歩くたんぽぽ

たんぽぽは根っこの太いたくましい花なんです。

ブラック・スワン

2016年08月28日 | 映画
『ブラック・スワン』は2010年のアメリカ映画である。

監督はダーレン・アロノフスキー、主演はナタリー・ポートマンだ。



日本でも公開当時は大変な騒ぎになった。

それから数年、気になってはいたもののなかなか手を出せないでいた。

というのも見る者の精神にかなりの負荷がかかると予想されたからだ。

ジャンルは違うが例えると韓国でいえば『オールド・ボーイ』、

アメリカでいえばスタンリー・キューブリックの『時計じかけのオレンジ』や、

日本でいえば岩井俊二監督の『リリーシュシュのすべて』みたいに、

数日はその暗い余韻の中で当て所のない精神の迷いを強いられるような計り知れない名作のように。



そしてついに見る時が来た。

今だったら受け入れられるような気がした。



ナタリー・ポートマンは子どもの頃から好きな女優だ。

何しろ美しい。

そしてこの映画においてその美しさは強調され、故に恐ろしさを増幅させている。

壊したくなる程の美しさとでも言えばいいのか。



最初ソファーに寝転がって見ていたのだけど、途中からそれどころではなくなってくる。

自分でも体が強ばっていくのが分かる。

張りつめた緊張感は切れることがなく、握った手には汗がじんわり。

はっきり言ってそこらのホラー映画とは比べものにならない程怖い。

それでいて深い感動を与えてくれるのだから敵わない。



エンドロールが上がってきてやっと深呼吸する。

一息ついて確信する。

これはとんでもない映画だ。

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部屋が汚くて何もやる気が起きないので

2016年08月24日 | 日記
ただのいい訳だけど、部屋が汚いとやる気が起きない。

どういった類いのやる気かは置いておいて、

とにかく部屋が汚いと空気の流れが悪くなり、

蛍光灯の明かりではごまかせないほどどんよりとしてしまう。



物がごった返す部屋を一掃するためには、

新たな棚を導入しなければならない。

もはや段ボールの積み重ねでは間に合わないのだ。



思い立ったらどうにかしないと気が済まないので、

ソファに寝そべる同居人に「ホームセンターに行こー!」とせがみ無理矢理起こす。

相手からしてみれば勝手に思い立たれても困るだろうね。



ホームセンターにて既製品などいろいろ検討してみるが、

思い描くぴったりサイズの棚となるとなかなか見つからないのが現状。

よし、これはもう自分で作ってしまおう。

根気よく探すより自分で作った方が早いし安い。



まずホームセンターに売っていた一番安い板材(約180cm)を15本くらい買って、

いろいろ計算してその場でカットしてもらった。

その他、ビスやワックス等の備品を買って帰ってきた。



早速作業に取りかかる。

まずは棚になる部分を作る。

板を並べてインパクトでひたすらビスを打ち込む。


大2枚、小2枚作成。



その後出来た棚板に、購入したVintage Waxを歯ブラシで塗っていく。

歯ブラシで塗るのが案外疲れるので途中から布にしみ込ませて軽く塗っていくスタイルに変更。







棚板を塗装後、全体を組み立てていく。





組み立てた棚を立てて、塗っていない部分にワックスを塗っていく。





かつて「日曜大工」と呼ばれたこういう手作り作業を、最近は「DYI」と言うらしい。

「Do It Yourself」の略なんだとか。



とりあえず散らばった物を棚に隙間なく詰めていく。

完成。

何はともあれ床が広くなると気持ちがいいね。

次は押し入れか?

