歩くたんぽぽ

たんぽぽは根っこの太いたくましい花なんです。

ぼっけえ、きょうてえ

2018年09月30日 | 
スポーツの秋、食欲の秋、何と言っても読書の秋。

気持ちのいい秋空に恵まれて、

カーテンの隙間から柔らかい陽光が差し込む窓辺に腰掛け本を片手に、と、うまい具合にはいかない。

ここ最近ずっと天気が悪く夜は寒くてかなわない。

つい先日まで暑かったのはもはや幻か。

怠惰故に衣替えが間に合っておらず、そこら辺にある服を重ね着して寒さを凌いでいる。

そんな仄暗い今年の秋に合わせてか偶然か、最近ミステリーやサスペンスやホラーばかり読んでいる。



本を読むのは好きだが気まぐれで、今まで読んだ本を並べてみても脈絡がない。

そういうわけで、今更!?と突っ込まれそうな名作も随分と呼んでいない。

この秋はその穴を埋めるべく最近はまってるミステリーやホラー界隈で名を馳せてきた名作を読むことにしたのだ。

ホラーと言っても幽霊がメインの話ではなくサイコホラーなど、人間の怖さが際立つ物語だ。



綾辻行人『十角館の殺人』、森博嗣『すべてがFになる』、湊かなえ『告白』、

貴志祐介『悪の教典』、三津田信三『水魑の如き沈むもの』等。

有名なだけあっていずれもそれなりの満足感を与えてくれる。

中でも最も印象的だったのは岩井志麻子の『ぼっけえ、きょうてえ』だ。



『ぼっけえ、きょうてえ』

岩井志麻子 著
角川ホラー文庫 2002 (短編集、文庫版)



「ぼっけえ、きょうてえ」とは岡山地方の方言で、「とても、怖い」の意。



この本は、4つの短編で構成された短編集である。

表題作の『ぼっけえ、きょうてえ』をはじめ、『密告函』、『あまぞわい』、『依って件の如し』が収録されている。

いずれも50ページ前後の物語なのに、それぞれが強烈な余韻を残す。

一見とっつきにくいのだが、一度触れてしまうと逃れようがない。

じとーっと湿度が高く陰鬱で救いようがないのに、なぜこんなに魅了されるのか。



最近読んだ本の中で一番よくわからなかったというのも正直なところだ。

いや、作中に横たわる謎は最後にはちゃんと分かるようになっているのだが、判然としない。

その朧げな余韻が読む者の心をかき乱すのだと思う。



岩井志麻子さんの本を初めて読んだけれど、その文章力に瞠目する。

私が感動した点について解説の京極夏彦さんがピンポイントで説明してくれていたのでそのまま記載する。

ーーーー

慥かに書き振りは巧妙である。シチュエーションもプロットも練られてはいるだろう。しかし、幾ら練ってあったとしても、陳腐なものは陳腐なのである。怪談などは、どう料理しようと所詮は陳腐なものなのだ。多くの作品は、その陳腐さから逃れるために奇を衒い、またディティールに凝る。そしてその殆どが道を見誤り、細部に埋没していく。岩井志麻子はそんなものにはあっさり見切りをつけてしまったところだろう。

ーーーー

アイディアやディティールに寄りかかっていないのに物語が濃密で説得力があるのは、

やはりただならぬ文章力によるのではないだろうか。

真似できないどころか近づくことすら叶わぬ領域だ。

綿密に組み立てられたロジカルな物語というよりは、むしろ文学的だと感じる。
(ロジカルな物語はそれはそれですごく好きだけど)

