歩くたんぽぽ

たんぽぽは根っこの太いたくましい花なんです。

ドラセナ成長日記

2019年12月24日 | 日記
今年の春ころ花屋で1本100円のドラセナが売っていた。

多分マッサンゲアナかゴールドコーストだと思う。

相場を知らないけれど、安っ!ってことで2本買った。

以前切り花でも挿し木ができると聞いたことがあったので、

ドラセナの挿し木方法を検索しそのようにしたのだ。

とりあえず水揚げをし枝の先端の葉っぱを3、4枚だけ残しておく。


残した葉っぱは半分にカット。


水を吸い上げる面積を広げるため斜めに切る。

花屋で売っている植物が命を吹き返すなんてあるわけない、

と思っていたけれど本当に生き返ったらと思うとワクワクした。

まる1日水揚げしてあとはぶっきらぼうに土に挿しておく。

これが5月17日のこと、あとはドラセナとの根競べ。



管理方法は簡単で枝が乾かないようこまめに水やりをするだけ。

それから1週間ほどすると葉っぱが枯れてきた。



これ大丈夫なの?と思っていたら6月に入って、

↓幹のちょうど真ん中あたりに小さな突起が出てきてた。

生きている兆しが見えて少し安心。



葉っぱが枯れ落ちたところで一つは室内、一つは屋外に置いて様子をみることに。

するとどういうわけか室内管理の方はみるみる元気がなくなり、

屋外管理の方はどんどん元気になっていくではないか。

室内は風がないのがダメだったのか、しまいには枯れてしまった。

↓これが屋外の株、6月7日。


↓6月12日。


↓6月21日。


↓そして半年が経ち現在のご様子。


挿し木見事成功ですな。

1つは枯らしてしまったけれど、想像以上に簡単だった。

ドラセナの生命力恐るべし。

切り花の時と比べ葉っぱは小さく、色はほぼ一色で濃いけれどいいじゃない。

立派な木になってくださいな。

そして懲りずにまた挑戦、

今度は同じドラセナの挿し木とミリオンバンブーの水栽培。

今は季節が悪いからうまくいかないかもしれないけれど、

それでも生き返ったら最高だなぁ、むふふ。

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談春の文七元結

2019年12月22日 | 演芸
年末年始は落語を聞きたい、なんてここ数年の生かじり感覚だけど、やはり今年も聞きに行く。

去年は六本木EXシアターにて立川志の輔「歓喜の歌」を聞きに行き、

本物のママさんコーラスによる生歌のサプライズを受けた。

大音量のベートーヴェン「歓喜の歌」はすごい迫力で、幸せな年末となった。



さて、今年は三軒茶屋の昭和女子大学人見記念講堂にて同じく立川流の立川談春「文七元結」。

35周年記念独演会『阿吽』ー平成から令和へーの1日目で、2日目は「芝浜」をやったらしい。

談志のこともあるので談春の「芝浜」も魅力的だったけど、私が公演を知った時すでに売り切れていた。

談春は若い頃ギャンブル狂だったこともあり、彼の「文七元結」は説得力があるとどこかで聞いたことがある。

むしろ1日目がいいではないか、と夫と二人で寒い中三軒茶屋へ向かったのだ。





志の輔の時同様2階席の端っこでげんなりしたけど、2階席はカーブを描いているので高座は思いの外近かった。


一階席から見た舞台。



19時過ぎ、お囃子が盛り上がって立川談春登場!!

わははぁ〜2回目の談春だ〜!

