2012 紅染月 4日
昨夜 我が家の裏で盆踊り
と言っても 僕が子供の頃とは様変わり
はっきり言って 盆踊りではありません
時期的にお盆でもないし
お寺の境内でもない
と云う表面の事ではなく
子供たちが 順番に台の上に乗って
ヒップホップだか何やらを踊り
台の下は順番待ちの子供たち と
それを撮ろうという 親御さんであふれ
おまけに 中学生が主体となった
出店が 軒を並べ
とても 健全な子供たちを地域で作る
と云う精神から逸脱しているように見える
大体 この都岡町にこんなに沢山の子供がいるのか?
別に 町内会の子供だけが参加するべきだとも思わないのだが
盆踊りは
三曲を二回
計 6曲かな
この時間も 舞台の下は 屋台に並ぶ人で溢れ
踊っているのは
台上の5人のみ
いつから このような形になってしまったんだろう?
母が 婦人部で活躍していた頃には
信じられない光景です
ある年 父が八王子の太鼓を借りに行こう
と、朝早く借りに行き
終わってから返しに行ったこともある
太鼓を叩くのは 姉と僕
近所のおじさんに チョット教えてもらい
アトは 適当に叩いていた
高度成長期
地方からも沢山人が集まっていた
当然 この曲は地元の曲
と云う 人がいる
その人が 太鼓のところに来て
叩かせて
と言って 叩く
それを見ていて 真似をする
と云う 繰り返しで
叩く バリエーションも増えていった
毎年 どこかの太鼓を借り
姉は叩くのを辞めてしまい
変わりに 近所の僕より年下の子に教えてあげた
だから 僕が小学校も高学年になる頃には
この辺の小学生
夏休みにも行く田舎のない元気な男の子は
皆 太鼓が叩けた
父は 盆踊りがあそこである
と聞きつけると・・・・?
案内状が来て
お祝いを持っていくときに 必ず僕を連れて行き
叩かせてもらえ
と、必ず僕を受付の人に頼み
叩かされた・・・・
中学一年の時 バレーボール部の合宿が町内の盆踊りと日程が重なった
すると 父は スイカを持って迎えに来て
顧問 コーチに訳を行って
僕を家に連れ帰り
終わってから又送ってくれた・・・・
父も相当に好きだ・・・・
でも、父自身は叩かない
八王子のお祭り太鼓は
チョット叩けるようで
たまにこんな感じ
と、教えてくれた事もあったが
僕にはできなかった
やはり お祭りの太鼓は
パートごとの人が集まって完成されるもので
太鼓だけでは 面白さが半減する
そんな 武者修行みたいな盆踊りの太鼓
とある会場で叩かせてもらう事になり
おじさんの中へ
すると
バチは?
と聞かれた
そのくらい叩けるなら 自分のバチを持った方が良い
と言われ 父に言うと
早速樫の木で作ってくれた
昭和52年
町内会で太鼓を買ってくれた
昭和58年父が亡くなった
平成11年母が亡くなった
太鼓を買ってくれた年号を良く覚えているな
と お思いでしょう~
実は 昨日実に 13年ぶりに町内の太鼓を叩いた
その時に太鼓に彫ってあるのを見たんです
父が亡くなった年には叩かなかった
母も 当然のように踊らなかった
でも、翌年
母が 供養だから お盆 の踊りだから
と、踊り 僕にも叩け
と、言われ チョットだけ叩いた
その頃は
僕の後輩たちが 何人も叩いていたのだ
その後 僕は消防団で
盆踊りの警備をやるようになり遠ざかり
最後の一曲だけ
と云う 年が続き・・・・
遂に 母が亡くなってからは全く叩かなくなった
それが 先週 突然 町内婦人部の部長さんがお店に見え
太鼓を叩く人がいないから叩いてくれない?
と、言ってきた
だって沢山叩ける人いるでしょ
と云うとそれが 皆転居したり
仕事でいない
と言う事で
それなら
と、返事をしてしまい
二年前焼き鳥屋さんのお金をもらう係りをやらされた時に
10年ぶりくらいに 家の前の盆踊り会場に足を運び
それでも 端で焼き鳥屋さんだったので
盆踊り会場を一瞬たりとも見なかった
それを今年 13年ぶりに見て・・・・・
先のビックリした感想を持った
我が家の子供たちが小学生 中学生だったら
参加させるか?
その時期に併せて キャンプに行くな
きっと
終わってから ヨーヨー釣りの大きな水槽の水を
中学生の 男の子と女の子で頭から掛け合い
全身びしょびしょで大騒ぎしている
それを 小学生が見ている
それを見ている 町内の副会長さんたちはないも言わない
僕が 何かしら関わっていたら
あんな事は・・・・・
大体 小学生 中学生に
テキヤ の真似事をさせて
他に もっと やる事はないのだろうか?