伝達のためのツールとしての文章ではなく、文章そのものが有機物であるかのような印象だ。

だからこそ岩井さんの紡ぐ言葉に足をとられ、気づいたときにはこちらまで蟻地獄にはまってもがいている。



物語はいずれも明治時代の岡山が舞台であり、彼女はそんな昔の世界を非常に克明に提示してくれている。

京極夏彦さんに「遣り切れなくなる程に上手い」と言わしめるほどだ。

読みながら作者は相当勉強したのか、あるいは民俗学に余程精通しているのだろうと推測したが、

解説には「本人の談に依れば、それらは凡て作品をものにするために付け焼き刃で学んだ知識」なのだとか。

それが本当だとすると、もはや恐ろしいくらいだ。



余談だが、読み終わった後岩井志麻子さんについて調べたら、

ヒョウ柄の服を着た下ネタばかり言う人としてバラエティ番組でよく見る女性だった。

「なんだこのエキセントリックな人は?」と思っていたが、この本を読んで180度見方が変わった。

いやぁすごかった。

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『凶悪』

2018年09月26日 | 映画


『凶悪』
監督:白石和彌
脚本:高橋泉、白石和彌
原作:新潮45編集部編『凶悪 -ある死刑囚の告発-』
音楽:安川午朗
出演:山田孝之、ピエール瀧、リリー・フランキー
公開:2013



