歩くたんぽぽ

たんぽぽは根っこの太いたくましい花なんです。

SUMMERSONIC2013 第2弾

2013年09月13日 | 音楽
1ヶ月遅れてのサマーソニック2013。
なんだって1ヶ月も遅れてサマーソニックのことを書いているのか、
それは今回売りきれてしまったチケットを高い値段で買って連れて行ってくれたスドーの要望だから。
交換条件というか、夏の宿題というか。


会場に入り、初めてのサマソニの雰囲気を体いっぱいに吸い込む。
いつもの出店、いろいろなブース、人だかり、人工的な光、どこからともなく聞こえてくる音楽。
会場内はカウントダウンジャパンより薄暗いイメージだ。
でもただのイメージかもしれない。

ふらふらとブースを散策していたら、音楽配信サービスMusic Unlimitedのブースがあり、
そこで自分たちの写真を無料で缶バッジにしてくれという。
無料のかわりじゃないけど、Music UnlimitedのFacebookに「いいね」をしないといけないんだけどね。
無料だから記念につくってもらうことにした。
ボードに描かれたリンキンパークの前で写真を撮ってもらったのだけど、
二人ともサングラスをかけ真剣な顔でポーズをとるとカメラを持ったお兄さんが笑いながら「いいね」と一言。
こういうのは本気でやらないとネタにならないからね。
50分後に出来るというのでブースを離れることに。


マリンスタジアムとビーチステージ意外は室内なので、夏史上初の快適なフェスになるかと思いきや甘かった。
その日の海浜幕張は35度超で、太陽に照らされたコンクリートはまるで鉄板の様だった。
外に出た瞬間ぼわっと分厚い熱風に襲われる。
熱を帯びた空気の塊は体にまとわりつき、息をするだけでもなんだか重い。

今回来れなかった友達がどうしてもTシャツが欲しいというのでグッズ売り場へ行くことに。
室外のグッズ売り場、長蛇の列、太陽、流れ出る汗、ああ夏。
長蛇の列にならんだというのに納得のいくTシャツが見つからなかったので、また並ぶんだけどその話は省略。
スドーは選りすぐりCyndi Lauper、黒字にファーストアルバム「She's So Unusual」のジャケットが印字されたもの。



シンディかっこいいね。
そしてさっきのMusic Unlimitedのブースに戻り缶バッジをもらった。



思ったよりクオリティが高い。

そしていよいよ、記念すべき本日第1弾アーティストThe1975のステージが始まろうとしていたのだがそれはまた後日。
前置きが長いね。


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SUMMERSONIC2013第1弾

2013年09月11日 | 音楽
1ヶ月遅れてのサマーソニック2013。
あまりタイムリーではないけれど、あの鮮烈な記憶は色褪せない。


意外にもサマソニに行ったのは今年が初めてである。
要領を得ないこともあったけれど、充実感は近年まれに見るフェスであった。
なにせ会場が幕張メッセとマリンスタジアムだから気負いしなくてよい。

横浜から幕張メッセは首都高をとばして約1時間。
ただでさえ首都高は道路が幾重にも折り重なりジャンクションは迷路のような複雑さで、
普段からその非現実さに圧倒されているというのに、朝の首都高はもっと神秘的である。



超高層ビル群が霞がかってまるで近未来を描く映画のワンシーンのようである。


駐車場に着くと既に暑くて、コンクリートがジリジリと照り返す。
ちょっと太陽の下にいるだけで汗が噴き出すほどだ。
抵抗ある人もいるとは思うけど必須アイテムはサングラス。
紫外線から守らなければならないのは肌だけではないのだ。




幕張メッセに入るとまず歴代ソニッカートの横断幕(キャンパス)がお出迎え。
去年私も参加したイベントなので感慨深い。



毎年参加しているRyoheiとかいうアーティストの絵。
この人の絵は臨場感が突出しており、色も鮮やかなのでとても目立つ。




サマソニの客層は今まで行ったどのフェスとも少し違う。
私から見た印象は、ロックに留まらずダンス、テクノ、レゲー、さらにはアイドル系JPOPまでと幅広い。
みんな野外に比べて軽装である。