盆踊りなんだから・・・・・・
昨夜 我が家の裏で盆踊り
と言っても 僕が子供の頃とは様変わり
はっきり言って 盆踊りではありません
時期的にお盆でもないし
お寺の境内でもない
と云う表面の事ではなく
子供たちが 順番に台の上に乗って
ヒップホップだか何やらを踊り
台の下は順番待ちの子供たち と
それを撮ろうという 親御さんであふれ
おまけに 中学生が主体となった
出店が 軒を並べ
とても 健全な子供たちを地域で作る
と云う精神から逸脱しているように見える
大体 この都岡町にこんなに沢山の子供がいるのか?
別に 町内会の子供だけが参加するべきだとも思わないのだが
盆踊りは
三曲を二回
計 6曲かな
この時間も 舞台の下は 屋台に並ぶ人で溢れ
踊っているのは
台上の5人のみ
いつから このような形になってしまったんだろう?
母が 婦人部で活躍していた頃には
信じられない光景です
ある年 父が八王子の太鼓を借りに行こう
と、朝早く借りに行き
終わってから返しに行ったこともある
太鼓を叩くのは 姉と僕
近所のおじさんに チョット教えてもらい
アトは 適当に叩いていた
高度成長期
地方からも沢山人が集まっていた
当然 この曲は地元の曲
と云う 人がいる
その人が 太鼓のところに来て
叩かせて
と言って 叩く
それを見ていて 真似をする
と云う 繰り返しで
叩く バリエーションも増えていった
毎年 どこかの太鼓を借り
姉は叩くのを辞めてしまい
変わりに 近所の僕より年下の子に教えてあげた
だから 僕が小学校も高学年になる頃には
この辺の小学生
夏休みにも行く田舎のない元気な男の子は
皆 太鼓が叩けた
父は 盆踊りがあそこである
と聞きつけると・・・・?
案内状が来て
お祝いを持っていくときに 必ず僕を連れて行き
叩かせてもらえ
と、必ず僕を受付の人に頼み
叩かされた・・・・
中学一年の時 バレーボール部の合宿が町内の盆踊りと日程が重なった
すると 父は スイカを持って迎えに来て
顧問 コーチに訳を行って
僕を家に連れ帰り
終わってから又送ってくれた・・・・
父も相当に好きだ・・・・
でも、父自身は叩かない
八王子のお祭り太鼓は
チョット叩けるようで
たまにこんな感じ
と、教えてくれた事もあったが
僕にはできなかった
やはり お祭りの太鼓は
パートごとの人が集まって完成されるもので
太鼓だけでは 面白さが半減する
そんな 武者修行みたいな盆踊りの太鼓
とある会場で叩かせてもらう事になり
おじさんの中へ
すると
バチは?
と聞かれた
そのくらい叩けるなら 自分のバチを持った方が良い
と言われ 父に言うと
早速樫の木で作ってくれた
昭和52年
町内会で太鼓を買ってくれた
昭和58年父が亡くなった
平成11年母が亡くなった
太鼓を買ってくれた年号を良く覚えているな
と お思いでしょう~
実は 昨日実に 13年ぶりに町内の太鼓を叩いた
その時に太鼓に彫ってあるのを見たんです
父が亡くなった年には叩かなかった
母も 当然のように踊らなかった
でも、翌年
母が 供養だから お盆 の踊りだから
と、踊り 僕にも叩け
と、言われ チョットだけ叩いた
その頃は
僕の後輩たちが 何人も叩いていたのだ
その後 僕は消防団で
盆踊りの警備をやるようになり遠ざかり
最後の一曲だけ
と云う 年が続き・・・・
遂に 母が亡くなってからは全く叩かなくなった
それが 先週 突然 町内婦人部の部長さんがお店に見え
太鼓を叩く人がいないから叩いてくれない?
と、言ってきた
だって沢山叩ける人いるでしょ
と云うとそれが 皆転居したり
仕事でいない
と言う事で
それなら
と、返事をしてしまい
二年前焼き鳥屋さんのお金をもらう係りをやらされた時に
10年ぶりくらいに 家の前の盆踊り会場に足を運び
それでも 端で焼き鳥屋さんだったので
盆踊り会場を一瞬たりとも見なかった
それを今年 13年ぶりに見て・・・・・
先のビックリした感想を持った
我が家の子供たちが小学生 中学生だったら
参加させるか?
その時期に併せて キャンプに行くな
きっと
終わってから ヨーヨー釣りの大きな水槽の水を
中学生の 男の子と女の子で頭から掛け合い
全身びしょびしょで大騒ぎしている
それを 小学生が見ている
それを見ている 町内の副会長さんたちはないも言わない
僕が 何かしら関わっていたら
あんな事は・・・・・
大体 小学生 中学生に
テキヤ の真似事をさせて
他に もっと やる事はないのだろうか?
盆踊りなんだから・・・・・・