前々から気になってはいたが重そうなので元気な時に観ようと今まで避けてきた。

それが昨日の深夜ふと思い立った。

「とんでもなく怖い映画を観たい」

そのタイミングはなんの前触れもなく突然おとずれるのだ。

「そういえばAmazonプライムで『凶悪』が無料で観れる」



観た友達からは「ピエール瀧とリリー・フランキーがとにかく悪い、グロい」と聞かされていた。

目も当てられないような残酷なシーンで始まるとかなんとか。

前情報はそれしかなかったが、胸に期待を膨らませて鑑賞、以下ネタバレあり。



はじめに、これは実際に起こった事件(上申書殺人事件と呼ばれる)をもとに作られた映画である。

原作は実際にその事件の真相を暴いた新潮45編集部による犯罪ドキュメントで、2009年に文庫化されている。

現在休刊に追い込まれているあの新潮45だ。



物語は明潮24(映画上)編集部に死刑囚から手紙が届き、記者の藤井(山田孝之)がその人物に会いに行くところから始まる。

元暴力団員の死刑囚須藤(ピエール瀧)は上申中でありながら自身の3つの余罪について語り出すが、

それは未だシャバでのうのうと暮らす事件の首謀者木村(リリー・フランキー)に対する復讐だった。

木村は極悪非道な不動産ブローカーで土地を持つ老人を殺して土地を転売したり、保険金殺人などに手を染めていた。

須藤はその実行役だったのだ。

藤井は上司に逆らいながら須藤が語った供述の裏をとるため取材を敢行するが、そこには想像を超える狂気があった。



まず最初の感想は実話だったの!?という驚きだ、我ながら無知にもほどがある。

次に山田孝之が悪者じゃなくてよかった〜ということだ。

あとは真面目に考えよう。

この映画が鑑賞後の不快感を誘発させる第一の原因は狂気に満ちた悪魔の所業を映像でばっちり観せた点にあるだろう。

観たのを後悔した人も少なからずいたのではと思う。

中でも遺体を鉈で切り刻み焼却炉で焼くシーンはトラウマものである。

自然死を装うために老人に酒を飲ませ続けるシーンは木村と須藤の異常さが際立った。

実際は1ヶ月にわたって酒を飲ませ続けたのだとか。

文章で羅列しただけでもおぞましいが、これらの場面で一番恐ろしいのは木村と須藤があまりに普通なことである。

食事をするように、会話をするように、散歩をするように、犬と戯れるように、人を殺す。



不快感が残る第二の原因はそうした凶悪さが必ずしも他人事でないというさりげない示唆にある。

この映画では事件の真相を暴く記者としての主人公と、認知症の母と介護をする妻をもつ家族の一員としての主人公が並走している。

藤井は事件を追い使命感に燃える一方で、一人の人間として家族から目をそらし続ける。

その結果妻が限界を感じ藤井に離婚届を突きつけるのだが、そこで彼女が母に手をあげていたこと、それに罪悪感すら抱かなくなったことを告白する。

妻が力なく「私だけはそんな人間じゃないと思ってた。」と吐く場面でドキリとした。

実はその台詞こそが物語の根幹なのではないかとすら思う。

「誰もが闇を抱えて生きている」そう言われた気がした。



第三の原因は主人公藤井が事件に執着するあまり彼自身もある種狂気じみていく部分にある。

なんだかよくわからないのだけど、藤井の固執が少しずつ異様な感じになっていく。

木村と対峙するラストシーンが印象的だ。



不快感が残るとは書いたけれど、以上3点は同時に映画『凶悪』のよかった点でもある。

それを踏まえてかなり自分勝手なことを言うと、一番の感想は「想像より怖くなかった(映像作品として)」だ。

実話だったので結果的に不謹慎になってしまったが、私は身の毛もよだつ怖い映画を観たかったのだ。

『凶悪』はもともとホラーじゃないので、こちらが変なことを言っているのはわかっている。

確かに未だかつてこれほど生々しい殺人の演出を観たことはない。

しかしそれは怖いというより気持ち悪いといった方が正確だ。

恐怖よりも嫌悪感が後味としてざらついている感じ。

基本的にそういうのはあまり得意ではない。

確実に言えるのは、友達の言う通り、ピエール瀧とリリー・フランキーがとにかく悪いということ。

実話ということを思い出した時、あまりの残虐さに戦慄することでしょう。
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座右の銘

2018年09月22日 | 日記
「座右の銘は何ですか?」と聞かれたら一体なんて答えよう。

有名人が質問されているのを見て、何度も自分に当てはめた。

聞かれる予定はないけどね。

何にせよ迷わず言えたらかっこいいという不純な動機でこんなことを考えている。



座右の銘とは「常にその人の心に留めておき、自分の励ましや戒めとする言葉」のことらしい。

特に四字熟語やことわざや慣用句でなければならないというわけでも、

偉人が残した名言・格言でならなければならないということでもない。

自分の言葉だってなんだっていいのだ。



すぐに気が変わるので、同じことを切に思い続けるということが案外難しい。

どうやら「決める」というのが本質からずれているようだ。

きっともっと自然なことなのだろう。



いろいろと出鱈目な私だが、ここ最近しみじみ思うことがひとつある。

それは「腹八分目」だ。

おいおいと思うかもしれないが、これはあながち馬鹿にできない。



先に断っておくが健康面を考慮してのことではない。

結果的に健康になれるなら儲け物くらいのスタンスだ。



満腹になって満たされるのは一瞬だけなのであって、

その後は緩慢な苦痛に身を委ねることになる。

腰は漬物石のように重くなり食休みがとにかく長くなる。

やる気が出ない、動きたくなーい、というあれだ。

30年生きて重々身にしみている、はずなのに戒めないと食べてしまうのだ。

次の一歩を軽くするために「腹八分目」作戦、どうでしょう。


とあるギャラリーの看板猫、ニャーニャー。
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30歳の肖像

2018年09月15日 | 日記
私は今年30歳になった。

これは案外悪くない出来事である。

多くの人がそうであるように、私もまた大人コンプレックスである。

自分の実年齢に対し精神年齢が低く、自分が大人であるという自覚が持てないでいるのだ。

そこに30という数字を突きつけられ、こっちの気持ちなどお構いなくおでこに「大人」という判を押された気分。

「もう大人ってことでいいのね。」

我ながら世話の焼ける面倒なやつだ。

大いなる誰かさんは端からそんなこと気にしてないだろうに。




フェデリコ・ウリベの色鉛筆で作った肖像。



思えばここに来るまで多くのカルチャーアイコンたちの年齢を追い抜いてきた。

碇シンジくんとか風の谷のナウシカとかサザエさんとか。

27クラブのジャニス・ジョプリンもカート・コバーンもジミヘンもロバート・ジョンソンも

エイミー・ワインハウスもバスキアも、私が28歳になった途端みんなまとめて年下になってしまった。

個人的に最も衝撃的だったのは28歳になったとき夫に言われた一言だ。

「君もついにムスカと同じ歳になったね。」

自分がいつかラピュタのムスカと同じ歳になるだなんて思いもよらなかった。



そして30歳、これが一体誰と同じ歳なのかって?