いやいや一旦置いておいた「やる気」とやらに向き合わなければ。

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Creep

2016年08月22日 | 音楽
台風9号が関東に直撃しているらしい。

激しい雨と窓を揺らす風、ラジオから流れてくるエルビス・プレスリーの"Can't Help Falling In Love'。

模様替した部屋の中から雨粒に滲む空を眺めながら、昨日のことを思い出す。



スタジアムに瞬く閃光、

汗の匂いと湿気、

歓喜する人々。



Radioheadが好きだ。

いつから聞いているのかもなぜ好きになったのかも覚えていない。

気づいたら特別なバンドになっていた。



去年は生で音楽を聞く機会がほとんどなかった。

その反動があったのかもしれない。

フジロックにSiger Ros、サマーソニックにRadioheadが来ると発表された時点で、

金欠になろうがなんだろうが今年の夏は音楽に没頭すると決め込んでいた(聞く専門)。



昨日はサマソニの2日目でヘッドライナーがRadioheadだった。

1日目は雨が凄かったらしく昨日も覚悟していたが全く降らなかった。

私は雨女だと思っていたけど、最近めっきり雨が降らないからもしかしたら晴れ女なのかもしれない。



カリフォルニアの韓国系アメリカ人バンドRun River Northに出会ったり、

再結成したYELLOW MONKEYの"JAM"が聞けたり、昼下がりのTwo Door Cinema Clubで優しい歌声に触れたり、

サカナクションで観客が踊り狂ったり、Radioheadを見なくとも十分充実感のある1日だった。

それでもRadioheadを見てしまったら、それだけが頭の中を支配する。



約20分遅れで現れたRadiohead、圧倒的な存在感が会場の空気を呑み込んだ。

さながら全てを吸い込むブラックホールのよう。

壮大で透き通った音の集合体は、色を変えながらどこまでも突き抜けていく。

これがRadioheadだという説得力でもって、想像の遥か上を余裕で超えていく。

吸収と放出を同時に行うビッグバンド。



アリーナの前の方にいたから会場全体を見ることは出来なかったけれど、

会場に居合わせたラジオMCが今日のラジオで「マリンステージがあんなに満杯なのは珍しい」と言っていた。

2012年のフジロックに来た時もそうだった。

確かエルビス・コステロが終わる頃か、急いで前の方に行こうとしたけど人が多すぎて断念した。

あの時はかなり遠くからゆったり見たけど、森の中で聞くRadioheadも最高だった。

2012年フジロックと同じく昨日のチケットも売り切れていたと聞いている。



昨日、"Airbag"に次いで"Reckoner"が終わり高揚感で満たされた中、静かにはじまったギターリフで会場がどよめいた。

聞きたいなんて願望すらおこがましく思える程の名曲"No Surprises"だった。

瑞々しい音の実体が体にしみ込んでいく。

隣に居た背の低い女性が号泣していた。



半分放心したような状態で迎えたアンコール、1曲目はまさかの"Let Down"、これも3作目の名曲。

その後数曲続いてMCに入った。

トム・ヨークが何やらごにょごにょと言った後間が開いて小さく「Yes」と言ったのが聞こえた。



始まったのは、"Creep"だった。



一瞬時が止まって次の瞬間、スタジアム全体が一斉に驚喜した。

地面を揺らす程の観客の叫びが鳴り響いた。

空高く掲げられた手、手、手、

どこまでも続く手、手、手、

信じられないと頭を抱える者、

両手で顔を覆う者。

大げさでなく、あの瞬間は一生忘れない。



I wish I was special

You're so fuckin' special

ガガッガガッ

ウォォォォォッォォォォォォーーーー!

But I'm a creep, I'm a weirdo

What the hell am I doing here?

I don't belong here.



