歩くたんぽぽ

たんぽぽは根っこの太いたくましい花なんです。

深夜1時の散歩道

2013年02月18日 | 日記
深夜1時、トイレットペーパーが切れた。
日々の怠惰がここにひびく。

寒さ際立つ2月の深夜、同居人のモンベルのダウンを拝借し、家を後にする。
BGMはQUEENの「Killer Queen」。


住宅地であるこの街は、この時間になると停止する。
あと何時間もすれば、夜の反動で黒い人達が弾けるように溢れ出す。
その黒い人達はミヒャエル・エンデの『モモ』に出てくる灰色の男たちを彷彿させる。
灰色の男達は無知な人々にうまいことを言って彼らの時間を盗んでいく。
時間を盗まれた人々は、止まらぬ時間に合わせてせかせかと日々を送るのだ。

朝の電車で目の前にいる黒い人たちは、どちらかというと時間を盗まれている方か。
資本主義の社会構造が時間泥棒とすると、全く関係ないと思っている自分自身もその社会を構成する一因子に過ぎない。

みんなの時間を取り戻すために戦うモモにはなれなくとも、自分の時間くらいは取り戻せるかもしれない。
まずは敵を知ること。
敵は平等、無機質かつ無慈悲な時間か、
あるいはただの繰り返しに思える日々の労働か、
あるいは忙しそうな周りの人々か、
あるいは周りに流されている自分自身の意思の弱さか、
あるいは未来を支配する過去か。

そしてそれは本当に敵なのかと疑ってみる。
それらを敵だとすればするほど、頭が鉛のようにかちんこちんになる。
敵をつくってしまうと自分が頭でっかちになるだけなのだ。

戦うとは逆の発想で、一見敵だと思えるそれらを受け入れてみてはどうだろうか。
受け入れるという行為は、勇気が必要なうえ諦めと紙一重なわけで簡単なことではない。
が、この感覚を言葉で説明するのも難しい。
宮沢賢治の言葉を借りるのであれば、
「あらゆることを、自分を勘定に入れずに、よく見聞きし分かり、そして忘れず」
ということのような気がする。

道行く人の中で一回立ち止まってみればいい。
人の流れは時間の流れを象徴している。
その流れを止めることは出来ないが、その流れを認識しじーっと観察することはできるはずだ。
当たり前すぎて意識しないけれど、「時間が流れている」ということを知るだけでも自分にとっては大きな意味がある。


私はいつも朝早いのでこんな時間に街を出歩くのは久々だ。
普段よりゆっくり歩いてみると、とても心地よくてわざわざ遠回りをして帰ってきた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする