作曲家の加藤和彦氏が亡くなりました。「やりたいことがなくなった」と自ら旅だったそうです。物事を創造する仕事に関わっている人たちは、時に他人にはわからないほどの苦悩が伴うのだろう・・・そんな思いがふとよぎりました。
写真は加藤氏率いるサディスティック・ミカ・バンドのアルバム「HOT MENU」('75年)。右2が加藤氏。ニュースでは「帰って来たヨッパライ」「あの素晴らしい愛をもう一度」の加藤和彦・・・と、まずは形容されています。もちろんこれらの歌は子供の頃や中学生時代によく聞こえてきましたのでよく知っています。でも僕にとっては多くの歌手やタレントが出したレコードに記されていた“作曲/加藤和彦”というクレジットが印象的です。
高校時代にフュージョン系ギタリストとしての高中正義を知り(当時“ブルー・ラグーン”の曲がヒット)、彼のバンドヒストリーをさかのぼるとサディスティック・ミカ・バンドに出会いました。上の写真の右1が高中正義です。ちなみに左1はドラムの高橋幸宏、のちのイエロー・マジック・オーケストラ(YMO)ですね。
フォーク全盛期における「フォーククルセイダーズ」からロックバンド「サディスティック・ミカ・バンド」への転身(という言葉があうかどうか・・・)にも驚きを覚えますが、当時の日本ではなじみの薄かったレゲエやロックとは言え軽い感覚のポップスを取り入れたり、ビジュアル重視といえるスタイルなどで後続のジャパニーズ・ロッカーに大きな影響を与えました。
62歳。残念です。
写真は加藤氏率いるサディスティック・ミカ・バンドのアルバム「HOT MENU」('75年)。右2が加藤氏。ニュースでは「帰って来たヨッパライ」「あの素晴らしい愛をもう一度」の加藤和彦・・・と、まずは形容されています。もちろんこれらの歌は子供の頃や中学生時代によく聞こえてきましたのでよく知っています。でも僕にとっては多くの歌手やタレントが出したレコードに記されていた“作曲/加藤和彦”というクレジットが印象的です。
高校時代にフュージョン系ギタリストとしての高中正義を知り(当時“ブルー・ラグーン”の曲がヒット)、彼のバンドヒストリーをさかのぼるとサディスティック・ミカ・バンドに出会いました。上の写真の右1が高中正義です。ちなみに左1はドラムの高橋幸宏、のちのイエロー・マジック・オーケストラ(YMO)ですね。
フォーク全盛期における「フォーククルセイダーズ」からロックバンド「サディスティック・ミカ・バンド」への転身(という言葉があうかどうか・・・)にも驚きを覚えますが、当時の日本ではなじみの薄かったレゲエやロックとは言え軽い感覚のポップスを取り入れたり、ビジュアル重視といえるスタイルなどで後続のジャパニーズ・ロッカーに大きな影響を与えました。
62歳。残念です。