これも夫に言われた一言で明らかになった。

「ファイトクラブのタイラー・ダーデンって30歳らしいよ。」

ゲゲゲ!

男の中の男、消費社会に仇なす革命家、自由への先導者、あのタイラー・ダーデンが30歳!?

ちなみにファイトクラブのときのエドワード・ノートンも30歳だったらしい。

なんと罪深き30という数字かな。

お前は「ライフスタイルの奴隷だ、物に支配されている」だとか、

「何でもできる自由が手に入るのは、全てを失ってからだ」とか言い切るあの風格、

いったいどう生きたらそなわるの。



夫の呪文のような言葉に見事はめられて、2年ぶりくらいに『ファイトクラブ』を見た。

等身大のタイラー・ダーデンである。

少し感慨深いような、ただの思い込みのような。

それにしても最後のシーンは何度見ても泣ける。

寸前までそんな予兆全くないのに、

The Pixiesの『Where is my mind』をバックにビルが崩壊していく映像があまりにかっこよくて涙が出るのだ。

いいじゃない、30歳。





余談だけどタイラー・ダーデンは英エンパイア誌が発表した「史上最高の映画キャラクター100人」で見事1位を獲得している。

ランキングだが2位にダース・ベイダー、3位にジョーカー、4位ハン・ソロ、5位ハンニバル・レクターと、

ハン・ソロ以外は上位にランクインしているのが悪役ばかりでちょっと面白い。

よくよく考えるとハン・ソロも優等生タイプではないわけで、ちょっとくらい悪人の方が人の心をつかみやすいのかしら。


フェデリコ・ウリベの作品展で一番面白かった作品。
タイトルを見て笑ってしまった。その名も『プレッシャー』。
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新世界より

2018年09月13日 | 


『新世界より』

貴志祐介 著
講談社 2008(単行本)