バンドの音、トム・ヨークの歌声、観客の歌声、全ての音が共振していた。



音楽ファンの間でバンドの音楽性の変化がよく話題に上がるが、Radioheadも変化の道を辿ったバンドだ。

1作目のPablo Honeyに収録されている"Creep"が売れすぎて本人たちを苦しめたのは有名な話。

そこからの逸脱を求めるのは至極当然のことに思う。

そうした中アルバム2作目から3作目、3作目から4作目の変化は急激で、それが丁度90年代から2000年代という時代の節目と重なった。

もう十数年も前の話だ。



昔の曲をライブで聞くというのはレアなことでその体験はファンにとってとても大切なこと。

どんなバンドでも言えることだが、Radioheadはそういうイメージが一際強い。

Radioheadにおいて、その究極ともいえる曲が"Creep"である。

日本人にとって特にそうなのかもしれない。

ライブで封印してきた"Creep"を2003年のサマソニで解禁したことが伝説として語り継がれており、それ以来日本で未だ一度も演奏されていない。

その物語が日本人が持つ"Creep"に対する信頼と絆を強固なものにし、皆密かに"Creep"が聞ける日を待ち望んでいた。

好きか嫌いかということは関係なく、ただただ「特別」なのだと思う。



好きな曲をたくさん聞けたにもかかわらず今回"Creep"について書いたのは、"Creep"がもたらした現象があまりにも衝撃的だったからだ。

心からもの凄い瞬間に居合わせたと思う。

いろんなライブに行ったけどあんな体験は初めてだ。

スタジアムを埋める何万人もの観客の心が一つになったらどうなるのかという答えがあの場所にはあった。



そして昨日のライブは"Creep"で終わらなかったのが良かった。

"Creep"が答えな訳ではない。



最後は"Street Spirits"だった。

「まさか」が多すぎてよく分からなくなっているけれど、まさかThe Bendsの曲まで聞けるとは思わなかった。



ライブをライブと実感するのは案外難しい。

大抵、生で聞いた事実が過去になり言葉に代わり単なる記憶になる。

しかし昨日のRadioheadのライブは音が実体として胸に届き、見終わった後もその感覚は実感として生き続けると思う。




Radioheadがライブした直後のマリンステージ。



"Creep"の前のMCについて後から知ったのだけど、観客が「Creep?」と聞きその返答で「Yes」と言ったらしい。



セットリスト

1 Burn The Witch
2 Daydreaming
3 Decks Dark
4 Desert Island Disk
5 Ful Stop
6 2+2=5
7 Airbag
8 Reckoner
9 No Surprises
10 Bloom
11 Identikit
12 The Numbers
13 The Gloaming
14 National Anthem
15 Lotus Flower
16 Everything In Its Right Place
17 Idioteque
--------------------------
18 Let Down
19 Present Tense
20 Nude
21 Creep
22 Bodysnatchers
23 Street Spirit
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とまります

