歩くたんぽぽ

たんぽぽは根っこの太いたくましい花なんです。

談春のチケット

2018年10月24日 | 演芸
今日の13:00は立川談春の2018ファイナル公演のチケット抽選結果発表だったのだけど、

確認ページには素っ気なく「チッケトをご用意することができませんでした」と一言。

今までこれだと思ったチケットの抽選はほとんど当たってきたのに、談春では3連敗中。

誰かの「死神」じゃないけど、運を使い果たしちゃったのだろうか。

今最もチケットが取れない落語家の一人、立川談春の人気は伊達じゃない。

TBSドラマ『下町ロケット』に殿村役で出演しているので一応録画しているけれど、

決定事項のように毎回ある泣き所がどうも肌に合わずまだ観ていない。

談春の年明けの2公演と志の輔の年末パルコ公演はどうか当たりますように!!



最近談春のYouTube動画が増えていたので載せておく。

王道古典「文七元結」

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ゾンビに会ったら

2018年10月19日 | 空想日記
大学の映画研究部のJ先輩はゾンビが大好きでいつもゾンビのショートムービーばかり撮っていた。

夜な夜な大学の文化サークル棟に集まっては、みんなでやいのやいのやったものだ。

意外に思われるかもしれないけれど、私は彼の映画で何度か主役をつとめたことがある。

当時は声が小さいと注意される度に、軽々しく引き受けるんじゃなかったと後悔していた。

私はJ先輩のことを相当変わった趣味の持ち主だと思っていたけれど、

ゾンビオタクというある一定の趣味層は確かにあるらしい。



リビングデッド、生ける屍なんて呼ばれるゾンビだが、それっていったいどういうことなんだろう。

死んでるの?生きてるの?

昔のゾンビ映画に出てくるゾンビは墓場から出てくる。

死者が棺桶の中で朽ち果て腐った頃なんらかの力が働いてゾンビになるわけだ。

死者が蘇ったバージョンのゾンビはモンスター像として分かりやすい。

つまりゾンビは死んだ人間ということになる。

概念としては中国のキョンシーに近い。




『スリラー』



ではゾンビ映画でよく見られる感染に関してはどうだろう。

ゾンビに噛まれた人もゾンビになるわけだが、それは不思議な話だ。

この場合時間の経過を必要とせず、一瞬にして朽ち果てたゾンビとなる。

人々はゾンビになりたくなくて必死で逃げ惑う。

こうなってくるとゾンビは感染症だ、モンスターというより病に近い。

狂犬病に感染した犬が精神錯乱し凶暴化するなんて話を聞いたことがあるが、それに似ている気がする。


『アイアムアヒーロー』



ゾンビ映画を観ると毎回同じことを思う。

とてつもない恐怖の中一生懸命逃げて少数で抗う主人公が多いけれど、

早々にゾンビになった方が楽なのではないか、ということだ。

怖い話は好きだけど、自分に本物の恐怖が降りかかったら一刻も早くそれから逃れたいと思うはずだ。

私のイメージでは、ゾンビになると自分がなくなっていく。

ゾンビの侵入とそれを拒絶する自我のせめぎあいは確かに辛く苦しいものだが、

それを超えてしまうと靄のかかった生ぬるい感覚の中に身をまかせることになる。

頭が働かないので何も考えなくていい、ただ外側の衝動に任せておけばいいのだ。

一番幸運なのは振り返る間もなく後ろからゾンビに噛まれてよくわからないまま感染するというパターンだ。


ゾンビと戦う代表者アリス



そんな妄想をしばらくお腹の中で寝かせていたが、つい先日夫Kに話してみた。

私:「ゾンビが襲ってきたら早々にゾンビになった方が楽だと思わない。
   逃げ切るのは精神的にも身体的にも相当大変だよ。」

K :「でも、誰も死にたくはないんじゃない。」

はっっっ!!

ゾンビはやっぱり死んでいるという認識なのか。

ゾンビになりたくない、というより死にたくないのか。

初心を忘れていた、というかソンビについて考えすぎて頭がこんがらがっているかもしれない。



でも「ゾンビ=死」で本当にいいのか。

たまに多重人格のように、ゾンビに侵された人格が一瞬出てきて主人公を助けるなんてことがある。

そうなると人格感染みたいな話になるのか。

ゾンビになることを恐れて自ら命を断つ者もいるわけで、もしかしたら死より恐ろしい状態なのかもしれない。

自分がなくなるというより、ゾンビという無間地獄に陥るような感じ。

今日の結論は、ゾンビとは曖昧な概念であり、明確に定義づけるのは難しいということ。

なんとなくゾンビっぽければだいだいゾンビなのだろう。

というわけでゾンビ素人の妄想の時間でした。



言わずと知れたゾンビ映画の名作『ショーン・オブ・ザ・デッド』、ゾンビ嫌いでも観れると思うので是非。



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最高だよ!ギラギラジャパン!