前々から読みたくて長らく本棚に寝かせていた本だが、先日やっと全て読み終えた。

というのも文庫版では上・中・下巻ある大作で、読み始めるのにある程度の覚悟が必要だったのだ。

しかし読み始めればなんのその、さすがエンターテイナー貴志祐介といったところか。

物語に引き込むスピードが非常に早く、気づいた頃には彼の術中にはまっていた。

と言いつつまとまった時間がなかなかとれなかったので、読み終わるのに約2ヶ月もかかってしまった。

だからか、読み終えてすぐは長い旅が終わってしまったという寂しさが心中を占めていた。



貴志祐介について



貴志祐介のミステリー小説は基本的にかなり好きである。

『青の炎』は少し毛色が違うけれど、

『黒い家』、『天使の囀り』、『クリムゾンの迷宮』などは超一級の恐怖を味あわせてくれる。

様々な物語を通じて人間の内面的怖さと気持ち悪さを否応無しに突きつけてくるのだ。

得体の知れない脅威がじわじわと迫ってくるときの手に汗握る緊迫感、さらに驚愕の事実に突き当たったときの恐怖は他に得難い体験である。

なぜそんなに怖いのかというと一つに「現実にあるかもしれない」と思わせる設定と綿密な調査にある。

『天使の囀り』は一見超自然的・精神的な話に思えるのだが、読み進めていくうちにシステマティックかつ科学的展開になっていく。

全くのフィクションにもかかわらず、語られる現象があまりにリアルなので一時的だが自分の生活空間に不信を抱いてしまうほどだ。

一番怖かったのは『黒い家』で、読んでいるときはトイレに行くのも憚れるほどだった。

家の中の死角という死角の先に何かおぞましいものが潜んでいるような錯覚にとらわれるのだ。

この3作品は夜読むのはあまりオススメしない。



これは個人的な感想かもしれないが、毎回面白いと思うのはこちらの疑問に対する返答の早さだ。

こちらが腑に落ちない点(特に現実的であるかどうか、また整合性があるかどうかについて)があると、

すぐ後にそのことに対する補足を加えこちらが納得できるようきちんと埋め合わせをしてくれるのだ。

そのきめ細やかな想像力はちょっとすごい。

ピンポイントで照準が合ったときは、ある意味で著者と意思疎通したようなマニアックな感覚に陥る。

と言っても長い作品が多いので物語を読み進める上で主人公の性格に矛盾を感じたり整合性についてなんらかの違和感を感じることもあるが、

それはそれでファンとして愛着をもってそういうこともあるよねと勝手に納得している。

一応断っておくが私は別に文章の粗探しをしているわけではない。

ただ私にとって物理世界の物語には現実性や整合性が非常に重要で、その禁を破られると急に読む気が失せてしまうのだ。

と言っても作品ごとに求めるものは変わる訳で、こと貴志祐介作品にいたっては必要以上にリアリティを期待してしまうということだ。

そういう意味では彼の作品の中でも『硝子のハンマー』や『狐火の家』の人気シリーズは、

いわゆるエンタメっぽさが強く登場人物のキャラクターがオーバーなのであまり好きになれない。

とは言え『硝子のハンマー』の密室トリックの発想は面白かった。

推理小説が好きな方にはいいのかもしれない。



新世界より



貴志祐介作品について語り出すと止まらないので、ここら辺で本題に入ろう。

今回読んだのは2008年の第29回日本SF大賞受賞作品である『新世界より』だ。

オススメSF小説を紹介するサイトでは高い確率で紹介されている言わずと知れた有名作品らしい。

私の目に止まった一番の理由は『新世界より』という大仰なタイトルである。

どんな新世界の話が待っているのか、想像するだけでワクワクする。

以下ネタバレあり。



◆ストーリー

物語は、主人公渡辺早季のモノローグから始まる。

10年前に起きた一大事件の中心にいた彼女は、人類が同じ轍を二度と踏まないよう願いを込めて記録を残すことにした。



話は彼女の子供時代にさかのぼる。

物語の舞台は利根川を中心とした周囲50キロメートルほどの地域に7つの郷が点在する神栖66町である。

一昔前の古き良き日本らしい田舎の風景が印象的な町だ。

町は八丁標(はっちょうじめ)というしめ縄で外界から明確に隔てられ、神話的な雰囲気が漂っている。

そこで描かれる懐かしくも美しい風景描写と子ども時代特有の情感はSF小説と言うよりは青春文学のようであり、

古風な閉塞感、また古くから伝わる「悪鬼」や「業魔」などの伝説、厳格な掟などに基づいた空気感は民話のようでもある。

これは本当に新世界の話なのかと疑心暗鬼の中読み進めると、その世界の人間が「呪力」なる超常的な力を持っていることを知り一時的だが落胆した。

ファンタジーならそれでいい、しかしSF小説を期待している者にとっては受け入れがたい展開だ。

しかしここは貴志祐介、きっと何かすごい仕掛けがあるはず。



話は主人公の成長とともに進み、自意識が芽生えるにつれて彼女はその世界があまりに平和で健全なことに違和感を感じ始める。

彼女が暮らすのは徹底された情報統制と厳格に定められた倫理規定によって管理された社会だった。

早季はいつも何か大事なことを見落としているような引っ掛かりを感じるが、肝心なところで靄がかかりそれがなんなのかはわからない。

その感覚は常に行動をともにするよう定められた全人学級の1班の中で共有され、彼らは正しすぎる世界の異分子となっていく。

そしてついに彼らは12歳の夏季キャンプで重大な倫理規定違反を犯し、知ってはいけない事実を知ってしまう。

それは平和ボケした自分たちの世界が血塗られた歴史の上に成り立っているという信じがたいものであった。

「殺人」という概念すらない八丁標の内側に暮らす子どもたちにとってそれはあまりに残酷な事実だった。

さらに読者はそこでその世界が今から1000年先の未来であり、全てが崩壊したのちに再構築された新世界だということを知るのだ。

「呪力」というのは前史の最後に現れた超能力者たちの力で、彼らは長い歴史の中で能力を持たざる者に台頭してきた新人類だったのだ。

力を持たざる者はいったいどこへ行ってしまったのか、厳格な倫理規定はいったい何のためにあるのか、

知りすぎた子どもたちに忍び寄る管理社会の魔の手、大人たちが恐れる真の脅威とは。

「外界で繁栄するグロテスクな生物の正体と、空恐ろしい伝説の真意が明らかにされるとき、「神の力」が孕む底なしの暗黒が暴れ狂いだそうとしていた。」
(文庫本背表紙より引用)