2016年08月08日 | 空想日記
バスに乗ったことがある人ならば、「とまりますボタン」を知らない人はいないはず。

押せば「次とまります」というアナウンスが鳴り、全ボタンが光るという簡単なシステムだ。

注目されるような話題性を持っているわけでもないし、かつて誰かがアレについて話しているところを見たこともない。

ましてや「あのボタンってさー」と誰かに話しかけようなど考えたこともない。

しかしなぜか昔から私はアレを日常の片隅に放っておくことが出来ない。



子どものころバス通学だったため馴染みも深い。

小学校低学年の頃、男の子たちは一番にボタンを押せたら勝ちというような遊びをしていた。

遊びというより暗黙のステータスのような感じだろうか。

私はそんなことには興味がないというような顔で、誰にも気づかれないように押すのが好きだった。

同時に誰かに押したのを気づかれることを恐れた。

注目されるのが好きじゃなかったのだ。


子どものころアレに悩まされることも何度かあった。

私の降りるバス停は終点だったのでボタンを押す必要がなかった。

それでも同じ村の子たちはおもしろがってボタンを押す。

もし押さなくてもたくさん乗っているから終点で止まってくれる。

問題は終点で降りるのが私ひとりのときで、ボタンを押すべきか否かを真剣に考えたものだった。

運転手と2人の車内、まず運転手は私の存在に気づいているのだろうかという心配からはじまる。

万が一気づいていなければ、ボタンを押さないとバスは村のハズレでUターンし私を乗せたまま市街地へ帰ってしまう。

バス会社の車庫で私に気づいた運転手はきっと相当に動揺することだろう。

そんなのは耐えられない。

だからといってボタンを押すにも私が押したとは思われたくない。

ボタンを押した場合運転手は「あいつが押したな、押さなくても止まるものを」と思うに違いないからだ。

そうやって「とまりますボタン」は幼き頃の自意識の芽生えを育む一助となったようななってないような。



そういうわけで、とにかくそのボタンは私にとって気になる存在なのだ。

現在住宅地に住んでいるため最寄りの駅までバスを利用しなければならない。

幸か不幸か私の降りるバス停は利用者が多く、普段私がボタンを押すことはほとんどない。

しかしちょっと気を抜くと他にいなくて通り過ぎてしまったなんとことも何度かある。

普段直接的なふれ合いがなにのにも関わらず、意識の中から消すと不利益を被る。

この絶妙な関係性の中でちょっとした親しみを感じるのも無理はないだろう。



ちなみにこのボタン、バスのサイズにもよるけれど一般的な路線バスの中では約30個程設置されている(数えた)。

どの場所にいてもボタンが押せるようにという運営サイドの親切心により、とんでもない場所に設置されたボタンはいったいいつ使われるのだろう。

また3箇所ものボタンが押せるラッキー座席があったり、気づかれにくい場所にある隠れボタンがあったりと「とまりますボタン」は奥が深い。



最後に断っておくけれど、私はいつなんどきもボタンについて考えているような「とまりますボタン」オタクではない。

単に今まで一度も外に発信したことのないボタンについての思いを1回だけ思う存分語ってみたかっただけだ。

昨年東急から「東急バス降車ボタンキット」が税込み3500円で発売されたらしい。

商品紹介の「ご自宅でも気軽にバスの降車ボタンの押し放題が楽しめるキットです」というのがなんだか可笑しい。

需要があるのだろうかと疑問だが、口に出さないだけで私のようにそのボタンへの思いを内に秘めている人は結構いるのかもしれない。

ボタンボタンと失礼しました。

そろそろ頭を切り替えます。

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美容院への道のり

2016年08月05日 | 日記
今まさに真夏、暑くて叶わない。

そこで思うのは髪を切りたいということ。



髪についての事情は諸説あり、

多く見える人も少なく見える人も実際の本数は同じであるとか、

髪が伸びるのが早い人は云々、

生活習慣が悪いと禿げるだとか禿げないとか。

何が正しくて何が間違っているのか分からないので、私の独断で話を進めようと思う。



私は美容院という場所が苦手である。

理由はいくつかある。



まず髪質の問題。

私は髪の毛が人よりかなり多い方だ。

さらに1本1本が太く剛毛、

前髪は癖っ毛で短く薄くすると前髪らしきそれは顔に対して約45度を保つ。

そのため前髪をつくりたい時は決してすいてはならない。

小学校4年生のころ母に髪を切ってもらったとき、

髪があまりにも分厚いものだからヘルメットとからかわれた。

生まれたとき既に髪の毛がフサフサだったといえば説得力もあるでしょう。