そして汗だくになりながら会場に入り、いよいよ音楽の祭典が始まる。

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2020年東京オリンピックについて

2013年09月10日 | 社会
2013年9月8日、2020年に東京でオリンピックが開催されることが決まった。

決まった瞬間の会場の盛り上がりといったらすごいとしか言いようがない。
スポーツ選手やメディア人が抱き合って涙を流しその喜びをかみしめ分かち合っていた。

その日、

テレビの前で一緒に喜んだ人、
喜びと違和感を持つ複雑な気持ちの人、
安倍総理の演説に不信感を抱く人、
公言したことで政府の尻に火がつくことを願う人、
福島のことを忘れ去られてしまうのではと不安な気持ちになる人、
カヌーの競技場のために葛飾臨海公園の半分がなくなる可能性を危惧する人、
2020年のオリンピックが東京になることを初めから知っていた人、
そして被災した人、
オリンピックの影に隠れた秘密保全法に警鐘をならす人、

実にいろんな感情や考え方があったに違いない。
そのニュースは一日で日本中を駆け巡り、今やテレビ・新聞といったマスメディアを初めネットや会話の中でもその話でもちきりだ。

手放しで喜ぶ人は、素直に喜べない人を「放射脳」や「非国民」と言った言葉で卑下する。
素直に喜べない人は、手放しで喜ぶ人を何も考えてない大衆として位置づける。

ネット上のあらゆる記事のコメント欄が悪口の言い合いや差別、いやがらせで充満している。
匿名で書かれるひどい言葉のやりとり。
自分の名前をさらして記事を書いている人たちに、匿名で悪口とはどうも不健康な気がする。
いろんな考えがどんどん個別化していき、排他的な雰囲気を押し付ける。

オリンピックと日本の現状は相容れないものなのか。
どっちにしろもう決定したのだから、どうにか最善の方向に持っていくしかないのだ。

昨日ネットサーフィンしていたらこんなやり取りがあった。
まずゆとり世代の男性ー「みんな喜んでるけど本当にこれでよかったのかな。
            福島の汚染水に当てられる資金が470億円なのに、
            オリンピック誘致で国立競技場に当てられる建設費が1300億円。
            今も福島は汚染水が漏れ続けていることを皆知ってるのか?」

そこに書かれたコメント(もちろん匿名)
          ー「だからお前はゆとりなんだよ!
            自分は冷静な立場だとでもいいたいのか?
            それがかっこいいとでも思っているのか?
            喜べないやつは日本人じゃない!」

なんだか落ち込んでしまった。
ゆとり世代の男性は思ったことを書いたに違いない。
もしかしたら少しだけ知っていた知識を自慢げに書いたのかもしれない。
それでもいいじゃないか。
そんなに非難しなくても…。

日本人はニュートラルを好む。
でも特に今回の東京オリンピックを取り巻く世界はあまりにも複雑であまりにも広すぎる。
中立も客観性も前提にふまえなければならないことは十分に分かっている。
そういったある種冷静な立ち位置を保つにも、限定された一部分、一定量、1カテゴリーの域に留まる。
東京オリンピックを相対的に捉えたときに、そんな視点はほぼ存在しないに等しい。

だから思ったこと、感じたことを大事にしよう。
そして自分と違う考え方の人を受け入れるのは難しくてもせめて耳を傾けてみてはどうだろうか。
はっきり言って皆が共有出来る正解はない。

私は自分の考えを知るために今日東京オリンピックをとりまくいろいろをノートにまとめてみた。
これからもっと突っ込んだところまで調べてみるつもりだ。





「東京オリンピック」という言葉を聞くと、アニメ「AKIRA」を思い出す。
AKIRAの世界では2019年が描かれており、冒頭には「オリンピックを翌年に控えたネオ東京」という言葉が!
おかげで作者の大友克洋が2020年の東京オリンピックを予言したって巷が盛り上がっている訳だ。
実際のところは置いておいて、AKIRA見たいな。
あのぶっ飛んだ世界は、そんなに非現実ではないような気がしている。
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雨がやんだらうちに帰ろう

2013年09月08日 | 日記
明日から2連休なわけで、帰り際夕立が降ったとしても浮ついた気持ちになんら影響はない。
浮ついた気持ちは浮ついたまま上へ上へと登っていくだけのこと。

仕事場からボーイフレンドに電話をすると「疲労でこれから寝る」らしく、これでは家でギターの練習もできやしない。
ギターの練習と言ってもコードを押すだけの簡単な練習。

まぁいいさ、何せ2連休が待っているのだから。

’室内から見る夕立’は、いざさらされてみると夕立というにはあまりにも激しく跳ね返る雨粒で足下はびしょ濡れ。
もちろん夕方の雨は朝から把握していたので傘に長靴と備えは万全なのだが、そんな予報は簡単に裏切られてしまった。
その突発性と集中豪雨を意味合い的にも言葉の響き的にも表したのが「篠突く雨」でも「驟雨」でもなく、まさに「ゲリラ豪雨」。