◆考察と感想

貴志祐介はやはり期待を裏切らない作家である。

一言で言うと、面白かった。

大胆な設定、壮大なストーリーにもかかわらず矛盾が生じないしっかりした基盤作り、世界観の細かい作り込みには感服する。

サスペンスやミステリーであれば現実世界という確固たる土台があるが、SFとなるとそれを一から創造しなくてはならない。

どうにでもなるからこそそこには明確なロジックが必要なのだ。

そして貴志さんは誰もが想像できなかった世界を見事に作り上げた、そのことだけでもあっぱれである。

その上、その世界で繰り広げられる物語が面白いのだから、もう感無量だ。

個人的には、一見ファンタジーっぽい世界を1000年後に設定することで私たちの現実世界とつなげるアイディアは非常に面白かった。



物語は章をまたいで大きく3つの年代で構成されている。

幼少期から呪力を持ち始めた12歳まで、それから2年経ち思春期に突入した14歳、そして大事件が起きた26歳の夏。



最初、読み手は何が何だかよくわからず世界観をつかむまでは少し戸惑うかもしれない。

何せ今まで見知ってきたようなディストピアでもなければ、超未来的なユートピアでもない。

いつの話なのか、私たちが生きている時系列上の世界なのか、右も左もわからないのだ。

それははじめ無知な子供の視点で語られるからなのだろう(早季の手記の上ではあるが)。

しかしだからこそ知らないことに怯えながらも無限に広がる想像を一緒に楽しむことができる。

口裂け女やこっくりさんなどの都市伝説を無防備に信じていた誰にでもある”あの頃”の記憶が蘇りワクワクするのだ。

成長するにつれて好奇心は行動力を伴い大人の管理の手をすり抜けていく、その過程で描かれる子供だけの世界が絶妙だ。

しかしそれすらも大人たちの監視下にあったとは、、、。



物語としては26歳になってからの大事件がメインなのだろうが、個人的には得体の知れないものへの恐れや、

大人への不信、信じていた平和の崩壊、呪力による傲慢と無力さなどが描かれる子供時代の話が特に好きである。

包括的に見れば最後の事件を演出するための長い前振りになるのだろうが、陰鬱で美しい彼らの青春が胸を打つ。

主人公たちが見せる思春期特有の繊細で複雑な感情や葛藤がこちらの感情を揺さぶるのだ。

全体を通して一番印象的だったのはキーマンである瞬との物語である。

瞬は早季の幼馴染で彼女が幼い頃から想いを寄せていた聡明な美少年だ。

作中で何度も語られる夏季キャンプのナイトカヌーで共に過ごした完璧な時間、そして業魔化した彼との美しくも悲しい別れ。

全てが飲み込まれていく幻想的な別れの場面が映像化され目に焼き付いている。

なぜ思いかえす風景はいつもこんなに美しいのだろう。

彼の話が後半にもう少し効いてくるかと思ったが、そこに関しては少し期待しすぎたように思う。

重要だったのは瞬は早季の心の中で生きているということだったのだろう。



『新世界より』の重要な構成要素の一つが前述したグロテスクな外界の生物たちだ。

ミノシロ、カヤノスズクリ、トラバサミ、ツチボタル、オオオニイソメ、クロゴケダニ、と新世界生物図鑑ができそうなほど多くの生き物が登場する。

各生物の生態とその多様性に、よくここまで自由に発想できるなとひたすら感心してしまう。

中でも人間と最も深い繋がりを持つのが、いずれの年代の物語にも登場するバケネズミである。

バケネズミは人間の子どもほどの大きさのハダカネズミの一種で非常に高い知能を持っている。

人間と深く関わる彼らは、元をたどれば人間が呪力で品種改良を施してつくった生物である。

彼らは人間を神様と崇め讃え従順に仕えることで人間との間に友好関係を築いていた。

彼らがなんとなく気持ち悪いのはその見た目と哺乳類にもかかわらず蜂のような生態を持っている点にある。

女王を天辺に頂くカースト制によって成り立つコロニーを単位として生息しているのだ。

