歩くたんぽぽ

たんぽぽは根っこの太いたくましい花なんです。

2024年03月24日 | 

痒いというほどでもないが瞼に違和感を感じる。

目もかすむし、なんだか重たい。

慢性鼻炎だけど、いつにも増して鼻の調子が悪い。

気を抜くと水のような鼻水がポタポタと落ちてくる。

今年は持ちこたえたとしても、来年あたりに花粉症になるかもれない。

それともそんな気がするだけなのか。

 

高校生の頃、芥川龍之介が好きだった。

教科書に載っていた坊主頭に学生服の写真を見て好きになった。

文豪でさえ顔から入るタイプだ。

教科書に載っていたのか自分で読んだのか覚えていないけれど、

私は彼の小説の中でも特に『鼻』が好きだった。

鼻の長いお坊さんが苦悩する話だ。

いたく感動し文章の美しさに衝撃を受けたことをよく覚えている。

ここのところ鼻の調子が悪く、だからかそのことを思い出した。

鼻の長いお坊さんの姿は鮮明に思い出せるのだけど、

何にそんな感銘を受けたのか思い出せない。

小さい頃から鼻水たれで鼻にコンプレックスがあったから、

一層思入れが深かっただけかもしれない。

 

久々に読んでみた。

なるほどこういう話だったか。

高校生の感受性で受け止めたから自分ごととしてダイレクトに響いたのだろう。

『蜘蛛の糸』でも『羅生門』でもなく『鼻』が好きだったというのも頷ける。

「自尊心について考えさせられた」と書こうと思ったけれど、多分違う。

それらを頭でっかちな頭でごちゃごちゃ考えた先に、

美しい風景が見れたことになんとも言えない暖かさを感じたのだと思う。

包容力とでもいうのか。

たった数行の風景の描写が瑞々しく、足元から広がってとうとう目の前に現れる。

サプライズは嫌いだけど、そんなの泣いちゃうよね。

主人公の内供がなんらかの真理にたどり着いたわけではない。

ただ晴れ晴れとした、それだけで十分だ。

 

それにしても鼻ってところが面白い。

なんでかって言われるとうまく説明できないけれど、

目でも口でも耳でもなく鼻じゃなければならなかった。

それにしても鼻水が止まらない。

困ったもんだ。

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関口巽が元気ならそれでいいのだ!

2023年03月02日 | 

『陰摩羅鬼の瑕』を読み終わった。

京極夏彦の百鬼夜行シリーズを読んできて、今までで一番晴れやかな気持ちだ。

こんな爽やかな最後は今までなかった気がする。

関口巽が元気ならそれでいい。

 

『絡新婦の理』に関口巽がほとんど出てこなかったことで彼への親しみを知り、

『塗仏の宴』でけちょんけちょんにいじめられた彼を見て私まで憔悴し、

『陰摩羅鬼の瑕』を読むまでに2年もかかってしまった。

何度も手に取るのだけど、

冒頭から劣勢を強いられているらしき関口巽を見ていられなかった。

これ以上彼をいじめないでくれ。

そんなんだから冒頭の辛そうな部分を読んでは断念し読んでは断念し、

辛そうな部分ばかり蓄積されて結局ここまで来てしまった。

もう少し踏み込めば良かっただけなのにね。

 

読んでしまえばなんのその、関口巽堪能小説じゃありませんか。

そしてその相棒がスーパースター榎木津礼次郎なんだから言うことありません。

以下長々感想。

 

 

『陰摩羅鬼の瑕』

京極夏彦 著

講談社 2003年

 

『塗仏の宴』発行から5年も経っているのね。

リアルタイムで待っていたファンには途方ない時間だろうな。

 

とても面白かった。

もしかしたら一番好きかもしれない。

過去作を忘れているだけかしら?

