歩くたんぽぽ

たんぽぽは根っこの太いたくましい花なんです。

神がみた夢

2013年03月19日 | 日記
誰しも忘れられない「あの時」をもっているはずだ。
それは人によってたくさん持っているかもしれないし、強烈なあの時が他の時をかすめてしまっているかもしれない。

人は忘れやすく、忘れ難い。
記憶なんて曖昧なのに、記憶こそがあらゆる物の存在証明であるからどうも軽視できそうもない。

私が群馬の大学生だった頃だからほんの数年前である。
アルバイト先に仲のいい年上の女の人がいた。
彼女はいつも体の不調を訴え、その痛みが心まで到達してしまっているようだった。
肩には大きな石がどっしりと乗っかり、腰痛からくる体全体のけだるさは周りが思うよりずっとひどいものだった。
実際のところ体から心という流れなのか、それとも逆の流れで壊れていくのか私には分からなかった。
彼女は過去の恋愛に大きなトラウマを持っていて、いつもそのことを口に出しては私は馬鹿だとこぼす。
彼女自身もなんでそんなに体と心の具合が悪いのか分かっていなかった。
でもきっと答えが欲しかったのだと思う。
その矛先が過去の恋愛だった。

私には何も分からなかった。
自分という存在さえこんなにもあやふやなのに、人のことなんて分かるわけがない。
私はひたすら話を聞くことしか出来なかった。
それでも大学時代は長い時間を一緒に過ごした。

ある夜に彼女が「奇麗な工場を見に行かない?」と誘ってきた。
彼女の車はいつもthe pillowsが流れていた。
山中さわおの独特な声と優しい歌詞。

奇麗な工場なんてあまり想像できなかったけど、本当に奇麗だった。
大友克洋の「スチーム・ボーイ」に出てきそうな入り組んだ工場で、いたるところからうっすらと煙が立ち上り、それはちょっとしたファンタジーのようであった。
窓を開けて「奇麗だー」なんて大きな声をだして、この時を記憶にとどめておこうなんて思ったのだった。

帰り道、忘れもしない。
きらびやかでぼんやりとした人工的な光が道路を挟み、街のまぶしさの中で彼女は言った。
「神がみた夢なんだよ。これ全部。」
突然の言葉にはっとし、そして意味もなく泣いた。
意味なんてない。
意味なんてどこにもないのだ。

彼女はすぐ泣くし、暴言も吐くし、いつも疲れた顔をしていた。
できるだけ寄り添ったつもりでいたけど、それも単なる自己満足だったのかもしれない。
大学を卒業し群馬を離れてから、彼女とはいろいろあったりなかったりであんまり連絡を取らなくなっていた。
というか一番の原因は私の非常識なほどの連絡無沙汰にあったのかもしれない。

しかし今でも彼女のあの時の言葉をふと思い出すことがある。
そして何とも言えない感情にとらわれるのだ。
雨上がりの湿っぽい匂いと、窓ガラスに張り付いた水滴に滲む街の光。

忘れられない「あの時」。
厳密には「忘れられない」というほど傲慢でなく、「忘れたくない」というほど志向的でもなく、もっと自然でもっと優しい記憶。
彼女に手紙でも書こうかしら。
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喫茶店の店長

2013年03月10日 | 日記
私の住んでいる町は住宅街である。
駅には大きなショッピングモールがあり、少し歩くと大きなマンションが無数に立ち並んでいる。
この大人びた町に2年住んでいるが未だ馴染めないでいる。

そんな町に、ひとつだけ熱心に通う喫茶店がある。
店の雰囲気がとても気に入っている。
それはアンティークな装飾であり、
個性豊かな店員であり、
またゆったりとした時間を共有できる客であり、
おいしいコーヒーとおいしいカツサンドがつくる絶妙な調和。

特に足を運ばせる要因は、魅力的な店員たちである。
30歳前後の茶髪の男性店員はいつもフランクに話しかけてくる。
一見チャラチャラしているように見えなくもないが、その軽い感じが人に心地よさを与えてくれる不思議な人だ。
そしてこれまた30歳前後の黒髪短髪で眼鏡をかけた女性店員。
彼女は地味だがいつも柔らかい笑顔で優しく見守ってくれている。
さらに白髪の無口かつ紳士な60代の男性店員もいてなんだか物語に出てきそうな喫茶店なのである。
なにかとスピードが要求される都会で、ここだけ時間の流れる早さが違うのだ。