2018年10月17日 | スポーツ
ここ数日は曇りの日が多いけれど、たまに天高い青空を垣間見ると気分が軽くなる。

毎年しつこいくらい「やっぱり秋はいいな」と思うけれど、

時間は過去と未来をつなぐ一本の線路の上を走っている訳だから、

親しみ深いいつもの秋だと感じていても実際は真新しい秋なのだ。

カレンダーを見れば私たちは月日をループしているようだけど、

それは地球が太陽の周りをループしているだけなのであって、時間はループしていない、

、、、かどうかは厳密にはしらないけれど。

それにしても昨日の日本代表の試合は面白かった。




昨日、日本男子サッカー代表はキリンチャレンジカップで格上のウルグアイ代表と対戦し、4−3で勝利した。

なんとなくいい試合をしてくれるんじゃないかと期待していたけれど、まさかウルグアイから4点も取るだなんて!

スアレスはいなかったけれど、ウルグアイ代表にはカバーニやゴディンも顔を揃え、ほとんどがW杯メンバーだった。

親善試合とはいえウルグアイとしては去る10月12日に韓国に2−1で負けているので、

日本にまで負ける訳にはいかなかったのではと思う、あくまで想像だけどね。

もしウルグアイ側に多少なり事情があったとて、そんなことはどうでもいいくらい新生日本代表は面白かった。

新生10番の中島をはじめ、2点決めた南野、海外でも評価されている20歳の堂安と若手の躍動が目立った。




何がいいって、試合が動くから見ていて楽しいのだ。

相手にもたくさんゴールを決められるけれど、こちらも負けないくらいゴールを狙うし、ちゃんと決める。

中島が試合中ずっとニコニコしているのも印象的だった。

今の若手は今までの日本代表、というか日本人選手にあまり感じなかった「ギラギラ」感を兼ね備えている。

奥ゆかしくない、なんならふてぶてしいくらいの精神力が頼もしい。

守備面など改善点はあるのかもしれないけれど、始まったばかりの新チームなのだから変に縮こまっていなくてむしろいい。

森保監督の表情もよかった。

軽い表情で「ふんふん」と言わんばかりにメモをとっている。

せっかくのウルグアイ相手なのだから、とれるだけ情報をとろうという感じだ。




私の一番好きなシュートは後半2−2に追いつかれ、もはやここまでかと思いはじめたときに堂安が決めたゴールだ。

自らチャンスを作って鋭角にシュートを決めた瞬間、あたしゃもう感動したよ。

あなたたち本当にすごいよ。




この若いチームの外側を一生懸命走っている32歳の長友をはじめ、新キャプテン吉田麻也、柴崎、大迫と、

ロシアW杯メンバーはそれでなんだかホッとさせてくれるものがある。

長友の安心感はなんだろう、あの優しい顔かな。

年明けのアジアカップが楽しみだ!



ウルグアイ相手に奇跡の2点差を記念に撮っておいたので載せとこ。
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ジレンマⅠ 原作と映像化の狭間

2018年10月14日 | 日記
ジレンマとは、

「 二つの相反する事柄の板挟みになること(コトバンク)」である。



最近自分がいかに一貫性のない人間かということを痛感している。

何でも前もって決めておかないと、自分というコンセプトが霧散して消えてしまいそうだ。

ヒトは大なり小なり多くの矛盾を抱え、日々立ちはだかる様々なジレンマに思い惑う。

おおげさか、それでも主知的であろうとすればするほど早急な選択を迫られる。

お前は、右と左どちらに進むのだ?