1回目の時は寝不足に加えお腹を壊しほとんど覚えていないのでリベンジ気分。

1話目は枕は無く、「百両欲しい〜」で始まるおなじみの「夢金」だった。

強欲な船頭が手柄を立て大金を手に入れたが、それは夢でしたという所謂夢オチの話。

今までいろいろな人の「夢金」を聞いたけれどこの話はどうも好きになれない。

そもそも夢オチがあまり好きじゃないし、落語×物騒という組み合わせが肌に合わないのかも。

それでもだいたい40分あった談春の「夢金」は体感時間15分。

自覚がないほど集中して聞いていたみたいで、面白かったのかすらよくわからない。

そして休憩15分を挟みいよいよ「文七元結」だ。



「文七元結」は言わずと知れた人情噺。

本所達磨横町の左官の長兵衛は腕はいいが、博打にはまってしまい家は貧乏で借金だらけ。

夫婦喧嘩が絶えず、見かねた娘のお久が吉原の佐野槌に自分の身を売って急場をしのぎたいと駆け込む。

それを知った長兵衛が佐野槌を尋ねると、店の女将は娘を担保に借金分の50両を貸してくれるという。

2年後の大晦日を期限にし、お久にはそれまで女将の身の回りの仕事だけをさせるが、

期限を1日でも過ぎれば女郎として店に出すという。

腕のいい左官なんだから死に物狂いで働いて返済しなさいと説教を受け、

情けないやら女将の人情に感謝するやらとにかく長兵衛は改心し店を出た。

そんな帰り道、夜の吾妻橋で身投げしようとする青年に出くわす。

訳を聞くと青年は店の旦那から集金の使いをうけたが、

その集金した50両をすられたので死んでお詫びをしようとしていたらしい。

長兵衛は「死んじゃあいけね」と何度も諭すのだが青年には響かない。

長兵衛は最後の手段に懐の50両を出しこれを持っていけという。

どんなに苦しくても俺も女房も娘のお久も死なねぇ、でもお前は50両ないなら死ぬという、

だからこの金はお前にやる、何があっても死んじゃいけね、と。

青年も受け取れる訳もなくしばらくすったもんだした挙句、長兵衛は青年に財布を投げつけて走り去った。

さて、借金が倍に膨れ上がった長兵衛の家はもう大変、夜通し夫婦喧嘩をし朝になったところで扉を叩く音。

いったい誰が訪ねてきたのか?借金は?お久は?青年は?いったいどうなることやら。



私は「文七元結」みたいに演じるのが大変そうな王道大ネタが大好きだ。

「死神」「紺屋高尾」「居残り佐平次」「品川心中」「子は鎹」、

桂米朝の「地獄八景亡者戯(じごくはっけいもうじゃのたわむれ)」等々。

中でも「文七元結」は聞いた回数が多く、YouTubeで聞いた古今亭志ん朝の噺がお気に入り。

生粋の江戸っ子だからか、あけすけでいいんだよね〜。



さて、今日は談春の「文七元結」だけど、談春に対する多大なる信頼と期待、

当たり前にいいと思っている観客の惰性を彼は見事打ち砕いてくれたと思う。

まず始まりから驚かされた。

普通は、というか今まで聞いた全ての「文七元結」は

博打で大負けした長兵衛が家に帰ってくると、妻に「お久がいなくなった」と言われる場面から始まる。

そこに佐野槌の使いが来てうちで娘を預かっているというので店に向かうのだ。

しかし今回の談春は、いきなり女将さんの説教から始めたのだ。

初めて聞いた人は噺についていけず、最初戸惑うかもしれない。

というか、わかっている私でさえ大いに戸惑った。

最初の夫婦のやりとりで家族の人柄や事情を読めるし、

汚い女の着物を着て店に向かういきさつや番頭に羽織を借りる様子など、

初めの方にも好きな場面が散りばめられているから、それ全部捨てちゃうの!?と残念な気持ちにもなった。

偉そうに初心者の夫のことを慮った。



寄席などで大ネタをやる場合時間の兼ね合いで噺を短く区切ることはよくあるが、

独演会でもそういうことがあるのかななんてウダウダ考えていたとき、はたと閃いた。

談春だぞ、はじめを大胆に削るということは他に膨らませたい場面があるんだ。

そしてそれは佐野槌の女将さんの説教と吾妻橋のやりとりに違いない。

この人はひとところに留まらないんだ、変化し続け今に挑戦しているんだ!そう思うと鳥肌がたった。

この時はまだそれがどういう化学反応を起こすのかまではわかっていなかった。

案の定くどいくらい長い女将の説教と、長兵衛の「死んじゃいけねぇ」という説得の場面、

人情味溢れた女将さんと、見知らぬ青年に借りた50両を渡してしまう気のいい長兵衛が強調され、

会場は談春の一言一言に息を飲んだ。

この面倒くささが最高だよ、談春師匠!