それでもめげずに、いつも暇している友達をご飯に誘うと「NO」。
なんでも母親が足をくじいて、日常生活もままならないのだとか。
彼女は文句を言いながらも素直に帰っていったのだった。

そしてあっという間に自分の町の駅で一人になってしまった。
それでも今日の’何かやりたい気分’は根強かった。
駅の本屋で宮沢賢治の詩集を買い、豪雨にさらされ鞄を抱えながら着いた先はいつもの喫茶店。
雨があまりにもひどいので客はほとんどいないだろうと践んでいたらなんのその、一人客が4、5組はいた。
みんな雨のせいで帰れなくなっているような感じだった。

とりあえず席に着き買ったばかりの詩集を開くと、おじさんが水とおしぼりを持って来てくれたのでいつものスパゲッティを注文。
おじさんは愛想もなければ無愛想もないってな顔でカウンターの方に消えていった。

なんで今宮沢賢治なのかは自分でもわからない。
これといって宮沢賢治の熱烈なファンでもなければ、知っている文章も有名なものに留まる。
実際に彼の本を手にするのは初めてだ。
昔から少しミーハーなところがあって、その矛先が常に同世代の女の子と少しズレていた。
今回はそれが宮沢賢治なのだろう。

子どものときに見た、父の版画「雨ニモマケズ」は今でもなんとなく覚えている(タイトルは違うかもしれない。)
デクノボーが走っているみたいなんだけど、デクノボーっていったいなんなのかさっぱり分からなかった記憶がある。
役に立たない人とか気が利かない人とかいった意味は知っていても、その先がわからない。

あの詩で好きなのが

アラユルコトヲ
ジブンヲカンヂャウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ

という部分。
正確な意図も意味も知らないけれど、感覚的なところで私にダイレクトにつながってくる。

相変わらず外は大雨で、向かいのテーブルに座っているおばさんはちらちらと窓の外に目を向けてはコーヒーカップを口に運ぶ。
隣のテーブルでは作業着姿のお兄さんがぷかぷかとタバコを吸いながら物思いに耽っている。
遠くのカウンターの方ではおじいさんが雑誌を広げて何やら難しい顔をしている。

そうやって周りの人たちを観察しながら、詩を追っているとなんだか目眩がしそうだった。
思っていたより宮沢賢治の言葉が難しかったからかもしれない。
外側の意味すら推測できるレベルに満たないのだから世話がない。
それでもひとつだけ頭に残ったのが「春の修羅」という詩だ。

これは言葉の響きが凄くきれいで

いかりのにがさまた青さ
四月の気層のひかりの底を
唾し はぎしりゆききする
おれはひとりの修羅なのだ

と言った具合(ほんの一部)。
やっぱり意味は分からない。
変かもしれないけど、単純に「うわっ、かっこいい」って思ったのだ。

4、5年前に坂本龍一がNHKのテレビ番組で特集されていたことがあって、その時彼が歌詞について語った言葉が印象的だった。
坂本さんの耳には歌詞は入って来ないのだという。
そこでは歌詞は記号でしかなく、すべて音で認識するのだとか。
例えば知り合いでもある桑田圭祐の歌詞について「理解しようとするんだけど、よくわかんないんだよね。」と言った上で、
相対性理論というバンドの綴る一見ちぐはぐな歌詞の方がまだしっくりくるというようなことを付け加えた。
いい意味でも悪い意味でもショッキングな出来事であった。

私はいろんなことに意味をつけたがるけど、あるいは意味を探したがるけど、
大それた意味なんて最初からないし必要ないのかもしれないと思ったのだった。

そんな感じで詩集を開いたままぼーっとしていると、カウンターの方から「もう雨止んでるわね。」と言うさっきのおばさんの声が聞こえてきた。
「そうですね。だいぶ止んでいるみたいです。」という店長の声を背中にそそくさと戻って来た彼女は本やらなんやらを鞄につめその勢いを失うことなく帰っていった。

隣のテーブルのお兄さんはそれから何本かタバコを吸ってから同じように帰っていた。
気づけば雑誌のおじいさんもいなくなっていた。

そしてまた一人になってしまった。
残ったスパゲッティとシナモンミルクティを口に掻き込み、ちょっとだけ詩集を読んだフリをして私も帰った。

外は小雨だったけど、涼しくて気持ちよかった。
浮き立つ気持ちは消化しきれなかったけど、こんなもんかなって少しだけ納得できたからそれでよし。
明日からの連休を楽しむとしよう。
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