族がいて良い場所に住んで素敵な夫婦ともてはやされ順風満帆なのかと思いきや、

彼女は家という檻の中に閉じ込められ閉塞感の中で窒息しそうな日々を送っている。

その中で見つけた唯一の希望がパリに行くことだった。

「ここではないどこかへ」。

あの住宅街の名前がレボリューショナリーロードというのはなんとも皮肉な話だ。

パリ行きに湧くウィーラー夫妻の幸せそうな姿が描かれるほど結末が暗くなるのは予想できた。

エイプリルが輝けば輝くほど、観ている者の心に不安が募っていく。

なんたってタイトルが『レボリューショナリーロード』だからね。

後半、継ぎ接ぎだらけの張りぼてな幸せがじわじわ正体を現してくる。



それでもこの映画ががどこかロマンチックに見えるのは子供の存在が希薄だからではないだろうか。

家の中にはいつも子供がいない。

だからフランクの誕生日に初めて子供たちが登場した時は面食らった。

この人たち子供いたのね。

なんだか二人とも自分のことばかりなのだ。

強烈に男であり女なのだ。

今思えばそれが少し怖いといえば怖かったかもしれない。

でも必死に人生を取り戻そうとするエイプリルが狂っているだなんて思わない。

自分勝手で非現実的で幼稚だろうがパリ行きを実現させて仕舞えばよかったんだと私は思う。

どう転んでも無理だったから物語になるんだけどね。



私が怖いと思ったのは隣の家の奥さんだ。

ウィーラー夫妻にパリ行きを告げられた夜、自分の夫が夫妻に対し否定的な意見を言うと、

彼女は安心して涙まで流し夫に寄り添うのだが、そのシーンが一番ゾッとした。

他人をそれほど否定する必要があるのだろうか、

そうやって消極的に自分を守っているのだろうか、と。

それとも妻は自分の夫がエイプリルに羨望の眼差しを向けているのを知っていて、

だからこそ彼らの判断に否定的な夫に安心した、とか。

いや、そんな単純な感情が描かれているとは思えない。



最後の喧嘩のシーンはすごかったね。

こっちまで息が詰まってくる。

フランクのちゃんと話し合おうという姿勢は「正しい」ことなのだろう。

でもそれは一方的だと相手を苦しめ追い詰めるだけだ。

それに多分エイプリルからしたら話し合いはもう何の効力も持たない。

エイプリルの絶望は根っこが深い。

今更話し合ったところで解消されるわけもなく正しい夫に納得するしか道は残っていない。

パリ行きは最後の最後の砦だった。

パリ行きに夢を見すぎたしすがりすぎた。

それが御破算ともなれば均衡は保てなくなる。

フランクも気の毒ではある。

心を閉ざした妻を前に彼ができることが何かあったのだろうか。

フランクもまた追い詰められ絶対に言ってはいけない一言を言ってしまった。

あれが引き金だったのだろうと思う。

魅力的で凡庸でアンバランスな夫婦だった。

ディスコ?でエイプリルが隣の旦那に言った一言が印象的だった。

「私が夢見てた未来、まだ思い切れないの、前も後ろも行き止まり」



喧嘩の翌朝は打って変わって美しく静かな朝だった。

朝日の差し込む整然とした部屋の中が淡々と映されていく。

フランクが起きるとエイプリルが朝食を作っていた。

妻に「スクランブル?目玉焼き?」と聞かれて、

泣きそうな顔で「わからない、もし簡単ならスクランブル」と遠慮がちに答える様がもう気の毒でね。

やけに優しいエイプリルを見て、ああ決意したんだな、今日家を出て行くんだなと思った。

フランクはやはり軽薄で鈍感であまりに素直な夫だった。

全てを置いて家を出て行く以上のバッドエンドが用意されているとはね。

もう衝撃で涙が止まらなかった。



レボリューショナリーロードに住む人々はみんなどこか壊れている。

それとも社会の方が壊れているのかな。

唯一まともなことを言っていたのは精神病にかかったヘレンの息子だった。

まともが何かは判然としないので感覚的な話だけど、昔誰かが言っていた言葉を思い出す。

「社会ってのは、まともな人ほど心を病みやすい場所なんだよ」。



ヘレンの息子は『シェイプ・オブ・ウォーター』のマイケル・シャノン。

やはり存在感がすごい。

個人的には若かりし(というほど若くもないけど)デビット・ハーバーが出てきて嬉しかった。



とにかく強烈な映画だった。

でも重い映画によくある、面白かったけどもういらないという鑑賞後の拒否感はない。

不思議なのだけど、重っ苦しくないんだよな。

また観たいと思えるのは映像が明るくて綺麗だっらからかな。

思い返してみれば結構笑った記憶もある。

製作者側のエゴイズムを感じなかったというのも大きいのかもしれない。

くどい演出がなくスムーズに見れる。

内容だけに他の全ての要素をそぎ落とし洗練させたような印象を受ける。

『アメリカン・ビューティー』も結構好きだしサム・メンデスと相性いいかも。

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ネタバレ厳禁に対する規制緩和を

2021年01月13日 | 日記
「面白い映画があってね、ちょっと話していい?」と聞いて、

「うんいいよ!」と話がスムーズに進むことはほとんどない。

大抵は「それ観るからダメ」とか「絶対言わないで!」が返ってくる。

だからたまにいるネタバレに寛容な人々はとても貴重だ。



先に映画を観た者はなぜその話をしたがるのか、

それは面白さを共有したり、自分の考えをアウトプットしたいからだ。

あるいはいかにオススメ映画なのかを伝えたいというのもあるだろう。

単に会話を楽しみたいからという場合も大いに有り得る。

観ていない者からすれば自分勝手に思えるかもしれない、あるいは余計なお世話?



