Dr.K の日記

日々の出来事を中心に、時々、好きな古伊万里について語ります。

色絵 壽字文 小皿

2021年01月04日 14時54分18秒 | 古伊万里

 今回は、「色絵 壽字文 小皿」の紹介です。

 

表面

 

 

裏面

 

 

銘款部分の拡大画像

 

生 産 地 : 肥前・有田

製作年代: 江戸時代中期

サ イ ズ : 口径;14.6cm  底径;8.8cm

 

 

  この小皿は、昭和60年に、東京・平和島の「全国古民具骨董まつり」で買ってきたものです。

 この小皿にはいろいろと思い出があり、この小皿に接しますと、様々なことが思い出されます。

 その辺のことについては、かつての拙ホームページの「古伊万里への誘い」に書いてありますので、ここで、再度、それを紹介することで、この小皿の紹介に代えさせていただきます。

 

 

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         <古伊万里への誘い>

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*古伊万里ギャラリー105 古伊万里様式色絵壽字文小皿 (平成19年1月1日登載)

 実に華やかな小皿である。一見、中国の万暦赤絵を思わせる。

 私は、この小皿を昭和60年に購入したが、当時は、まだ私の鑑識眼も不十分で、どこで焼かれたものなのかよくわからなかった。売る方も、「中国製かもしれないね~」などと言っていたのでなおさらのことであった。一見、中国の万暦赤絵を思わせるところがあるので、中国物なのか古伊万里なのかの判断に迷ったとしてもやむをえなかったかもしれない。

 私の場合、はっきりと何時、何処で作られた物なのかがわからなくとも、その時点で気に入ってしまうとつい買ってしまうクセがある。買った後でいろいろと調べるのである。
 もっとも、その調べること自体も楽しみの一つとしている骨董好きは多いようだけれども、、、。

 この小皿については、幸い、その2年後の昭和62年に、「古伊万里バカ日誌44 古伊万里との対話(壽字文の小皿)」の所に記したように、私は、故今泉元佑さんの研究所兼自宅の玄関の所でこの小皿の類品と対面したのである。
 この小皿は5寸皿であるが、そのお皿は7寸皿であった。両者は、大きさが異なるだけで、構図等はほとんど変わらなかったと記憶している。

 そのことによって、私は、この小皿が古伊万里であることを確信したのである。最初はよく分らないものであっても、本で調べたり、美術館で調べたり、先輩から教えてもらったりしているうちに、だんだんと明らかになっていくように思う。また、その過程で、自分の鑑識眼も高まっていくのではないだろうか。

 今なら、この小皿の高台内を見ただけで、高台内の銘が、「大明」ではなく「天明」のように書かれていること、「嘉靖」が「嘉靖」ではなく「嘉 ?(女偏に青)」と書かれていることから、中国物ではないなと判断するところである。漢字の国の中国人なら漢字を間違えるわけがないからだ。また、高台内に、焼成中のヘタリを防止するために生じた目跡があるので、そのことだけからでも中国物ではないとわかるのである。材質的に、中国のものは、焼成中に高台内にヘタリなど生じないから、ヘタリ防止などをする必要がないので、目跡など生じないからだ。

 

 江戸時代中期      口径:14.6cm

 

 

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*古伊万里バカ日誌44 古伊万里との対話(壽字文の小皿)(平成18年12月筆)

登場人物
  主 人 (田舎の平凡なサラリーマン)
  寿 子 (古伊万里様式色絵壽字文小皿)

 

・・・・・プロローグ・・・・・

 主人は、数ヶ月前から、今回が正月に当たることでもあり、今回は是非ともこの小皿と対話をしようと決めていたようである。
 それで、さっそく押入の中から引っ張り出してきて対話を始めた。

 