貴志作品の中でも特に『天使の囀り』と『新世界より』は気持ち悪さが際立っている。

醜く卑しい(物語上の一般的な理解)バケネズミが最終的に物語の根幹を担うとはなんともはや。



また今作で特に重要だったのが物語内のルール作りだ。

先にも述べたが、呪力が使える遠い未来の話というなんでもありな世界だからこそ細かいルールや基盤が重要になる。

この作品は各要素がしっかりしているので、読んでいる方は容易に頭の中で景色のディティールを埋めていくことができるのだ。

例えば厳格な倫理規定や教育委員会、全人学級、水路、八丁標の中と外、悪鬼と業魔、ミノシロモドキ、バケネズミの生態など挙げたらきりがない。

また呪力が万能ではないことも踏まえておかなければならない。

おそらく力の発現過程に秘密があるのだが(明確には覚えていない)細かい話をすると、

目に見えるものを具体的にどうするかというイメージによって力が発動するので基本的には目隠しをすると力は使えない。

また対象が何もないところで呪力を発現させるためには高度な技術が必要となる。

その上人によって得手不得手があるので皆横並びに同じことができるわけでもない。

呪力には「漏出」という落とし穴があるということも留意しておかなければならない。

呪力は人間の意識と密接に繋がっており、コントロールできない無意識の部分が呪力という形で常に体外に漏出しており、それは外部へなんらかの害悪をもたらしているのだ。



さらに呪力を取り扱う上で非常に重要なのが「攻撃抑制」と「愧死機構(きしきこう)」というシステムだ。

攻撃抑制と愧死機構は暗黒時代に遺伝子操作によって人類に植えつけられた同種殺しを回避するための呪力の特性である。

攻撃抑制とは狼に由来する性質で、その名の通り同種族に対する攻撃性を抑制するものである。

愧死機構とは同種族に対する攻撃の意志を脳が感知すると自らのサイコキネシスが警告発作を起こし、

実際に攻撃した場合には発作による窒息死や心停止に至らしめる特性のことで、これがある限り人間は人間(同種族)を攻撃することはできない。

血塗られた歴史が人を殺さないために作ったこの2つのルールが、人間に最大の脅威をもたらすというのはなんとも皮肉な話である。

そしてそのルールが結果的にさらに恐ろしい、いやおぞましく惨たらしい社会をつくっていたことを知り、最後の最後にとてつもない虚無感に襲われるのだ。

このたった2つのアイディアによって、よくここまで話を広げられるなとつくづく感心してしまう。



『新世界より』が他の貴志作品と大きく違うのは、人類という大きなテーマを扱っていることだ。

人間の業と奢り、同じ過ちを繰り返す愚かしさ、無知であることの罪深さ、それは1000年経った未来も変わらない。

読後最初に感じたのは、早季の願いとは裏腹にきっとその(この)世界は変わらないのだろうなということである。

細かいところだが同じ歴史を繰り返すというよりは、ただ変われないのだと思う。




分量、内容共に大満足の作品である。

厳密にはファンタジー要素が強いおかげで許容範囲に収まっているような齟齬もいくつかあったが、それが気にならないくらい面白かった。

分量にしては文章がとても読みやすいので、時間があればあっという間に読んでしまえると思う。

日本のSFといえば第一に伊藤計劃を連想するような私なので、これがSFかと言われればよくわからない。

しかし確実に新世界の話である。

一つ読んでいて残念だったのは私がドヴォルザークの『新世界より』の中の『家路』という曲を知らなかったことだ。

これを知っているとより感慨も深くなるのではと想像する。



近年稀に見る長文になってしまった。

次は同じく貴志祐介の作品『悪の教典』か、なんとなくだけど上橋菜穂子の話題作『鹿の王』でも読んでみようかしら。
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