今のタイミングで読んだからとても面白く読めたのだろう。

最近ぼんやりと考えていることや抱えている問題と直結していたのだ。

 

物語の構成はとてもシンプルで登場人物も少ない。

語り部は関口巽、伊庭銀四郎元警部補、初登場の由良昂允元伯爵だ。

元伯爵家で起きた連続殺人事件が物語の中心にあり、犯人は最初からわかるようになっている。

その事件を巡って3人の語り部がそれぞれ己の瑕(きず)に向き合っていくのだ。

謎を追う要素はあまりなく、死生観に関する問いが終始繰り広げられる。

仏教や儒教・儒学あるいは伝聞など様々な場所から語られていて純粋に勉強になった。

そして最後は、私が持っている常識や世界の狭さに気づかされる。

私の見ている世界は私だけのものだというのに、どこかで当たり前に共有していると錯覚している。

今までになく内省的な物語だったと思う。

たまにはこういう静かな話もいいね。

 

以前関口巽は読者に一番近いところにいると書いたけれどあれは早計だったかな。

登場人物の中で唯一共感できる人物だと思えるのは、彼がさらけ出しているからだ。

取り繕おうにもうまくいかずだだ漏れで、私は漏れた部分をありがたくいただいている。

それで彼をわかった気になってはいけないと、彼の書いた短編『獨弔』を読んで思った。

すぎょい。

彼のことは大好きだったけれどそこに敬意はあったのかい?

いやはや、すみません、ちょっとどこかで見くびっておりました。

『魍魎の匣』に出てくる『匣の中の娘』と同じくらい驚きました。

伯爵が関口先生と呼ぶ気持ちもわからなくない。

それでも関口に対し身内のように感じてしまうのは、やはりだだ漏れだからなんでしょう。

 

榎木津はいつも元気いっぱいで一つ所に留まらないイメージがあるけれど、

今回は目が見えずそれゆえずっと関口と同じ場所にいた。

なんだかそれがとても心強かったし、贅沢な時間だった。

榎木津はどんなに変人だとしてもどうしようもなくスーパースターなのだ。

そんな人に「タツミ」なんて呼ばれたら、私まで嬉しくなってしまう。

関口本人はあまり嬉しそうじゃなかったけどね。

どう言う風の吹き回しなのか、、

もしかして『塗仏の宴』でいじめすぎたからみんなで優しくしているのか?

『塗仏の宴』で「いじめすぎた」という私の認識もだいぶズレているんだろうな。

読んでいるときは関口に対する不条理に腹が立ち、他の人を冷たく思ったけれど、

読者の態度として少し感情的だったかもしれないと思う。

それも2年前の話なので細かくは覚えていない。

今回は榎木津や中禅寺の関口に対する労わりのようなものを少し感じた。

関口巽接待小説?

榎木津の「面白くねぇ」もよかったな。

珍しく汚い言葉を使うものだから、感情が少し見えた気がして嬉しくなった。

そういう意味でもやっぱり遠い存在なんだよな。

 

伯爵は不思議な人だったな。

前半と後半で見え方が変わるのも面白かった。

見た目はドラキュラみたいで怖いのだけど、読んでいくうちに彼の心根の純粋さに惹かれていく。

得体が知れないという怖さは最後まであるけれど、

伯爵からしたら自分以外みんな得体が知れないのかもしれないと思うと少し切なくなった。

彼の純粋さは悲しい結末を予感させる。

 

その中にあって退官した伊庭さんは「大人」という感じがした。

伊庭さんは深い瑕を抱えている、そして瑕との付き合い方が良くも悪くも大人だ。

面白くもない日々の中で瑕を見て見ぬ振りもできず宙ぶらりんの状態で木場修太郎と出会う。

そう思うと木場って面白いな。

あのポジションは木場でなければならなかった。

伊庭さんは一歩踏み出してくれてよかったよ〜。

彼が京極堂へ向かったことで、繰り返しの日々が、事件が動き出す。

事件発生後の彼の動きをみると警察としての手腕は確かなのだろう。

伊庭さんかっこいい!

やっぱり大人!