昨日も仕事終わりに友達と二人その喫茶店に行ってきた。
そこで人との出会いがいかに刺激的であるかを実感することになる。
それは「ネバーランドはどこにある?」という冗談からはじまった不思議なお話。
私が「太平洋にあるんじゃない。」と適当に答えると「太平洋はどこにあるの?」と友達が返す。
「ユーラシア大陸とアメリカ大」という私の言葉を遮って友達が「後に地球儀があるよ。」と言った。
そこから地球儀を使った地理と歴史の勉強会。
話は世界の地理から日付変更線、アフリカの国境から大国の大航海時代と帝政、何度となく続いた世界大戦、
冷戦と代理戦争、資本主義と共産主義、そしてアメリカの帝政と中南米の革命、チェ・ゲバラとフィデル・カストロ。
私が理解している範囲で思いついたことをベラベラと話し、友達は疑問に思ったことを質問する。
答えられることもあれば、想像もしなかった質問をされ答えられないこともしばしば。

日曜日の夜だからか気づけば私たち以外客がいない。
チェ・ゲバラのみならず、医学を勉強中のエルネスト・ゲバラ時代の話なんかしたものだから、
いつもは無口な60代の男性店員が珍しがって話しかけてきた。
「君たち面白い話をしているね。革命とかなんとか。」
「あ、はい。地球儀があったもので。」と私たちはへりくだった笑顔で彼に答える。
「あの時代は日本も凄い時代を迎えていた。」
「はぁ」
「革命っていうのは現政権をぶっ壊すことを言うよね。それは確かに凄いことだけど、問題は革命の先に何もないことなんだ。日本の場合がまさにそうだった。」
そしてより込み入った話しに発展していく。

運動を起こすにも社会人ではすぐつぶされてしまうこと。
学生がやることに意味があったのは社会的に無力だったから。
その学生を支援する組織がいくつもあったこと。
その影にはロシアや中国、北朝鮮の存在が隠れていたこと。

話が途切れることは無かった。
彼はタバコを取り出し、とても自然に隣のテーブルに腰掛けた。
話しの途中で彼がこの喫茶店の店長であることがわかった。
彼は何年も珈琲屋をやっておりその中で驚くほどの人脈をもっていた。
国籍は問わず、アメリカ人や韓国人、時には政府の要人や伊勢神宮の神職など様々。
彼自身の好奇心と人とのつながりの中で得た立体的な話は、物語のようでとても面白い。
実にいろんなことを知っていた。

彼は最後にこんなことを言った。
「今の若い人はインターネットとか調べる方法がいくらでもあるから、確かにいろんな知識を持っている。
でもその知識の多くは比較に使われるただの引き出しに過ぎない。
それ知ってる、それ聞いたことある、それは単なる比較論だ。
日本の学校は東大が一番じゃないことを教えない。
東大生は確かに引き出しをたくさんもっているという意味では一番かもしれない。
でも創造性ということになると驚くほど弱いんだ。
大事なのは知識の先にある創造力だよ。」

高校生の時に読んだ『ミュンヘンの小学校』という本を思い出す。
創造性を育むためにミュンヘンの小学校はいかに取り組むかという話だ。
私の父も耳にたこが出来るくらい同じようなことを言っていた。

そしてこう付け加える。
「物事を理解する上で重要なのは比較論に使われる知識ではなく、存在価値を認めることだよ。
それは人に対しても同じこと。
そのためには挨拶するだけにしても一回その人の前で立ち止まるんだ。
通り過ぎながら挨拶するのと一回立ち止まるのでは全然違う。
すべてはそこから始まるような気がする。
でも都会は通り過ぎるスピードが速すぎてなかなか難しいね。」

気づけば閉店時間をとっくに過ぎていた。
「じゃ今日はこれくらいにしておこうか。」
物語の続きがきっとあるんだと思う。
それはまだ分からないけれど、彼に会うために私はまたこの店に来る気がする。

帰り道、太平洋の位置を知らなかった友達が目を輝かせて「面白かった!」と言っていた。
生粋の都会育ちだが、この人もなかなか面白い人なのだ。
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