どうあるべきかなんてそこら辺の石ころくらいどうでもいいはずなんだけど。

改めて周りをぐるりと見回すと、ジレンマはそこら辺にゴロゴロ転がっている。



私は本、映画、漫画、ドラマ、アニメなど娯楽と名のつくものはだいたい好きだ。

それらについて考えるときの留意点は、私が原作原理主義的な性質を持っているということ。

何より原作に重きを置いているため、二次的な創作物に触れるときその目がキッと厳しくなる。

原作と映像化と銘打ったが、ここでは本や漫画の映像化ということだけでなく、

映像作品間におけるオリジナルとリメイクという観点も含める。

兎にも角にも原作、オリジナルこそが本物であり価値があるのだと思い込んでいるわけだ。



映像化や実写化、リメイク作品の原作を知っている場合、今までは必ず原作と比べその違いを指摘し、

そこに発生するある種の優位性に満足していたが、最近それが単なる錯覚に過ぎなかったのだと感じている。

原作を知ってるからって何様なんだろう。

むしろ感想が「原作と比べてどうか」だけだとすると、かなり貧弱な物の捉え方をしていることになる。



よくよく考えると私の原作原理主義もいい加減なものだ。

士郎正宗の原作漫画『攻殻機動隊』より、押井守監督のアニメ作品『Ghost In The Shell』の方が好きだし、

ここ最近で特に面白かったアニメ作品『メイドインアビス』もWOWOWドラマ『イアリー、見えない顔』も、

原作があることは知っているが読んでいないし、今の所読むつもりはない。

つまり自分が原作を好きな場合にのみ発動する自分勝手な原作原理主義、というより、もはやただの趣味人だ。



思い込みは激しいが欲張りなのが功を奏した。

原作は大事にしなければいけないという思い込み、あるいは原作への崇拝と、

面白いものはなんでも知りたいという欲張りな精神が拮抗している。

その性質が「もっとまっさらな気持ちで鑑賞しなさい」と私に語りかけてくる。

「さすれば、もっと面白いものに気づくことができる」と。



原作への敬意は忘れてはならないが、作品という観点から見ればオリジナルもリメイクも同列なのだ。

基準は面白いかそうでないかだけのシンプルな世界のはず。



以前に書いたがNHKのスペシャルドラマ『満願』シリーズは素晴らしかった。

原作という器の上で様々なクリエイターが新たな物語を構築する、それが映像化であったりリメイクなのだ。

それはときに新たな表現への挑戦となるわけで、端から否定するなんて無作法極まりない、のかもしれない。

先週から始まったNHKドラマ『昭和元禄落語心中』でも見てみようかしら。

私が落語を好きになったきっかけの作品だ。



少しだけ頭が柔らかくなったところでまた一つ、最近漫画原作の映画やドラマが多すぎるような気がする。

その売れ線志向には、やはりどこかもやもやしてしまうのも事実。

また、どんなに頭でわかっていてもオリジナルとリメイクを全く別物として切り離すのは至難の技である。

まだしばらくは原作と映像化の間で思い惑う日々が続きそうだ。




ドラマ『昭和元禄落語心中』
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魔女に会いに

2018年10月12日 | 日記
私は子供の頃から魔女が好きだ。

魔女がどういう存在なのか、詳しくは知らない。

しかしそのミステリアスな余白に惹かれるのだ。



私にとって魔女の定義なんぞはそれほど重要ではない。

「大きな三角帽子をかぶった怪しい女性」という程度の、

簡潔で大雑把なイメージさえ当てはまれば魔女なのだ。

魔法が使えれば尚良しだが、使えなくても構わない。

下手したら特徴的な帽子すらかぶっていないかもしれない。

その場合はどれだけ怪しいかという基準ではかることになるだろう。



現実世界でも何人か出会ったことがある。

追い求めているからか、そういう人がいる場所に引き寄せられるのだ。

そしていつもその出会いはどこか奇妙なのである。

今まで出会った魔女らしき女性の中でも特に印象的だった女性が二人いる。

今日はその内の一人の話を書こうと思う。



あれは3年ほど前、夫の実家に帰省中で夫は旧友に会うというので、

暇つぶしに町をふらついていた夕暮れ時のこと。

その町は私が大学時代を過ごした懐かしい町でもある。

駅の近くに私が4年生の頃研修でお世話になったNPO運営のミニシアターがあり、

ジョン・カーニー監督の新作が上映しているというのでそれを見るつもりだったが、

上映まで1時間ほどあったので向かいのカフェで時間を潰すことにしたのだ。

それは蔦に覆われた怪しいカフェで、以前からその外観が気になっていたので良い機会だった。

中に入るとアンティークの家具や食器が雑然と置かれており、

そこだけ時間が止まっているかのような感覚におちいった。

客もおらず店員も見当たらない。

棚に並べられた洋風な置物にしばらく見入っていると奥から出てきた店員に席を案内された。

例のごとくコーヒーを注文して映画の時間まで本を読んでいた。

その時は取り立てて変わったこともなかったのだが、

お会計の時に店員の横にいた70代くらいのマダムに声をかけられた。

M(マダム)「お店、どうでした?」

T(私)「すごい好きです。置いてあるものが一つ一つかっこいいですね。」

M「あら嬉しい。あなた、この後はどうするの?」

T 「 向かいの映画館で映画を観ます」

M「その後はお暇?」

T 「あ、はい、11時頃までは特に予定はないです」

M「それならご馳走するから、またここにいらっしゃい」

確かこんな感じだったと思う。

そしてアイルランドの映画『シング・ストリート』を観て号泣した後、

また草の生い茂った向かいのカフェに行ったのであった。



女性はカフェのオーナーで普段はフランスでインテリアデザイナーをしていた。

その時はちょうどフランスから帰国してカフェの様子を見に来ていたらしい。

店の家具や雑貨は全て彼女がフランスで選りすぐった本物のアンティークらしく、店内の雰囲気にも頷けた。

年上の女性を推し量るのは失礼だが、彼女は化粧は濃かったが綺麗で知的な人だった。

話も面白くてこんな小娘も共感できるような俗っぽい話も気さくにしてくれた。

約束通り彼女はお酒やおつまみを気前よく振舞ってくれ話は大いに盛り上がり、私は言い難い充足感に満たされた。

なぜ彼女が私に声をかけてくれたのかはわからないが、その夜は忘れ得ぬ思い出となったのだ。



魔女なんて言ったら怒られそうだけど、そのカフェは魔女の家そのものという感じだった。

猫足のついた本物のバスタブを観たのはそれが初めてだったと思う。

きっとお洒落で気さくで明るい魔女が住んでいるのだろう。

連絡先も交換したのにそれ以来そのカフェには行けていない。

近々帰る時はまた寄ってみよう。



最近魔女の絵ばかり描いているので載せておく。


「魔女の作業机」


「魔女の朝」
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