歩くたんぽぽ

たんぽぽは根っこの太いたくましい花なんです。

美しいね、人間

2023年09月20日 | 空想日記

花を見て美しいと思う。

野生動物や虫を見て綺麗だなと思う。

どうして人間に対しては無条件で美しいと思えないんだろう。

 

花や動物を無条件で美しいと思うのは、個体で見ていないからだろうか。

人間である私が人間をメタ視点で捉えるのは難しい。

深く関わりすぎている。

一人ひとりの顔が違う(のがわかる)と綺麗じゃないのかも。

 

地球の生き物から程遠い生命体がいたら、人間を個体では見ないだろうね。

その場合この喜怒哀楽の激しい生き物を美しいと思うのだろうか。

戦争とか、環境汚染とか、差別とかいろいろ問題を抱えているけど、

一生懸命生きてて綺麗だなと思うのかな。

いや、そう思うには数が多すぎるか。

数が多いと見栄えが悪いものね。

 

生物として美しいかはわからないけれど、面白くはある。

雲の隙間からずっと眺めていたい。

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夢の話

2021年09月25日 | 空想日記
夢はいつも変だ。

電車に乗って知らない街へ行ってきた。

建物が密集したごちゃごちゃした街だ。

少し歩くと場違いな西洋風の立派な家があって私はその家に用事があるらしかった。

チャイムを鳴らすと玄関の中から背の低い小太りのマダムが現れた。

「駅に着いたときに連絡をくだされば、迎えに行きましたのに」と言われ、私は来た道を振り返った。

「徒歩3分なのに?」と不思議に思ったのを覚えている。

家の中を案内され、廊下の先の両開きの扉を開けると大広間になっていて大人がたくさんいた。

どうやら食事会だか会合だかに招かれたらしい。

さぁ食べるぞと息巻いているとマダムが「先に召し上がっていてください」と言ってどこかへ行ってしまった。

それに何人か続いたようだった。

私はかまわず現れたご飯を食べはじめた。

夢中になって食べていたのだけどなんとなく違和感を感じてふと顔を上げると周りには誰もいなかった。

さっきまで立食パーティーっぽい雰囲気だったのに、いつの間にか畳の部屋になっていて私は隅の方にちょこんと座っていた。

大きさの違うテーブルがいくつも並べられて、料理が雑然と置いてある。

いかにも田舎で親戚が集まった時の感じ。

みんなどこにいってしまったんだろう。

なんで私はここにいてご飯を食べているんだろう。

と、ひどく疎外感を感じる夢だった。

今思うと元々いた人たちを誰も知らないのになぜ疎外感を感じたのか不思議だ。

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なんちゃってとかなんとか

2021年03月29日 | 空想日記
なんちゃって(照)