ネタバレを嫌がる一番の理由は純粋に作品を楽しみたいから。

作品を、作品を享受する時間を心から大事にしているから。

エンターテインメントにちゃんと向き合っているからだ。

要は真面目なのだ。



20代私は一人で映画を観るのが好きだった。

実家では父や母がすぐネタバレするし、ストーリーを予測して大きい声で喋るし、

平気で寝るし、立ち上がってどっか行っちゃうし、気にせず再参加する。

そういう賑やかな映画鑑賞に思いっきりチョップして水を刺してきた。

「静かにして!」だとか「言わないでよ!」とか、予測すら嫌がったもんだ。

家を出て静かに映画を観ることの幸せを噛み締めた。

私こそが生真面目ネタバレ厳禁女だったのだ。

私は無自覚とはいえ過剰なネタバレ厳禁社会の参列者だったのである。



30代私はネタバレ厳禁社会にすっかり辟易している。

あの賑やかで煩雑な映画鑑賞よもう一度、なんて。

映画を観るという行為は画面の中だけにあるわけじゃない。

観る側の空間を内包した全体的な体験なのではないだろうか。

実家の映画鑑賞には画面上に負けぬ劣らぬ空間が手前にあったということかもしれない。

そんないいもんじゃないか。



近頃は昔の映画ですら四方八方から「ネタバレやめてください!」が飛んでくる始末だ。

映画評論家などはたまったモンじゃないだろう。

評論すら弁えていない輩にいちゃもんつけられちゃあ話にならない。

たまに紹介という程で言い過ぎる評論家もいるけれどご愛嬌。

いつから観ていない者がそんなにえらくなったのか、あるいはえらそうになったのか。

私も一助を担った身としては耳の痛い話である。



ネタバレ厳禁を重んずる風潮は、言い換えればストーリー至上主義。

その場合ラストへの期待が大きくなってしまう。

ずっと面白くても最後が気に入らなかったら駄作になる可能性がある。

散らばった付箋を全部回収し、素晴らしきラストを飾った物ばかりが評価されるとなれば、

そんな一辺倒な作品群には興味がわかない。

例えば漫画『20世紀少年』は途中までは文句なく面白い。

しかしラストはといえば覚えてないくらいパッとしなかった。

それでも評価がひっくり返らないほど面白い部分は面白かった。

だから私はこの漫画が大好きだ。

面白い部分を面白いと言っていこう。

もっと全体的に、大きい視野で、いろいろな角度から作品を楽しもう。



あくまで観た者にとって観ていない者に対する配慮は大切だ。

その上で観ていない者も話を聞くくらいの寛容さは持つべきだ。

文脈は違ったか以前時事芸人のプチ鹿島が「みんな自分の感性を信じすぎている」と言っていた。

その時は自分の感性を大切にするのはいいことでは?と思っていたけれど、今ならなんとなくわかる。

自分の感性に固執することは世界を狭くすることにつながる。

孤立無援の絶対的自分などつまらないじゃないか。



それこそ余計なお世話か。

私がなぜネタバレ厳禁に物申すのかというと、危惧するところがあるからだ。

過剰なネタバレ厳禁社会は生真面目な社会、一辺倒な社会、余裕のない社会、

コンプライアンス社会、人が孤立した社会の裏返しなのではないかと思うからだ。

これは芸能人の失敗を許さない社会とも同義である。

せせこましく不寛容な社会だ。



一人一人がネタバレを厭うことはそこまで問題ではない。