主人:暫くぶりだな。でもね、お前には大きな思い出があるので、時々は、頭の中では思い出していたんだよ。

寿子:それはどんな思い出ですか。

主人:お前が我が家に来たのは、昭和60年の10月だ。東京から、この片田舎に来てもらったわけだが、当時は、東京にあっても、お前の出身地がどこなのか、よくわからなかったな。売る方も、「中国かな~?」なんて言っていたからね。でもね、「良い物でしょう!」なんてぬかして、値段だけはしっかりと取っていた。
 ところで、昭和60年頃というと、こんな片田舎にあっても、「柿右衛門は柿右衛門家で作られた物ばかりとは限らないらしい。」とか、「古九谷の出身地は伊万里らしい。」という情報が伝わってきていて、田舎の骨董仲間の間でも混乱が生じてきていた。
 そうしたなか、今では故人となられてしまったが、今泉元佑さんという方が、
  ① 「初期鍋島と色鍋島―その真実の探究―」 (昭和61年12月刊)
  ② 「古伊万里と古九谷―その真実の探究―」 (昭和62年2月刊)
  ③ 「古伊万里の染付―その真実の探究―」 (昭和62年5月刊)
という三部作を発表されたんだ。実に情熱的な内容の本であったし、当時にあってはユニークな説を展開されていたので、読んでいて私も感激したね。どんな方なのか、是非お会いしてお話をしてみたいものだと思った。幸い、「古伊万里の染付―その真実の探究―」の最後の所に、「なお私の研究所には、参考資料も蒐めて飾っていることだし、ご覧になりたい方、私の見解を聞きたい方は、いつでも訪問いただきたい。」とあったので、さっそくに、厚かましくも、研究所を兼ねたご自宅までおしかけてしまった。考えてみれば、そういう私も情熱的だったのかな~。たぶん、昭和62年の6、7月頃のことだったと思う。
 ご自宅には「古伊万里鍋島研究所」という表札もかかっていたな。突然の訪問にもかかわらず、『「古伊万里の染付―その真実の探究―」の最後に書かれた文章を読んで来訪しました。』との旨を告げると、故今泉元佑さんは大変に喜ばれ、大歓待をしてくれた。私には、まだ、先方の見解を拝聴出来るほどの能力はなかったので、古伊万里を巡る諸問題についての話はしなかったが、お互いが熱心な古伊万里コレクターであるという点では大いに盛り上がり、2時間ぐらいはお邪魔してしまったと思う。
 話は長くなってしまったが、その際に、お前の類品を見たんだ。さすがに研究所兼ご自宅のことだけあって、そこには多くの参考資料が展示されていた。その中にお前の類品があったんだよ。玄関にもショーケースが置かれ、その中にも参考資料がぎっしりと並べられていたわけなんだが、そこにお前の類品が飾られていたんだ。ただ、お前は5寸皿だが、そこにあったのは7寸皿だった。その時、私は、「やっぱりお前は古伊万里だった。」と確信したね。

寿子:その時、故今泉元佑さんに、「これは古伊万里にまちがいないんですか。中国物ではないですよね。」とは聞かなかったんですか。

主人:それは聞かなかったよ。だってそうだろう。先方は「古伊万里鍋島研究所」の参考資料として飾っているんだからね。そんなことを聞いたら先方に失礼だろう!

寿子:なるほど。それはそうですよね。反省です。

主人:そんなこんなで、故今泉元佑さんのこと、鍋島のこと、柿右衛門のこと、古九谷論争のことなどを思い浮かべる毎にお前を思い出すんだよ。

寿子:そうでしたか。そんな思い出にまつわっている私は幸せ者です・・・・・。

主人:ところで、故今泉元佑さんの「柿右衛門は柿右衛門家で作られた物に限らない。」旨の主張については、その後、多くの方の賛同を得ているところであることはお前も知ってのとおりだ。
 ただ、古九谷については、「色絵古九谷の名器は初期有田の色絵ではなく、結局は、幕末以降、明治、大正時代に焼かれた物である。」旨の主張は、多くの方の賛同を得られることなく今日に至っている。今日の大勢としては、「色絵古九谷=初期有田の色絵」だね。
 ところが、ごく最近になって、九谷側での発掘調査も進み、九谷側にも色絵窯跡らしい遺跡も発見されたこともあって、九谷側からの古九谷産地論争の反撃のノロシが上がるようになってきた。その主張の中の一つに、故今泉元佑さんのような主張が含まれていることは注目に値するね。
 私も、現在「古九谷」と言われている色絵古九谷の名品のすべてが初期有田の色絵物だとは思っていない。明治の頃に焼かれた物も含まれているのではないかと思っている。「古九谷」については、まだまだ研究の余地があると思っているよ。
 あれっ、今日はだいぶ脱線してしまったな。お前と話していたら、故今泉元佑さんを思い出し、古九谷論争にまで脱線してしまった。

 

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