茶化してごまかすなよ

だって自覚しちゃったんだからしょうがないじゃん

それはそうだけど

私だってそりゃあできれば思い込みたいよ

「思い込む」ねえ

そんなこと言うけど君は私でしょう、もっと仲良くしようよ

仲良くは出来ないんだよ



後ろにいる彼女はただそこにいるだけで、

私と思考を共有できるわけでもないし、

俯瞰とかそういう特殊な役目を果たしているわけでもない。

そこにいてこっちを見ているだけ。

私は彼女がいることが気になってしょうがない。

だから思考にさえブレーキをかける。

頭の中がいつも自由だなんてことはない。

私と同じ顔をした彼女はいつも後ろから私を見ている。



そんな彼女が稀に何かの拍子に私と同化するときがある。

他人なんじゃなかってちょっと期待してたんだけどね。

そういうときは発した思考がどこまでも飛んでいきそうなくらい頭の中がすっきりしてる。

それは自由。

どれだけ愚かであっても許される時間。

本当の一人の時間。

我を忘れるともいう。

ん?ってことはあっちが本体なのか。

なんちゃって。


すっかり春です。
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散らかった部屋

2019年05月19日 | 空想日記
ある部屋があって、

そこには所狭しと棚や机が敷き詰められ、

開けっ放しの引き出しに埃っぽい本棚、

なんの書類だかわからない紙の束が散在し、

そこらじゅうに飲みかけのカップが置きっ放しになっている。

整理できない大学教授の部屋を連想するが、

この部屋の主はいったいどこにいるのだろうか。

確かにいるはずなのに、

霧のように霧散して長い間実態を持てないでいる。

主はいつも何かをしようとするのだけど、

主の粒子が部屋を移動しその濃度が変化するだけで、

結局は何も手につかないでいる。



何をするにもまずは実態を持たなければいけないのだが、

そのためにはシュウチュウリョクが不可欠なのだ。

シュウチュウして意識を一点に集めることができれば、

粒子同士がくっつきそれが少しずつ大きくなって、

いずれ何かをするに足る実態になることができる。

しかしそのシュウチュウリョクというやつがどこにあるのか見当もつかない。

結局主はその部屋を満たす霧のままぼんやりとそこに有り続けるのでしょう。


暖かくなって外に出した植物たち
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明るい未来Ⅰ

2019年01月29日 | 空想日記
2003年の黒沢清監督の映画『アカルイミライ』は高校生だった私に強烈な印象を残した。

当時ネットもそこまで普及しておらず田舎者は今よりもちゃんと田舎者で、

そんな田舎の中でもど田舎に属する山の中で育った私にとってあの映画はあまりに眩しかった。

映画に心底共感したのはあれが初めてだったように思う。

共感は映像の中にあって、それは私が触れることのできない世界。

土砂降りの雨の中にいるのに異様に喉が渇く、そんな感じの映画だ。

今でもなぜあの映画のタイトルが『アカルイミライ』なのかはよくわからない。



「明るい未来とは何か」という問いは「暗い未来とは何か」という問いより断然難解だ。

様々な作品媒体で生み出されてきた多種多様な未来像があるけれど、

明るい未来が描かれた作品が少ないという事実にふと気づく。

私の知識不足もあるだろうが、

今頭を捻ってパッと出てくるのは「ドラえもん」の中の22世紀くらいだ。



SF用語でよく使われる(使われた)「サイバーパンク」や「ディストピア」は、

言うまでもなく暗い未来の方である。

「近い将来、数十年先の未来」を表す「近未来」という言葉が、

発言と同時に暗い雰囲気をまとうのは描かれてきた近未来が総じて暗かったからに違いない。

過度な管理社会、人間社会の崩壊、AIの暴走、第三次世界大戦、核戦争等々。

『ターミネーター』『ブレードランナー』などワールドワイドな作品を始めあげたらきりがない。



最近子供にICチップを埋め込むというニュースを見つけた。

注射器で簡単にICチップを埋め込むことができる時代だ。

カウンターカルチャーの一環でそういうことをする人もいるという。

このニュースを見る限りそれがメジャーカルチャーに昇格するのもすぐだろう。

子供を守りたい親の気持ちは子供のいない私にはわからないが、

一生懸命に未来を守ろうとすればするほど、

何か抗いようのないおかしな方向へ向かっていくような気もする。



暗い未来を想像するのは簡単だけど、明るい未来を想像するのは難しい。

現実的な判断か、それとも人間は楽観より悲観しやすい生き物なのか。

「明るい未来」=「幸福な未来」、「暗い未来」=「不幸な未来」と考えてみる。

身の回りのこじんまりとした未来ならいくらでも幸福な世界を想像できるのに、

社会スケールで考えるとどうしてもうまくいかない。

それはきっと不幸は社会で共有できても、

幸福はパーソナルなもので人とは共有できないから。

「幸福」と「不幸」は反義語でも、内包する規模は「不幸」の方が圧倒的に大きいのかもしれない。

それにきっと誰もが自分のいない遠い未来に対し関心はあっても無責任だ。

だから自由にアーティスティックに暗い未来を想像できるし、

映画や小説や漫画やいろんな作品の中でいくらでも創造できる。

暗い舞台の方がドラマチックだし、そこから生まれる問いが重要なのは自明のこととして。



これから無謀にも明るい未来とはどういうものか自由に無責任に想像してみようと思う。

前例が少ないならより考えがいがあるというものだ。

想像する未来は私たちの生きている世界の地続きにある近未来以降。

きっと実現可能な明るい未来だってあるはずだ。

しかし、これ以上書くとべらぼうに長くなるので続きはまた今度にしようと思う。

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