私が気持ち悪いのはさも「ネタバレ厳禁」が社会の守られるべき常識だと振りかざす風潮。

そんな旗、誰が振りかざしているんだか。

誰ともなく少しずついろんな方面から形作られた真ん中空洞の虚構に近いかもしれない。



作品に対して少しいい加減に向き合うと案外面白い出会いがあったりする。

正月弟が昼から映画を観はじめたところで私はサイクリングへ出かけた。

帰ってきたらまだ映画鑑賞は続いていて夫も参加していた。

トム・ハンクスが無人島らしき風景の中で言葉もなくもがいていた。

なんかすごそうな映画だなぁと思いつつ吸引力がすごかったので私もその場に居座った。

以前だったら「ちゃんと最初から見ないと意味がない」とか言って2階に上がっていたところだ。

残すところ3、40分だったと思う。

めーーーーーっちゃ面白かった、『キャスト・アウェイ』。

エンドロールを観て驚いた、ロバートゼメキス監督作品だった。

言わずと知れた名作らしい。

多分自分から前半を観ることは当分ないと思う。

それでも『キャスト・アウェイ』は面白かったと自信を持って言うだろう。

いい加減にもほどがある?



ネタバレや事前情報が鑑賞時に生きてくることも多々ある。

最近で言えば『愛の不時着』だ。

冒頭韓国の財閥の美人令嬢が北朝鮮に不時着してしまい右も左もわからぬまま逃げ惑い、

命からがら韓国に帰ってきたと思ったら様相の違う村に出て戸惑うシーンを観て、

かつてラジオで映画評論家が言っていたことを思い出した。

『愛の不時着』の何が衝撃なのかというと、今まで未知だった北朝鮮の庶民の生活を丁寧に描いていることだ。

脱北者への徹底した取材によって実現した北朝鮮の風景はとてもリアルなはずだと言っていた。

北朝鮮のとある村の早朝、時代錯誤な風景の中で立ちすくむ主人公。

その場面がスッと入ってきたのは前情報があったからだと思う。

元々謎めいているのだから一方的な偏見で描かれた北朝鮮より、より現実に近い北朝鮮の方が面白いに決まっている。

その怪しく得体の知れない村が生活していくうちに居心地のいい場所になっていく変遷が素晴らしい。

住む人は変わらぬ人なのだというメッセージが丁寧に描かれていて思い出しただけで泣けてくる。

『愛の不時着』は愛のパートがメインだけど、村の人や部下の軍人の物語が一番好きだ。

主人公たちは愛の中心にいるのだからどう転んでも救われるけれど、

自ら巻き込まれた村人や部下の友情を思うと彼らだけは救ってくれと心から願ったものだ。

話がだいぶずれてしまった。



ネタバレ厳禁が加速すれば、いつか落語のネタバレ禁止なんて冗談みたいな事態にもなりかねない。

第一印象が大事とも言うけれど、第一印象なんて忘れていくものさ。

どうせ過去になるならもっと作品を寛容に捉えてもいいのでは。

色々言ったけれど正直なところ私がネタバレ厳禁を気にせず好き放題に感想を言いたいだけなのかもしれない。

一番身近ともいえる夫が読むわけのない小説の感想すら聞くのを嫌がる。

私はいったいどこにアウトプットすればいいんだ〜私にしたらアウトプットも含めて作品鑑賞なのに!

夫からしたらいい迷惑である。


『WORKER』
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