そうしてある意味で抑圧された空気が、近江屋の番頭の吉原通いがバレる場面で弾け、会場が大笑いに包まれた。

自分でもなんでこんなに笑えるのかわからないけど、なぜか笑いが止まらない。

それから長兵衛と妻の喧嘩、訪ねてきた近江屋との噛み合わなさに会場がどかんどかん。

前半のくどいくらいの人情噺が後半笑いに転化し、動き出した空気はもう止まらない。

その時の状況を後で夫は「あの時光が見えたよね」と表現していた。

キラッキラが目に見えるほど、あの時高座の談春は輝いていた。

いや、輝いていたのは談春による「文七元結」なのか。

何て幸せな場面に居合わせたのだろう。

あれだけ削ってなお1時間半の長丁場だったけれど、とても短く感じたのは言うまでもない。



「文七元結」はもともと笑う場面は多くないし、談春もあまり笑わせない落語家だと思い込んでいた。

まさかこんなことになるとは予想だにしなかった。

公演が終了し会場を出る人ごみの中、そこかしこから観客の興奮の声が聞こえてきた。

すぐ後ろの若い男の集団は大きな声で「立川談春すっげー!!まじでやばい!!さすが!!」と騒いでいた。

私はほんとそうだね、と心の中で何度も頷いた。



それから数日経った昨日、今年の面白かった大衆娯楽について夫と話していたら、

夫は「俺はやっぱブンシュンかな」と言い出した。

世間を賑わすあの週刊文春?と思ったけど談春のことを言いたかったらしい。

いいんだけど、うん、なんか台無しだよ。


人見記念講堂から出てくる観客。
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膝のコブ

2019年12月11日 | 日記
彼らは覚えていないんだろうな〜。

こういうのって言った方は覚えていなくとも、

言われた方は忘れられないというのがセオリー。

こっちも普段は忘れているんだけど、

ふとしたことで記憶が鮮明に蘇ったりする。



10年以上前になる、

私がまだ高校生だったころ、

制服のスカートは周りに合わせて膝上まであげていた。

当時たしかに思春期特有のムチムチ体型だったと思う。

母は私の膝小僧を見て不躾に、

「たん、その膝の上のコブは何?」と聞いてきた。

いや、それは私の贅肉が膝に乗っかってるだけでコブでもなんでもないよ。

こっちは恥ずかしさと腹立たしさでムスッとしながら、

「なんでもないよ、気にしないでよ。」てな具合。

その場に居合わせた父が察して、

「いいんだよ、コブじゃないから。」

と場を濁してくれた。

すると母は純粋無垢な表情で、

「コブじゃないならなんなのよ。」と掘り返す。

父は「いいんだって。」とごまかす。

母は納得がいかないらしく、

「なんか変な病気じゃないの?大丈夫なの?」

父は面倒になったのか、

「膝に太ももの肉が乗っかってるだけだよ!」って。

パリーンッ!

父の口から逃れようのない真実を突きつけられる。

それでも母は「そんなことあるはずない」って譲らない。

もう二人ともなんなのよ!