年齢的にも精神的にも大人が一人いると物語に説得力と厚みが出るような気がする。

現役警察の楢木さんと中澤さんもいいキャラだった。

 

あの悩ましい小説家は最後まで頑張ったと思う。

自ら伯爵の元へ行き対話し、向き合おうとした。

自分のことでいっぱいいっぱいなはずなのに、一生懸命人のことを慮って、もう。

あれは自分自身に向き合っていたのかな。

伊庭さんに感謝だな。

きっと今回は警察(らしき人)がちゃんと話を聞いてくれたのも大きかったと思う。

 

関口巽だけに注目してみると、シリーズが頑然と繋がっているのがわかる。

彼ほど引きずり思い悩む人もいない。

彼が引きずるからこそ事件を超えて人間的な連続性を追うことができるのだ。

もちろん京極堂シリーズなんだけど、同時に関口巽人生シリーズと言ってもいいのかもしれない。

彼がこの事件を通して日常と非日常にどのような折り合いをつけたのかはわからない。

ただ最後妻と買い物に行くと言って去った背中はとても清々しかった。

なんだかわからないけれど、ありがとうと言いたい。

 

そういえば昨日のニュースで京極夏彦が直木賞の選考員に選ばれたと言っていた。

直木賞に注目したことはなかったけれど、これはテンションが上がる。

選考員に決まったこともそうだけど、

京極さんのリアルタイムの動向を知れるというのがミーハー心に刺さるのだ。

 