そういうわけで昔から美容師さんを困らせている。

切った後の感想は大抵「まぁいいか」という感じ。

もし気に入ったとしても美容師さんが少し不安そうな顔をしている。

失礼な話だ。

たまに「腕が鳴るぜ」みたな美容師さんもいるけどね。

そういうこともあって髪を切るのに結構抵抗があるわけだ。

結果、髪型どうこう問題はほっぽってとにかくストーンと下に伸ばすようになった。



もう一つの難問は美容院の空間作りが肌に合わないということ。

今まで行った美容院は大抵チェーン店だから、そこでの話しかできないけども。

美容院選びは以下の通りかなり受動的である。

高校生の頃は若者が行けそうな美容院が一つしかなかったし、

大学生の頃は大学に一番近い美容院で、

神奈川に来てからは多すぎてどこに行っていいいかさっぱり分からなかったので、

知り合いに勧められるがまま全国的にもかなりの大型のチェーン店に通っている(2年に1回くらい)。



チェーン店はだいたい雰囲気が似ている。

とにかく奇麗でなんだか斜に構えている。

以後その雰囲気を「大人すまし空間」と呼ぼうと思う。

大人すまし空間の一番の特徴であり一番おかしいのが、

みんな「当たり前」にその空間を受け入れるということ。

考えてみれば変なことばかりである。

店に入ると身だしなみに気を使ったお洒落な人がつかつかと現れ、

きれいな声でいらっしゃいませと言う。

一瞬ここは高級ホテルなのかと動揺するが、私は平常心を保たなければならない。

とっさにこちらもすまし顔をつくり口角を上げる。

動揺を悟られてはならない。

椅子に座るとすかさずファッション雑誌が鏡の前に何冊か置かれる。

アンアンだとかキャンキャンだとか。

ここも慣れた顔で置かれた雑誌を手に取る。

ページをめくる。

さらにめくる。

めくる。

…。

これなら子供用の絵本を読んだ方がましだが、顔には出さない。

髪を切ってくれる美容師さんは多少顔見知りなのでなんとなくほっといてくれる。

しかしシャンプーに入る時は見習い風の若い男性に変わってしまう。

継続してドライヤーをし始めると彼は話し始める。

「今日は天気がいいですね。」

ドライヤーの音が凄くて会話どころではないが、こちらも一生懸命彼のどうでもいい言葉を拾う。

その後マッサージまでしてくれるのだが、これがなかなか慣れない。

そこまで良くしてくれなくてもいいのにという感じである。



正直なところ、ちゃぶ台でもひっくり返したい気分だ。

何がおかしいのかというと、大人すまし空間は私を私でなくするということだ。

大げさだが、いつの間にかスタイリッシュな大人のお姉さんにされてしまうような感覚。

実際にそういう人なら何も問題ないのだけど、

そうでない人にとって過剰なサービスはきついものがある。



高校生になり初めて美容院に行ったとき心の底から思ったことがある。

それは「みんなにとって本当にこれが普通なのかな」ということ。

今でも鮮明に思い出せるあのとき感じた強烈な違和感は薄れはしたけどやっぱり消えなかった。



気づけば誘導されるがまま読みたくもない雑誌を膝に置いて今時の会話をしかっこいい髪型になっている。

はっきり言ってかなり間抜けな状況である。

美容師さんに問題がある訳ではない。

会社のコンセプトとあまりに芋臭い私に原因があるのだろう。

見方を変えれば、大人すまし空間は普段味わえない非日常でありそれを求めている人もいるのかもしれない。



解決策は他に合う店を探すことしかない。

しかし面倒くさがりなので自分の行動を改めることにした。

美容院に行く時は必ず本を持っていき、仏頂面で本に熱中する。

これにより問題は解決したかに思えた。

しかし、またやってくれたのが見習いの若い男の子(推定19歳)、

「その本好きなんですか?」

「はい(まだ途中だけど)」

「俺も好きなんですよ。めっちゃ面白いですよね。」

「はい(まだ途中だけど)」

「俺は映画が好きなんですけど、あの場面がよかったな。」

「!!!(まだそこまで読んでない)」

彼もきっと会話をしなければいけなくて、共通の話題を発見し盛り上がってしまったのだろう。

まぁいいか。

懲りずに同じ店に行く私も私だ。

いつもの美容師さんと話が盛り上がったりした時はなんだかんだで楽しいわけで、矛盾だらけの美容院論。



以前パチンコ屋さんで働いていたことがあるが、パチンコ屋ですら非日常を演出したがる時代だ。

パチンコ屋の場合はもともとのイメージが悪いから新規開拓のためには必要なのかもしれないけれど。

ということでいつになったら私は髪を切りにいくのだろうか。

美容院への道はまだまだ遠そうだ。
コメント (2)
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