二人がヒーットアップすればするほど、

見えない刃物が思春期ハートにザクザク刺さっていく。



「だっておかしいじゃん!」

「だからたんは太ももがー」

いやもうどっちもどっち。

母は足が細く太ももの肉が膝に乗ったことがなかったので、

本当に意味がわからなかったのだろう。

それはもはや私云々の話じゃなくなり、二人の言い合いになっていた。



なぜ今さらこんな会話を思い出すのか不思議だ。

今思い返すと、

母の悪気のなさと父のフォローにならないフォローが可笑しくてたまらない。

膝上の件は思春期特有の問題だったわけではなく、

その後も贅肉は所定の位置に留まり続けたとさ。


ブプレリウムの透き通る葉脈。
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こころの時代

2019年12月06日 | 日記
ネットの誹謗中傷で韓国のアイドル、ク・ハラが自ら命を絶ったというニュースがなんだか頭から離れない。

とても綺麗な子だったし、グループの中でもっとも目立つ位置にいたように記憶している。

韓国は書き込みが過激だというけれど、きっとどこの国もそこまで変わらないでしょう。

匿名で悪質な誹謗中傷を書く側は言語道断だけど、

実態のない言葉で死を選ぶほど追い詰められてしまう人がいる現状にやるせなくなる。



なんで自らの言葉に責任を持たない他人の妄言にそこまで振り回されてしまうのだろう。

と、ずっと不思議に思っていたけど、匿名って考えようによっては攻撃力が倍増するのかもね。

「匿名」イコール「実態がない」と判断するのは性急に過ぎるか。

なぜなら匿名で書く場合その内容は本音である可能性が高いからだ。

本名で言葉を発するとき、多かれ少なかれ人は他人に対して理性が働く。

こう考えると不思議な現象が起きる。

「匿名で語るときー本音」

「本名で語るときー建前」

わかっていたことではあるけれど、改めてこうやってみるとなんかおかしいな。

冨樫義博の漫画『レベルE』で主人公が本音と建前を間違える場面には笑った。



あるいは匿名云々というより、質より量ということもあるのかもね。



ストレス発散の手段、面白半分、単純な悪意あるいは一方的な正義感。

今までは建前の中にしまって表面化することのなかった思いが、

良くも悪くも堰を切ったようにこのSNS時代に噴出しているんじゃないかな。

その負の部分が人の死を通して具現化している。



人間誰しもこころの奥底には真っ黒いものが潜んでいる?

確かにそういう一面もあるのかもしれない。

でも最初にあるのは真っ黒いものというよりその種のようなものなんだと思う。

気軽に発信できるSNSはその種の成長を促す肥料の役割をしていて、時代が悪意を育てている。



帰る場所のない悪意がネットの世界に積もっていく。

無責任に放たれた言葉がウイルスみたいに誰かのこころを蝕んでいく。

OZさながらの増殖力で一気に膨れ上がった悪意を一身に受ける苦しみは計り知れない。

人を傷つけるということに対して、もう少しだけ想像を働かせることはできないだろうか。



SNSってのは情報収集とか宣伝とかライトなコミュニケーションツールとしてやはりとても便利だ。

でもそいつとの関わり方は人間側が自覚的にコントロールしなきゃいけない。

嫌な言葉には壁を作ればいい、傷つく言葉は見なくていい、辛いなら手放そう。

頼むからそんな無責任な言葉に傷つかないでおくれ。



これから本当に心配なのは子供だ。

小学生がスマートフォンを持つ時代である。

人に対する距離感や言葉に潜む違和感など物事の判断が難しい無防備な子供が、

ネットという無法地帯に軽々と足を踏み入れることができてしまう。

先月起きた小学生誘拐事件も発端はSNSのやりとりだったという。



時代というのはいったいなんなのだろう、便利な言葉だね。

今はどういう時代なんだろう。

令和、IT時代、長期安倍政権時代、過渡期、21世紀、00年代ならぬ10年代、個の時代。

何もかもが尊重されるハラスメント時代、何もかもが嫌悪されるハラスメント時代。



あえて言うならこころの時代。

いつだってそうなんだけど、今こそ強く生きなければいけないと思うんだ。

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