最後に心に残った一節を。

━━━━━━━━

「この国は一つのルールで動くのだと、僕等はずっと教えられて来たのですよ。

違いますか。人の在り方はいつの間にか個人と国家という形に収斂されていて、

更に敗戦がその形を歪にしてしまった。

戦争に負けて、全員が同じ方向を向いて居るような在り方はおかしいのだと気がついた時、

それを修正すべく用意された在り方と云うのは自立した個人であり、確立されるべき自我でした。

僕等は誰にも頼らず独りで勝手に大人になることー

自分で境界を引くことを無言のうちに強いられてしまったんです」

独りで大人になれ。

私はー大人なのだろうか。

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エレクトリック・ステイトを読んで

2021年12月12日 | 
以前新宿の紀伊国屋書店で見かけてからずっと気になっていた本をやっと手に入れた。

スウェーデンの鬼才シモン・ストーレンハーグが描く『THE ELECTRIC STATE』だ。

バンドデシネをチェックしようと海外漫画コーナーに立ち寄った時のこと、

最初はタイトルの鋭利な響きに惹かれ棚から抜き取った。

パラパラページをめくって目に飛び込んできたのは洗練された絵で描かれたディストピア。

都会的なそれではなく荒野や砂漠が舞台で、荒地に打ち捨てられたらしきドローンに目を奪われた。

ちらっと値段をチェックすると3000円、絶妙。

少し考えて、突発的な欲求かもしれないからと一旦その場を離れた。

それから数ヶ月、結局忘れることができなかったので購入してみると、これが当たりだった。

以下ネタバレあり。





『THE ELECTRIC STATE』

シモン・ストーレンハーグ 作
山形浩生 訳
株式会社グラフィック社 2019年



アート界隈、SF界で旋風を巻き起こしている話題の人らしい。

説得力のある画力と詩的とすら思える一人称の儚げな語りで少女とロボットの旅を描いている。

小説でもないし絵本でもないしコミックでもないしバンドデシネっぽくもない。

綺麗な絵に添えられた短い文章はエッセイや日記を彷彿とさせる。



説明の少ない文章の中で見え隠れするドローン戦争の傷跡とニューロキャスターというキーワード。

1枚目のセンター社の「mode6」の広告が最後まで効いている。



この物語の本質はいったいどこにあるのだろうか。

過度な文明化への警告なのか、世界の終わりか不在か虚無か。

あくまでそれらは外側の景色で、そんな世界で淡々と進む一人の人間の物語なのか、あるいは愛か。

砂浜に置いて行かれたスキップの抜け殻がいったい何を意味していたのか、考えてみてもわからない。

懐かしさと寂しさが波にさらわれて、いずれ跡形もなく消えてしまうのだろう。

少女は人間の気配や痕跡が覆い尽くす人のいない世界で、生身の人として大海原へ旅立つ。

二人が漕ぎ出したカヤックをノアの箱舟という人もいるけれど、私にはそう思えない。

人工知能とも人間の集合意識とも違う畏怖すべき大いなる何かの誕生が強く心に残った。





実のところこの本のことをあまりわかっていない。

説明がなさすぎて、正確に把握するのがとても難しいのだ。

でも一人称視点で切り取られた世界は、ある意味でとてもリアルだとは思う。

世界の見せ方として成功している。

それにしても赤い車の男はいったい何だったんだ。

読者がこの答えを得る機会はあるのだろうか。

語りすぎよりは語らなさすぎの方が性には合っているから、まぁいいさ。



とにかく絵が素晴らしい。

線で描く絵が好きな私にとってあまり好みの画風ではないけれど、そうは言ってられない。

圧倒的な画力に加え、想像を膨らませる奥行きがある。

未来を想像し続けたインダストリアルデザイナーのシド・ミードがふと頭をよぎる。

世の中には絵の上手い人、想像力の豊かな人ってたくさんいるんだなあとしみじみ。

ファーストインプレッションってやっぱり大事だね。

いいものに出会いました。

映画化が決まっているらしく、楽しみが増えたのだった。

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「東京ヒゴロ」 松本大洋の新作について

2021年09月17日 | 
アマゾンで好きな画家の本を買うと、おすすめに出てきたのが松本大洋の新作『東京ヒゴロ』だった。

アルゴリズムとかよくわからないけれど、その選択ちょっとどんぴしゃすぎない?

1話分試し読みができたので流されるまま読んで次の瞬間にはポチッとしていた。

マーケティングの掌の上でまんまと踊っている。

でも今回はその出会いに感謝している。

感情ゆさぶる名作の誕生です。





『東京ヒゴロ』

松本大洋 作
小学館 2021年9月4日



物語は一人の男が30年勤めた出版社を辞職するところからはじまる。

第1話、出版社を辞めた男はかつて担当していた漫画家に会いに遠くの街へ行く。

登場人物たちのやりとり、表情、間、風景、生きた言葉にノックダウン。

第1話から泣いてしまった。

必ずしも感情移入することが重要とは思わないけれど、これはすごい。

出会って数分で登場人物たちの人生に魅入られている。



主人公塩澤はいかにも誠実で朴訥な男だけど、頑固で誰よりも人を振り回す、

ある意味でもっとも自分勝手な人なのかもしれない、と思う。

でもだからこそ周りにしてみれば気になってしょうがない人なんだとも思う。

「第4話 本日、古書店に連絡し、漫画と決別する。」はシンプルだけどすごく好きな話だ。

塩澤は漫画と決別するために持っている漫画を全部売ることにした。(極端!)

漫画の山を時間をかけて査定する古書店店主、淡々と片付けをする塩澤。

しかし最後のダンボールを運ぼうと持ち上げた瞬間底が抜けて大事な漫画が散らばってしまう。

それを見つめる塩澤の立ち姿が本当いい。

その中に諸星大二郎や大友克洋の『ショートピース』があるのもまたいい。

そして古書店店主にやっぱり売るのはやめると言うのだ。

びっくりする店主の顔がおかしい。

面倒臭いけど一つ一つが大事な作業なんだろうね。

生きることに誠実というか、不器用で自分勝手でいとおしい。

あと、大真面目な顔でゲーテやシェイクスピアの格言を言うのもなんだかおかしい。

ドキッとするんだけど、言われた方との温度差が絶妙で笑ってしまう。



登場人物がそれぞれ自分の人生を生きているのがいい。

松本大洋の漫画はいつもそうだ。

ストーリーのためのキャラクターではなく、そこに生きている人たちの人生を描いている。

街が人が息づいている。

静かだけど激しくて心揺さぶる名作です。
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関口巽が好きなんだ!

2021年01月07日 | 
京極夏彦の『絡新婦の理』を読み終わり、再び序章へ戻る。

なるほどね〜面白い。

文藝誌でよく見かける細かい文字の二段組に829ページ。

なかなか読み応えがあった。

シリーズ第一弾『姑獲鳥の夏』で初めて百鬼夜行シリーズの分量と二段組を目の当たりにした時は驚いた。

重量と難解さによって度々読む鈍器なんて評されることがあるシリーズだ。

それを聞いていたのでなかなか手を出せずにいた。

そもそもビジュアルがやばい、でかい。

あ、鈍器って物理的にということ?

しかし読んでしまえば、京極の沼にはまる。

『絡新婦の理』の一説に「快感とは小さな苦痛であり苦痛とは大きな快感です」とあるが、

難解で分厚い本を読むという行為はある種の苦痛を伴うことで快感に昇華されてしまうのかもしれない。

読み終わった後に「もっと難解な言葉を、もっと多くの文章を」と欲している自分に気がつく。

もしそこまで計算尽くだとしたら恐ろしいな。

いや京極夏彦なら十二分にありえるか。



構成要素が多すぎて全てを把握できているわけではないし、

一度読んだくらいで考察できるほど私に知識量があるわけでもないので以下はただの感想。

ネタバレあり。





『絡新婦の理』



京極夏彦 著
講談社 1996年



ストーリーはここに書いてもしょうがないので省く。

本当はシリーズ第二弾の『魍魎の匣』と四弾の『鉄鼠の檻』についても書きたいのだけど、

この2作は面白すぎてまだ感想すら書けない。

特に京極夏彦に全幅の信頼を置くに至った『魍魎の匣』はちょっとすごい。

登場人物の一人である小説家久保竣公による「『匣の中の娘』」は、

それ自体が一つの作品として成り立つ密度を持っており鳥肌が立つほど面白い、というか怖い。

初め私は赤川次郎や江戸川乱歩の短編の引用か何かだと思っていたくらいで、

それが『魍魎の匣』のためだけのオリジナルだと知った時は京極夏彦に平服するしかなかった。

いずれ「『匣の中の娘』」について書ければと思う。



本題は『絡新婦の理』だ。

この本を半分ほど読んで思うのは、「あれ、今回関口巽は出てこないの?」ということだ。

それ以前の4作では語り部としていつも物語の中心(でなくともその近く)にいた。

中禅寺秋彦や榎木津礼次郎など他の登場人物に比べ凡庸で内向的な小説家でパッとしない。

いつも頭をこねくり回して悩み苦しむ面倒な人物だ。

何回そのまどろっこしさにイライラさせられたことか。

しかしどこかでこの悩ましくも人間らしい彼こそが主人公だと思っていた。

百鬼夜行シリーズという膨大な知識、難解な言葉、残虐な事件に立ち向かうのに、

いつもそばにいてくれた、そう読者(私)の一番近いところにいたのがきっと関口巽だったのだ。

スーパースターみたいな人間離れした人々の中で彼は人々の心に寄り添ってくれる装置だったのかもしれない。

それを教えてくれたのが今回の『絡新婦の理』なのだ。

私は関口巽が大好きだったのだ。

今更気付くなんて。



しかし終わってみれば、今回の話に関口巽が出てこなかったのも納得だ。

今回の語り部は飄々とした伊佐間一成、考えるより動く木場修太郎、

頭のいい中学2年生呉美由紀の3人で割り合いスムーズに話が進む。

それでいてここまでのシリーズで最長ボリューム。

こんなところに関口が入ってきたら829ページどころの話じゃない。

それに『姑獲鳥の夏』で深く傷ついた関口にとってなんとなくだが今回の話は少しきついような気もする。

今回に限りあの悩ましい小説家を休ませてあげよう。



百鬼夜行シリーズで注目すべきは中禅寺秋彦こと京極堂と榎木津礼次郎の事件に対するスタンスだ。

私立探偵である榎木津は気分屋でいつも突拍子がないが、彼の正しさと変わらなさにはいつも救われる。

彼が出てくるだけで場面がパーっと明るくなってまさに英雄だ、変人の部分も含めて。

探偵として受けた仕事でも報酬をもらわないことがあり、どうやって生活しているのか謎めいている。

京極堂は古書店店主であり、かつ陰陽師も生業としているのであくまで仕事だ。

誰かに依頼されたり、事件が自分の仕事に支障をきたす場合に動く。

だから関口などが単に知人の頼み事として事件の解明を迫っても基本的には動かない。

今回は今川雅澄の正式な依頼によって動く事となった。

榎木津はづかづかと内側から事件に入り込み空気を送り込む。

京極堂は古書店で人々から話を聞き客観的に事実を分析する。

この二人の信頼関係が味噌である。



今回不思議だったのは事件の中心人物ではない今川が京極堂の依頼者だったことだ。

今川は事件のど真ん中にいる織作家の憑き物を落とすよう京極堂に依頼するわけだが、

それって余計なお世話なのでは?と思ってしまうのだ。

それによってさらに3人もの命が失われる事になった。

葵が死んでしまったのはちょっとショッキングだったな。

絡新婦の仕掛けによって遅かれ早かれ失われる命だったのだろうけどね。

憑き物落としの場面では皆個人としてその場に立っている。

木場や青木は警察としての立場を横に置いてしまっている。

不思議でもあり興味深いのが、目的が事件の解決ではなく憑き物を落とすことということだ。

今回の真犯人も結局逮捕される事はなかった。



『絡新婦の理』で面白かったのは、

猟奇的な犯行と全ての事件を企てた蜘蛛(真犯人)との間に距離があるという事だ。

蜘蛛の巣があり糸と糸が交差する点にそれぞれ関係者がいて互いに作用しあって事件を引き起こしている。

気づけば人々は糸に絡め取られ蜘蛛の餌となっている。

実行犯たちは気の毒ですらある。

実際に起こる惨劇と蜘蛛の間には常に距離があり、誰が悪なのかわかりにくい。

掴もうとしても指の間をすり抜けて捕まえられない羽毛みたいに重力のないふわふわとした事件だった。

良い悪いで断ずる事ができない話だからこそ面白いというのもあるだろう。

しかし、これまた面白いのは多分大抵の人はある程度読んだら犯人を予想できるということだ。

それでいて予想以上の結末が用意されているのだから驚いた。



京極夏彦の文章はいつも新しい発見や日々の生活における気づきを与えてくれる。

考え方を180度変えるなど、読む者に強く影響を及ぼす力が彼の文書にはある。

宗教における女性の立ち位置や、武家の父権制度、社会に根付く男根主義的な階層差別意識、

性差別など様々な問題について考えさせられたけど、これに関してはあまり理解できていない。

しかし細かいところでいうと、私の長年持つ疑問に一つの答えを提示してくれた。

それは「大人とは何か」である。その答えが、

「世界と個人を分かつ境界は運動ー経験です。弛まず経験を重ねることで境界は明瞭になる。
大人と子供の境界は呪術ー言葉です。現実を凌駕する言葉を得た者を大人と云うのです。」

正直よくわからないけれど、一つの答えとして覚えておこうと思う。

憑き物落としの一環で発した物とは言え、京極堂の言葉なのだから説得力があるというものだ。

それにしても京極夏彦がこれを書いたのが33歳の時だなんて、もうなんというかね、

書くために生まれてきたんだろうね。



とにもかくにも面白うござした。



さーて次は上下2巻かぁ〜さらに長いな〜、、、やっふーい!

苦痛は快感か、、、。

早速『塗仏の宴ー宴の支度』を読み始めたら最初から関口巽が語り部ではないか!!

わーい!わーい!思いの外嬉しい。

やはり私は関口巽が好きなんだ。
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